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俺たちは聖徳太子パイセンのことを見誤っていた⑤(最終回)

問題だらけの日本を立て直した聖徳太子(太子パイセン)の偉業を紹介する」シリーズもいよいよ最終回です。

おさらいすると、太子パイセンが推古天皇の摂政に就いた当時、日本はこんな難局に直面していました👇

1) 親族同士で殺し合う血なまぐさい内乱、疫病の蔓延、崇仏派と排仏派の対立、中央(天皇)と地方(豪族)の分断が続く日本社会をいかに立て直すのか。
2) 隋の中華統一により目前に迫った外交上の脅威。中華思想に飲み込まれずに日本の独立自尊をどう守るのか。

前回2)について紹介しました。今回は1) つまり「内憂」をどのように立て直したかを紹介します。

聖徳太子パイセンの内政立て直し構想

日本の内憂を取り除くため太子パイセンは数々の施策をやりましたが、各施策の背後に一つの通底した構想がありました。その構想を一言で表すとしたら、これに尽きます。

『人々に新時代の到来を予感させ、意識の転換を図る!』

©集英社/尾田栄一郎 「ONE PIECE」

みたいな感じで。

この構想は、現代の日本にも通じる・・・というか現代の日本にこそ必要だと思います😂
(一体いつまで「失われたン十年」とか言ってるのやら・・・🤔)

新時代の到来を告げるオペレーション①人事制度の刷新

まず紹介したいのは「人事制度の刷新」です。

ここでいう人事制度とは「組織上のポジションとか処遇とか序列を決める仕組み」という意味です。

現代に生きる私達からすれば、学校、会社、行政などの組織で人事制度が変わるというのは別に珍しくもないと思います。しかし、太子パイセンがいた飛鳥時代の行政(朝廷)は「人事制度」と呼べるものではありませんでした。それを新しく刷新したのが太子パイセンであり、その手段こそ前回も紹介した「冠位十二階制度」です。

冠位十二階は何がスゴいのか

ビフォーアフターで考えてみます。冠位十二階制度ができる前、行政の担い手である官僚や役人はどのような人事制度で決まっていたのか。それは「氏姓制度」といって血縁関係にもとづく世襲制でした。

そのため朝廷には有力豪族の子弟しか入れず、そこに実力の有無は関係ありませんでした。これが冠位十二階の導入により、たとえ農民出身の庶民でも才覚があれば朝廷に就職できるようになりました。

しかし、冠位十二階の最大のポイントはそこではありません。重要なのは「」を使ったことです。いくら才覚が認められて朝廷に就職できたとしても、農民出身の上司の下に豪族出身の部下がついて果たして機能するでしょうか?上司も部下も「周囲からどう見られるだろうか」とか余計なことを気にするあまり「部下に強く言えない上司上司の言うことを素直に聞けない部下」が生まれかねません。これでは本来のパフォーマンスが発揮できなくなります。そこで太子パイセンは「序列ごとに色を分けた冠」を作ったわけです。

画像引用元:https://hotokami.jp/articles/241/

こうすれば

「AさんよりもBさんの方が"上"ですからね!」

というトップの意思を誰が見ても明らかにすることができ、この冠を被っている間は上司も部下も周囲の人も、冠の色に応じた振る舞いをしやすくなりますよね。

前回のポストで「冠位十二階制度」の導入は「政治システムと思想哲学の融合」による対中戦略の一つだと解説しましたが、内政的にはこのような意義も持っていました。

こんな風に人事制度を刷新されたので、それまで世襲でボンクラでも朝廷に入れていた豪族の子弟達はたまったものではなかったことでしょう。

一方、朝廷に入って官僚として仕えるなんて自分たちには無縁の世界だと思っていた一般庶民からすれば

「ウチの子が官僚に!?なんかスゲェ時代になったな!」

ってな感じに思えていたのではないでしょうか。

朝廷としても、世襲でボンクラが入ってくるよりは身分が低くても有能が人が入って才覚を発揮してくれた方が国家運営は良くなるに決まってますからね。

新時代の到来を告げるオペレーション②大乗仏教のフル活用

一般に太子パイセンは「仏教に篤く帰依し、仏教中心の国づくりを推進した人」と称されています。

しかし、太子パイセンの仏教に対する熱量と、その熱量が日本に与えたインパクトはこんな一文では語り尽くせないほど大きいものでした。

神がかったセレクション 「三経義疏」

当時、太子パイセンが作ったとされる仏教の経典の解説書があります。

その解説書は三経義疏(さんぎょうぎしょ)と呼ばれ、具体的には以下の3つの経典について解説したものです。

「維摩経」
「勝鬘経」
「法華経」

何がスゴイってこのセレクションです。神がかってます。「この3つを選んできたか!」っていう。

そもそも仏教が日本に伝来したのは552年(欽明天皇の頃)です。
太子パイセンがこの3つの経典の解説書を書いたのは611~615年頃ですから、日本に伝わってまだ数十年しか経っていない最新鋭の思想哲学である「仏教」は蘇我氏を始めとしたごく一部の知識層しか知らないものでした。それを新しい国家づくりの指針として用いるにあたって、数ある仏教経典の中からこの3つを選んだのがとってもスゴイんです。

どういうことかというと、この3経典は仏教の歴史上最大のイノベーション(大転換)の産物である「大乗仏教」の精神を端的に伝える経典だからです。

大乗仏教は仏教史上最大のイノベーション

「大乗仏教がイノベーション」と言われてもピンとこないかもしれませんが、大乗仏教の登場は例えるなら「コペルニクス的転回」とも言うべきものです。「天動説」が全盛の時代に「地動説」登場!それぐらいインパクトのある転換でした。(※仏教の場合、天動説にあたるものが否定されたわけではないですが)

例えば大乗仏教が登場する前の仏教は「出家」が前提でした。悟りを得たいと思ったら仕事も家族も財産も人間関係も全てを投げ売って出家し、長く苦しい命の危険を伴う修行に耐える必要があると考えられていました。女性に至っては出家すら認められていません。

ところが大乗仏教では、悟りを得るのに「出家」や苦しい修行は不要であり、女性でも誰でも、日々の生活を通じて悟りを得ることができる、仏に成れると説きます。以前の考え方(上座部仏教)とは全く異なる、破壊的な転換ですよね。

太子パイセンは、この仏教界のイノベーションの産物である大乗仏教を、問題だらけの日本を一新するための起爆剤として活用したわけです。実際に太子パイセンが解説書を書いた3つの経典の内容をざっくり解説するとこんな感じです👇

「維摩経」
維摩経は、出家していない商人である維摩居士(ゆいまこじ)が主人公で、お釈迦様が説いた仏教の根本理解について修行中の僧侶に維摩居士があれこれとツッコミを入れまくります。出家した修行僧が出家していない維摩居士にやり込められるというお話です。

「勝鬘経」
勝鬘(しょうまん)夫人という女性が主人公のお話で、女性でありながら自らの悟りの境地をお釈迦様に説き、お釈迦様にそれが認められるというお話です。

「法華経」
出家とか在家とか関係なく、人は平等に悟りを得られ、誰でも仏になることができるというお話です。

実は家康も同じことをやっていた

このように太子パイセンは大乗仏教の教えを活用することで、人々に新時代到来の意識転換を図ったわけですが、同じことをやった日本人の偉人がもう一人います。血なまぐさい中世(戦国時代)から太平の近世(江戸時代)へと転換した徳川家康です。

家康は以下の言葉(スローガン)を掲げて戦乱の世を戦っていました。大河ドラマでも出てきますよね。

「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)

厭離穢土 欣求浄土

これも仏教の考え方を取り入れた言葉ですが、意味としては「穢れた現世とはオサラバし、現世に清らかなる浄土を打ち立てるぞ!」という意味です。

太子パイセンも単に「仏教を普及した」で片付けるのではなく、仏教の教えの中から大乗仏教のこの3つを選んで解説することで「うんざりすることばかりの現世とはオサラバし、新しい時代を迎えるぞ!」というつもりで三経義疏をしたのではないでしょうか。

新時代の到来を告げるオペレーション③インフラ整備

最後はインフラです。太子パイセンが建立した寺院の中で、人々に新時代の到来を感じさせたであろう最たるものが四天王寺です。

四天王寺

四天王寺の何が画期的であったかというと、単に仏教の寺院という役割を超えた社会的役割(四箇院制度)を持たせた点にあります。

四箇院制度

四箇院制度とは「敬田院」「悲田院」「施薬院」「療病院」の4つの院で構成されており、今風に言えばメディカルセンターです。

「敬田院」「悲田院」は病に苦しむ人々や身寄りのないお年寄りや子どもたちをケアするための社会福祉施設にあたり、「施薬院」「療病院」は医療機関にあたりました。飛鳥時代以降、日本において長らく仏僧の役割は宗教者であると同時に教師、医者、薬剤師、政治指導者など様々な役割を担いましたが、仏教が日本社会の医療や社会福祉を支える起点となったのが四箇院制度であり四天王寺です。

まとめ

ここまで内憂外患の日本を立て直すため、太子パイセンがどのようなオペレーションをやってきたかを見てきました。紹介してきたオペレーションの中には「実際にはこれを聖徳太子がやったとは限らない」という言説もあるようですが、第1回のポストで書いたように「正直、そんなことはどうでもいい」と個人的には思ってます。なぜなら、当時の日本が抱えていた問題をどのように乗り越えたのか、そのアプローチや考え方をいかに現代の問題に適用するかを考える方が重要だからです。(もちろんアカデミックな文脈で聖徳太子の実在を明らかにすることの意義を否定するつもりはありません)

さいごに

さて、ここまで来てようやく第1回ポストのフリが回収できました。

令和4年2月時点の第2次岸田内閣の顔ぶれ

政治家の皆さん、ちっとも新しい時代が到来する予感が全くしません。chat-GPTくらいでしょうか。もっと太子パイセンを見習ってくださいよ!!

おしまい。

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