「ポスト・セカイ系」としての『輪るピングドラム』―「透明な存在」のために―【1/3】



序章:「セカイ系」の欠落点

 「セカイ系」なんて議論されつくされている、そう思っていないだろうか。たしかに「セカイ系」と呼ばれる物語が流行したのは1990年代後半であり、それについての議論は2010年を境に終息しているように見える。
 しかし、今まで触れてきた「セカイ系」についての議論において致命的に欠けている部分がある。それは男女の非対称性である。
 本題に踏み込む前に、「セカイ系」の定義とこれまでの議論を振り返っておこう。東浩紀は「セカイ系」について、主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手との小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力を持つ物語、と定義している。また、前島賢の『セカイ系とは何か』によると、巨大ロボットや戦闘美少女、探偵などオタク文化と親和性の高い要素やジャンルコードを作中に導入した上で、若者(特に男性)の自意識を描写する物語である。
 「セカイ系」の流行した社会的背景については、東浩紀が大塚英志や大澤真幸の議論を引きつつ、こう述べている。近代国家を機能させる目的において、構成員を団結させるために用いられた理念やイデオロギーなどの大きな社会的システムの総称である「大きな物語」が機能しなくなったことで、「大きな物語」と等価な虚構の〈大きな物語〉を生み、やがて1990年代には、作品の断片的な情報や設定などのデータベース──つまり「小さな物語」──だけを消費する物語が発生し、そのうちの一つが「セカイ系」だったという。また「セカイ系」作品に頻出する「戦闘美少女」というキャラクターに着目した斎藤環も、「セカイ系」に関する東の議論を批判していた宇野常寛も、最終的に至った結論は異なっている一方で「セカイ系」の背景についての議論は東と大差ない。
 では、このような議論のどこが問題なのか。一見すると、これらは当時の社会背景を包括的に捉えながら、時代を象徴する物語としての「セカイ系」をあぶりだしているかのように見える。だが実際のところ、彼ら男性批評家達が取り上げるのはヘテロセクシャルな男性が見ることを暗黙の前提とした「セカイ系」作品ばかりなのだ。すはわち、彼らの分析する「セカイ系」は、奇妙なことに一つの例外もなく、男性主人公が美少女に感情移入し、受け入れられるという、男性目線の恋愛物語であることが前提になっているのだ。なかでも宇野と斉藤は、明確に男性主人公の視点に限定して議論を展開している。そのような限定を明示的にはしていない東にしても、「セカイ系」的作品として挙げるのはいわゆる「美少女ゲーム」がほとんどであり、その「美少女ゲーム」を当時の女性が広く受容していたかといえば、けしてそうではない。
 これに対する反論として、「セカイ系」作品を受容していたのは女性ではなく男性だという主張が出てくるだろう。たしかに、これらの議論は当時の社会現象であるオタクに着目したことから始まるので、女性について触れないのは全くもって自然である。1990年代から2000年代のオタクをイメージしろと言われたら、誰しも男性を想像するだろう。『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーに萌えていたのは男性のオタク達であることに間違いはないし、「セカイ系」作品の中で、多くの戦闘美少女がイコンとして登場し、男性のオタク達に消費されていたのは指摘されていた通りである。
 だがこれだけの議論で、当時の社会や時代を完全に説明できたとするのはいささか早計である。というのも、男性のみが受容者の「セカイ系」作品を取り上げるだけでは、当時の社会背景を完全に説明できるはずがないからだ。つまり、今までの「セカイ系」を用いて社会を包括的に語ってきた議論は不完全なものだったということだ。
 そしてこの「セカイ系」の議論において見過ごされてしまった穴を埋めるのが、幾原邦彦監督の作品である。最初の監督作品である『少女革命ウテナ』では、今までの議論にない女性の視点という切り口で「セカイ系」を描いた上で、「セカイ系」という物語枠を批評している。さらにその次作の『輪るピングドラム』では「セカイ系」の社会的背景を物語に組み入れて提示した上で、「セカイ系」が台頭した時代の後の物語枠、言うなれば「ポスト・セカイ系」を提示している。
 ただし、今回の議論はフェミニズムに行き着くわけではないことを留保しておきたい。現在まで成されてきた「セカイ系」に関する非対称的な議論を少しでも対称的にするために、女性目線の「セカイ系」が必要であるということにすぎない。そして繰り返しになるが、その女性目線の「セカイ系」を描いた上で、「セカイ系」と「セカイ系」の後の物語の社会を偏りなく描く目線を持っていたのが幾原邦彦監督の『少女革命ウテナ』と『輪るピングドラム』という二作品だったのだ。
 まずは、既存の「セカイ系」の議論では見落とされていた論点を拾い上げるために『少女革命ウテナ』を用いて女性目線の「セカイ系」についてまずは考えたい。

1章:「セカイ系」を呼び寄せた少女達の「王子様物語」

 『少女革命ウテナ』は1997年に放送されたテレビアニメである。これは、「セカイ系」作品と言われる『新世紀エヴァンゲリオン』とほぼ同時期の作品ではあるものの、今までの議論は全くと言って良いほど触れないできている。
『少女革命ウテナ』はどのように「セカイ系」の構図を盛り込んでいるのか。『少女革命ウテナ』は鳳学園が舞台のいわゆる学園モノであり、姫宮アンシーという「薔薇の花嫁」とエンゲージしている者にのみ「世界を革命する力」が与えられ、アンシーとエンゲージするポジションを争うために学校の広場で決闘が開かれるという設定である。アンシーは非常に従属的な少女であり、エンゲージしている者と恋愛関係を持った上で相手に所有される役目を負っている。そして学園外部の社会の様子は一切描写されない。これらの描写は、まさに「セカイ系」の定義に沿った部分を含んでおり、「セカイ系」の構図が描かれていると十分に言える。
 そして今までの「セカイ系」の議論で取り上げられた作品とは違って、作品受容者は女性が多い。『ユリイカ』の第49巻 第15号『総特集 幾原邦彦:僕たちの革命と生存戦略』には多くの女性が寄稿しており、その中で幾原邦彦を尊敬する女性クリエイターが多く存在することや『少女革命ウテナ』を少女時代に同性の友人と見ていたエピソードも語られる。
 ここまでの説明だけでは、『少女革命ウテナ』は「セカイ系」の主人公である少年の代わりに、彼の相手である美少女に焦点を当てただけの作品のように思う人も多いだろう。しかし、『少女革命ウテナ』は「セカイ系」の構図に批判的なまなざしを向けた上で、「セカイ系」には関係がないという振りをする女性も批判している。
 その結論を導く重要な設定がある。それは決闘ゲームを仕組んでいる黒幕が、アンシーの兄である鳳学園理事長代行の鳳暁生であり、決闘ゲームの目的とは唯一無二の存在だったと同時に鳳暁生のかつての姿でもある「王子様」を蘇らせるというものだ。
 この決闘ゲームには「セカイ系」的な構造があるというのは先述の通りだが、男性がアンシーというお姫様(「薔薇の花嫁」)を媒介にして「王子様」を蘇らせようとするゲームの趣旨は「セカイ系」の本質をついている。男性は「王子様」として存在し、何でも受け入れてくれる従属的な美少女のお姫様と一対一の関係で結ばれていたい、ということだ。
 しかし、他の「セカイ系」作品との決定的な違いがある。アンシーはお姫様である一方で〈魔女〉でもあるのだ。そしてその〈魔女〉は「王子様」がいなくなった後に「気高き若者を生贄にするべく、この世界を徘徊している」存在なのだ。上田麻由子が指摘するように、決闘ゲームにおける犠牲者はお姫様である「薔薇の花嫁」だけでなく、「王子様」のデュエリスト達のことも指す。
 このように、決闘ゲームは男性と女性が互いに利用し、互いを犠牲にしているものである。「セカイ系」という一見女性が消費される客体のように見える物語に、実は女性も積極的に加担していたことが分かる。
 これが『少女革命ウテナ』の特異点である。美少女があくまで主体として「セカイ系」に関わっている『少女革命ウテナ』は、従来の「セカイ系」の定義では説明しきれなくなる。
 ここで「セカイ系」の従来の定義に加えて、新しい定義を示したい。それは「セカイ系」の世界は作品受容者の自意識と等価であり、「セカイ系」という物語によって自意識への救済を行っていたというものである。
 このために重要な指摘が二点ある。それは、前島の「セカイ系」とは自意識について言及した作品であるという指摘と、「セカイ系」の作品では世界の危機が描かれるものの、その詳細の描写はほぼされないという指摘である。この二つの指摘をつなげると、その危機に陥っている世界は、まさに主人公や彼に自己投影できてしまう作品受容者の自意識を表象していると言うことができる。自意識について語る自己言及性の高い作品になるのは、自意識が危機に陥っているからこそと言える。
 それならば「セカイ系」が社会を描写しないのは、幼稚でも何でもなく当然のことだ。〈作中の世界=自意識〉であるなら、社会は個人の自意識の外に存在するので、社会は主人公たちの生きる世界の外に存在する何かとして描かれるのが自然だ。そして「セカイ系」作品で〈作中の世界=自意識〉を危機状態に追いやっている得体の知れない敵として描かれるのが社会なのではないか。
 そして危機に陥った自意識を救うのが、「セカイ系」作品における美少女と主人公の少年の一対一の依存的な恋愛関係である。作品受容者はその美少女を感情や自己の受容先として求めるが、それは彼らの自意識を支えるために作中の一対一の恋愛関係が求められているからだ。その美少女が世界の危機に巻き込まれて戦闘美少女として描かれることが多いのもこのためである。自意識の強化をするための触媒のような人物が「僕」の代わりに〈作中の世界=自意識〉を攻めてくる得体の知れない敵、つまり社会と戦ってくれるという表象が生まれるのは自然な発想ではないか。
 しかしその少女は真の他者とは言えない。彼女たちはただの人形であって中身の伴った人間ではない。自己の受容先としてのみ存在する他者は、自己をきれいに映し出すスクリーンであることを要求される。その他者に中身は伴ってはならず、そのような存在はあくまでも自己の分身に過ぎない。
 ここで『少女革命ウテナ』に議論を戻そう。今までの議論を踏まえると、作品の舞台である鳳学園は自意識の世界とすることができるだろう。鳳学園が社会に組み込まれているという描写はなく、一切が学園内で完結しているからだ。そして「薔薇の花嫁」とエンゲージする者という一対一の恋愛関係によって「世界を革命する力」──言い換えるならば「自意識を革命する力」──を獲得しようと決闘が繰り広げられる。
 しかしその自意識は男性のものではない。『少女革命ウテナ』というタイトルが示す通り、最も重要なテーマになっているのは少女の自意識なのだ。そして少女の自意識の何が問題なのかというと、「セカイ系」を招き入れることになる、存在しない「王子様」への執着心を持つことなのだ。
 そしてこの「王子様物語」の問題点とは、「セカイ系」とまさに同じ構造を持っていることだ。「王子様物語」とは、男女の一対一の恋愛関係が軸となっていて、ひたすら待ち続けていれば自分を助けてくれる王子様がきっとやってくるという内容だ。そして、その「王子様」は誰を助けていたのかと言うと、「クリスマスイブなのに一人」であるなどの自意識に関わる問題を抱えていた女の子である。つまり、「王子様物語」も「セカイ系」と同じように一対一の恋愛関係によって自意識を強化するという構造を持っている。かつては機能していた「王子様」が現実的な効力を失って、やがて虚構の「王子様物語」となったとき、それは「セカイ系」という虚構の構造と表裏一体の関係になり、「セカイ系」を支える物語へと変化したのだ。
 だが「セカイ系」と「王子様物語」に共通する、一対一の恋愛関係にある異性の相手に自意識の強化を求めるという志向性は、一方通行でしかないために相手を空虚な存在にしているに過ぎない。それではどうしたら「薔薇の花嫁」と「王子様」は解放されるのだろうか。
 その「薔薇の花嫁」を救って決闘ゲームを終わらせようとしたのが天上ウテナというキャラクターである。彼女は決闘ゲームを否定し、「薔薇の花嫁」を救うために戦い続けて「セカイ系」と「王子様物語」の構図を変えようとする。
 そしてアンシーとウテナは鳳学園と「薔薇の花嫁」から逃れることに成功する。つまり、ウテナは「セカイ系」や「王子様物語」によって自意識の強化を行うのではなく、自分の戦いによって「セカイ系」的構造によって成立する自意識から脱することに成功している。
 そのウテナの戦いを可能にしているのは、ウテナとアンシーという少女達の一対一の友愛である。ウテナが「王子様」に最終的になれなかったのは、アンシー相手の恋愛において男性的な役割を負わないということの示唆である。新たに「王子様」を打ち立てて現在の「王子様」を負かすだけでは今までと同じ繰り返しになってしまう。
 そこで、「セカイ系」的な一対一の恋愛関係からウテナとアンシーの友愛関係を区別するものは何であろうか。それはアンシーを「セカイ系」から解放するためにウテナが剣を取って鳳暁生と戦う前の回想シーンで描かれていた、利己性を互いに受け入れるという行為である。ウテナとアンシーは完全な利他の精神による友情で結ばれていたわけではなかった。しかし、彼女達は互いに「あなたの優しさに私はつけこんでいた」や「君の痛みを無視して本当は君を守っているつもりでいい気になっていたんだ」などと二人の関係において、相手を利用するなどして互いが利己的であった部分を告白しあって、その事実を受け入れている。
 このような互いに利己的な部分を告白し合って受け入れるシーンは「セカイ系」や「王子様物語」ではありえない。というのも、この二つの物語において必要とされているのは空虚な他者だからだ。その関係に留まる限り、私達は自分以外から攻撃を受けない世界を築けるが、それは社会に出たくないから引きこもるのと同じことである。
 しかし、友愛ならば、互いの利己的な側面を受容することでお互いへの志向性が交わり、他者は初めて中身の伴った他者として機能することができるようになる。友愛ならば自己閉塞から脱することができると『少女革命ウテナ』は可能性を求めている。
 まずはこの少女同士の友愛による物語を提起しておきたい。『少女革命ウテナ』では「セカイ系」も、それを招き入れた「王子様物語」も批判的に描写し、従来の議論における「セカイ系」の定義を塗り替える。その「セカイ系」という相手を空虚な存在にする物語から脱却するために、互いに利己的であることを認められる関係性である少女同士の友愛による物語を『少女革命ウテナ』は提示している。

2章:「セカイ系」と終末思想

 さて、「セカイ系」から脱却したのはいいとして、その後に来る物語は何であったのだろうか。幾原邦彦はどのように「セカイ系」を弔ったのだろうか。それを紐解くために、次は『輪るピングドラム』について論じていきたい。
 この作品は『少女革命ウテナ』の次作であり、2011年に放送されたアニメである。「セカイ系」の議論が白熱した2000年代を挟んで、幾原邦彦は今まで触れられてこなかった、「セカイ系」を生んだ社会的背景を描き出し、「セカイ系」を全否定せずに葬送する「ポスト・セカイ系」の物語を作っている。
 『輪るピングドラム』という物語がこの社会を描き出すことで、私達に突きつける重要な点がいくつかある。まずは「セカイ系」と終末思想によるテロが、方法こそ違うものの、同じ苦しみを救おうとしていた時代があったこと。そして、その時代は16年前の1995年3月20日で終わるということである。1995年3月20日、それはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた日であり、大澤真幸の言う虚構の時代の果ての日でもある。そして『輪るピングドラム』に登場する、終末思想によるテロは1995年3月20日に東京の地下鉄で起きたものであり、まさにこの地下鉄サリン事件のことを示している。この日、「セカイ系」と、終末思想によるテロは衝突してしまうのだ。
 ここで、『少女革命ウテナ』は「セカイ系」を批判するとしていたのに、今度の『輪るピングドラム』では救済になっているという主張は矛盾していると困惑する人もいるだろう。しかし、「セカイ系」を過去のものにするには、ただ批判するだけでは不可能だ。多くの人に受け入れられ、社会現象にもなった「セカイ系」がどのように受容されていたのか、どのように人々を救っていたのかを考えなければいけない。幾原邦彦はそのような視点を持って、「セカイ系」による救済を描いている。
 それでは、どのように「セカイ系」と終末思想によるテロが救済として機能していたのだろうか。まずは「セカイ系」による救済についてである。
 『輪るピングドラム』において「セカイ系」的人物として登場するのは荻野目桃果である。彼女は後に出てくる荻野目苹果の姉であり、幼少期(おそらく小学校の低学年時)に16年前のテロ事件の被害者となって亡くなっている。しかし実は16年前の事件で桃果は世界から完全にいなくなったわけではなく、二つのペンギンの帽子に分身して人間という実体を現実世界では取らずに今も観念として存在しているのである。
 そしてその桃果だが、「セカイ系」による救済を知るために重要な設定がされている。彼女は16年前、親からの虐待で身体的・精神的外傷を抱えた多蕗桂樹と時籠ゆりの小学校での同級生だったのだが、彼女はこの二人の子どもを幼女ながらに救っている。だが、彼女が救っていたのは被虐待児だったという簡単な結論にはならない。前者の多蕗が、ピアノの才能を無くしたために母親に見捨てられて行き着いてしまった場所である「こどもブロイラー」にいる子ども達を彼女は救っていたのだ。
 この「こどもブロイラー」こそが「セカイ系」を生んだ大きな要因である。「こどもブロイラー」とは何なのか。そこは社会からいらないと言われた子ども達が集められ、子ども達が「透明な存在」になって、やがて世界から消えてなくなる場所である。
 この「透明な存在」とは1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件の犯人である少年Aが自分自身について言及するときに使った言葉である。そして、アイデンティティを構成するものの中で個体の諸性質(性別や現住所などの言語化できる属性)に還元できない余剰Xを見てもらえない状態を述べた言葉であると大澤が『不可能性の時代』で定義した言葉だ。余剰Xとは具体的には何なのか。大澤は、自分の名前を例に挙げながら、余剰Xとは「大澤真幸」などの名前が指し示すようなものだと説明する。簡単に言ってしまえば、その人らしさと言えるものだ。そして大澤も述べているが、余剰Xさえあれば個体の諸性質が変わったところでアイデンティティの喪失につながるわけではない。アイデンティティの確立にとって重要なのは余剰Xの方である。
 そしてこの定義は「こどもブロイラー」にいる子ども達にぴったりと当てはまる。「こどもブロイラー」にいるのは、その子がその子であることを誰にも認めてもらえない子どもなのだ。例えば、16年前の事件を起こしたテロ組織幹部の養女となる高倉陽毬が実母に捨てられてこどもブロイラーに行ったとき、テロ組織幹部の実の息子である高倉晶馬に助け出されて「透明な存在」にならずに済んでいる。この時、陽毬は晶馬に必要とされたから救い出されたのであり、それは陽毬が陽毬だったからという理由である。同じことが多蕗にも言える。「こどもブロイラー」で早く「透明な存在」になってしまいたいと言う幼少期の多蕗に、桃果は「多蕗くんは多蕗くんのままでいなきゃ」と言って救い出している。これらの描写は「こどもブロイラー」にいる子ども達は余剰Xを否定されていることの裏返しである。
 そしてアイデンティティの中核を担う部分(余剰X)を殺されて「透明な存在」になるには、大人が子どもを否定すれば十分なのだ。多蕗の母親は「お母さんは才能が大好きなのよ」と言って多蕗のピアノの才能だけを愛していたために、多蕗はピアノの才能だけが自分のアイデンティティだと思い込んでいた。だが、ピアノの才能は多蕗の特性に過ぎず、多蕗らしさという余剰Xを構成するものではない。ところが母親からピアノの才能だけを愛された多蕗はそれがなければ存在する意味がないと思いこんでしまい、ピアノの才能が無くなったときに余剰Xは否定されてしまう。
 そこで桃果は多蕗の心、つまりアイデンティティ(余剰X)を全肯定する言葉で彼を救っている。桃果は多蕗の才能ではなく心を愛していると告げている。ところが多蕗は桃果を人間というより女神として崇拝するだけで、桃果が多蕗に対して行ったようなアイデンティティの肯定は全く見られない。
 この桃果と多蕗の描写は「セカイ系」的である。一対一の恋愛関係において少年が自分を全肯定してくれる美少女からの純粋な愛情を求める「セカイ系」の恋愛に当てはまっている。桃果は多蕗の自意識の強化のためにある器のような存在である。
 続いて、桃果と時籠ゆりの関係についてである。彼女達の関係は『少女革命ウテナ』のウテナとアンシーを想起させるものであり、ウテナを彷彿とさせる桃果は「セカイ系」的少女ではないと思うかもしれない。しかし、桃果とゆりの関係を描くことで、ウテナとアンシーという少女の友愛の限界を描いてもいる。
 さて、まずはどのようにゆりは余剰Xを否定されていたのか。彼女の余剰Xを否定したのは彼女の父親である。ありのままの彼女を愛せないと父親からアイデンティティ(余剰X)を否定され、父親が彼女を愛せるようになるためという名目で身体に手を加えるという身体的・性的虐待を受けていた。この姿はまさに『少女革命ウテナ』で描かれていた決闘ゲームという「セカイ系」的構造に登場する空虚な少女、つまりはアンシーのようである。ゆりの父親はゆりを娘ではなく信用できる相手として彼女を異性として愛し、排他的な一対一の関係を築き、彼女の全てを支配している。そしてゆりの余剰Xは父親にとって都合のいいものに変化させられている。父親の全てを受け入れる少女であるゆりは、例えば父親の理不尽な言いつけでさえも従順に守っていた。
 しかし、ゆりは完全に空虚な「セカイ系」的美少女ではない。父親にアイデンティティを否定されたときにショックを受けたように、彼女が元から持っている余剰Xが存在していたはずである。父親による余剰Xの否定の結果として「美しくない存在は誰からも愛されない」と自分を否定するゆりに桃果は、そのままの姿で美しいと語りかけてアイデンティティを肯定しようとし、傷を負いながら父親からゆりを解放しようとする。ゆりがアンシーであるならば、ゆりを助ける桃果の姿は先の議論におけるウテナと一致するように見える。
 しかし、この二つの関係には決定的な違いがある。それは、桃果とゆりの関係性は桃果からゆりへの承認が与えられるだけで、桃果はゆりのアイデンティティを受け止める器にしかすぎないということだ。ゆりは桃果の利己性を受け入れてなどいない。つまり、桃果とゆりの関係性は『少女革命ウテナ』の示す少女同士の一対一の友愛などではなく、「セカイ系」における少年と少女の二者関係と同じ状況に陥っている。
 『輪るピングドラム』における荻野目桃果の役割は二つある。まず一つ目が、従来の「セカイ系」、すなわち少年の自意識を強化する「セカイ系」を表象すること。そして二つ目が、そのような「セカイ系」を打ち砕くものとして『少女革命ウテナ』で提示された少女の一対一関係における友愛が、結局「セカイ系」と同様の依存関係に陥ることを暴くことである。
 
 ここまでの議論では『輪るピングドラム』がいかに「セカイ系」の限界を描いているのかを見てきた。次は、「セカイ系」と同じ苦しみを救おうとしたとされる終末思想によるテロが『輪るピングドラム』においてどのように描かれているかを見ていきたい。
 作中で終末思想によるテロを表象する存在は渡瀬眞悧である。彼は1995年3月20日にテロを起こし、16年経て再度テロを起こそうとするテロ組織の一員である。物語が進むと、彼は16年前の事件で既に死んでいて、現世に呪いのメタファーとして蘇った幽霊であることが明らかになる。そして眞悧のいたテロ組織はオウム真理教を指し示す。
 それでは眞悧がテロ行為に走った理由は何なのか。眞悧は、その理由として世界中の「助けて」という声が聞こえていたことを挙げている。世界はどのような助けを求めていたのか。それは桃果と16年前の事件で対決する時の眞悧の台詞や、幽霊として復活した後にテロを企てる時の独白の台詞で述べられている。桃果との対峙の際には、

世界はいくつもの箱だよ。人は身体を折り曲げて自分の箱に入るんだ。ずっと一生そのまま。やがて箱の中で忘れちゃうんだ。自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰を好きだったのか。だからさ、僕は箱から出るんだ。僕は選ばれし者、だからさ。僕はこれからこの世界を壊すんだ。

「輪るピングドラム」

という台詞を語っている。さらに復活後には、

人間っていうのは不自由な生き物だね。なぜって?だって自分という箱から一生出られないからね。その箱はね、僕たちを守ってくれるわけじゃない。僕たちから大切なものを奪っているんだ。たとえ隣に誰かいても、壁を超えてつながることもできない。僕らは皆、ひとりぼっちなのさ。その箱の中で僕たちが何かを得ることは絶対にないだろう。出口なんてどこにもない。誰も救えやしない。だからさ、壊すしかないんだ。箱を、人を、世界を!

「輪るピングドラム」

 という台詞を述べている。眞悧は、世界を壊すことこそが、全ての人間が「箱から一生出られない」孤独な存在になっている世界を救うと信じている。この世界を壊すことに執心する眞悧の思想は、彼の所属するテロ組織のモチーフになっているオウム真理教の終末思想と酷似している。ここで重要なのが、オウム真理教の終末思想について大澤が論じた『増補 虚構の時代の果て』における議論である。
 大澤は以下のように述べている。まずはオウム真理教の終末思想の特徴として、破滅的で救済の余地が少ないという点が挙げられる。というのも、現状のリセットと秩序の再建を望むのが一般的な終末思想であるが、オウム真理教が望むのは終末へと至る全的な秩序破壊の過程だからだ。大澤はこの原因を不可逆性(直線性)と無限性を持つ近代的な時間に求めている。つまり、そのような直線的な時間の下で、生に意味をもたらすのは未来に設定された理想なのだが、達成されるべきものとして理想が機能し続けるという目的のもとで、理想はいつか必ず別の理想に代替されて相対化されるのと同時に、理想に価値をもたらしていた神的な〈超越性〉も再構成される必要が出てくる。しかし、その再構成が行われることは、従来の理想を機能させていた〈超越性〉を否定するのと同義なので、その行為には〈超越性〉の権威の減殺が伴う。そしてこれを繰り返していくと〈超越性〉の権威も低下し、理想は人々を魅了する力をどんどん失っていく。〈超越性〉が喪失された理想はもはや理想とは呼べない。理想が理想であるための絶対条件が〈超越性〉だからだ。理想とは現実において努力で達成されるべきイメージである。それでは〈超越性〉が喪失されたかつて理想と呼ばれた何かはどのように呼ばれるのか。それは「現実(世界)と等価的な可能世界」としての虚構である。
 こうして理想を奪われて空虚な生を生きることになった人々の目に魅惑的に映ったのがオウム真理教の終末思想である。世界において何かを生産するのではなく、世界の全的な否定という理想であれば、他の理想によって相対化されない〈超越性〉を持つ絶対的な概念になる。そしてその世界の破滅は近未来における特定の時に想定されれば、生産的な行為に意味を持たせることができる。
 さてここでの問題は、近代的な時間において神的な〈超越性〉を失った理想という名の虚構が支配したことと、眞悧の見ていた、人間が箱の中で自分の形を忘れて誰かとつながることもできない孤独な世界の間に関連があるのかということである。
 〈超越性〉が失われ、理想が全て相対化されて虚構になる時代を、大澤は虚構の時代と呼ぶが、ここで大澤が虚構の時代を代表する事件として挙げた事件が鍵となる。それは荻野目桃果の章で取り上げた神戸連続児童殺傷事件である。犯人である少年Aが自分自身について説明する際に用いた「透明な存在」は、個体の諸性質に還元できない余剰Xに他者のまなざしが向けられていない状態のことを指していた。桃果は「透明な存在」になった子ども達を助けようとしていたが、これがまさに理想の相対化の結果であり、眞悧が救おうとした声だったのだ。
 事件を少し具体的に見ていこう。自らを「透明な存在」と言うほどの、誰からも見てもらえない地獄の中で少年の余剰Xを認めてくれうる存在とは自分の内面にある、少年A自身が作り出した神だった。そして大塚英志は著書『「おたく」の精神史:一九八〇年代論』において、自分で作り出した神に認めてもらおうとする少年Aの行為は、彼を抑圧する社会、大澤の言葉で言うとまなざしをくれない他者という外部に対して、その外部抜きで自己実現をするための通過儀礼だったと分析している。
 しかし、このようなことは理想が機能していた時には起きなかった。理想によって人間のあるべき姿が規定されていた時代には、人間は内面を外的に規定されていたはずだ。外的な規定である理想が無くなった時に人々は、自分の内面を社会という外部抜きで規定するほかなかった、つまり眞悧の言うように「箱に入る」しかなかったのである。
 しかし、その自己規定は非常に不安定なものである。その内部における自己規定が徹底して自己完結できていれば少年Aの事件など起きなかっただろう。その試みの欠点は、内部における自己規定でも社会という外部による承認を求めずにいられないことだ。大塚が述べたように「誰かに私が私たり得たことを認知してもらわないことには、せっかく達成したはずの自己はすぐに溶解してしまうの」である。だが、ひとりひとりが「箱に入る」世界では他者がいかに自分自身を規定したかについて正当に、真摯に評価できるのだろうか。少年Aの自己規定の一つである「酒鬼薔薇聖斗」という名前もメディアに正しく読んでもらえずに少年Aが激高したように、そのようなことは非現実的である。これこそ眞悧が言っていた「たとえ隣に誰かいても、壁を超えてつながることもできない」状態である。所詮は「僕らは皆、ひとりぼっち」なのだ。こうして私達は自己規定の挫折を味わっている。自己規定を外部に頼れなくなり、「箱の中」に入った人々の自己は、大塚の言葉の通りに箱の中で溶解して「自分がどんな形をしていたのか、何が好きだったのか、誰を好きだったのかを忘れる」のである。
 そこで眞悧も人間が「箱に入る」地獄を終わらせるために「世界を壊す」のである。オウム真理教が、相対化された理想の時代を終末思想によって終わらせようとしたのと同じように。たしかに、眞悧の起こすテロの背景には社会への復讐心もあることが読み取れる。しかし眞悧のテロはただの憂さ晴らしに終わらない。彼の復讐心が「世界を壊す」という終末思想に向かっていくのは、それによって「透明な存在」を生み出す虚構の時代を終わらせることができるからだ。彼は「選ばれし者」として、「透明な存在」の救済のために彼らをテロへ導こうとしている。
 そしてその終末思想は虚構の時代以降を生きる人々にとっては非常に魅惑的に映る。テロや暴力に走るキャラクターというと、悪役ならば粗暴であったり、英雄役ならば自分の信念を貫く熱血漢として描かれたりすることが多い。だが眞悧はそのどれにも当てはまらない。彼はピンクの長い髪を無造作にまとめる長身の美男子であり、魅力的に描かれている。そして彼はテロ組織幹部の養子である高倉冠葉と後に出てくる夏芽真砂子をテロに誘おうとするが、このときの態度もテロに導くというよりは、むしろ誘惑していると言った方が良い。眞悧の表象する終末思想は今もどこかで誰かを誘惑しており、完全に消し去ることはできない。
 しかし、その終末思想も所詮は虚構の一種である。オウム真理教が、世界が終わると言っていた時期に世界の終わりは来なかった。眞悧が「世界を壊す」ために起こそうとしていた事件もあくまでテロであって、現実において「世界を壊す」ことはできない。
 ここまでの議論で、荻野目桃果の「セカイ系」という虚構と渡瀬眞悧の終末思想という虚構が価値相対化の虚構の時代に生きる人々を救おうとしていたのは掴んでもらえただろうか。そしてこの二つの虚構は16年前の事件でぶつかりあってしまい、相討ちの形で表舞台から退場するのである。しかし、「ポスト・セカイ系」の話に移る前に、虚構の時代に生きる人々が何に苦しんでいたのかを考えないといけないだろう。

*続きはこちらから*


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?