「ポスト・セカイ系」としての『輪るピングドラム』―「透明な存在」のために―【2/3】

3章:看過されてきた二つの不承認の問題

 「セカイ系」と終末思想が救おうとしていたものは、不承認の問題である。ここまで、「こどもブロイラー」での余剰Xを認めてもらえない子ども達や、自己規定を外部に認めてもらえない人々の議論をしてきたので薄々気づいているかもしれない。しかし、ここからの議論では、その不承認の問題による絶望がいかに世界に広まっているのかを感じ取り、どれほど今までの議論が見て見ぬふりをしたものばかりで不十分だったのかを痛感していただければ幸いである。
 まず、「セカイ系」という虚構による一対一の関係においてのアイデンティティの承認という救済が望まれた裏には、現実における一対一の関係におけるアイデンティティの不承認があった。そしてアイデンティティの不承認が発生する関係として、『輪るピングドラム』は親という大人と子どもの関係を挙げている。その不承認はごく一部の子ども達に限られた問題ではない。この問題は多くの子ども達の足元に忍び寄り、「透明」な世界に引きずり込もうと今でもしっかりと彼らの——あるいは私達の——足首を掴んでいるのである。なぜならその要因こそが理想の相対化であり、誰一人として「箱に入る」ことから逃れることはできないからだ。
 『輪るピングドラム』において、少年の自意識を強化する「セカイ系」と少女同士の友愛の「セカイ系」への堕落を表象する荻野目桃果は、親から否定された時籠ゆりと多蕗桂樹のアイデンティティを全肯定することで救っていた。ここから「セカイ系」が求められた背景として、親をはじめとした大人による子どもの不承認があると導くことができる。そして桃果が消えてしまったあとでも、その問題の象徴とも言える「こどもブロイラー」は存在していた。「こどもブロイラー」は「セカイ系」を招き入れたが、「セカイ系」が解決できずに今に至るまで残る不承認の問題を表す。
 多蕗の他に、「こどもブロイラー」に送られていた子どもとしては高倉陽毬が登場していた。陽毬も母親に見捨てられた子どもであったが、彼女の住むマンションの廊下に呆然と座り込んでいたところに、同じマンションに活動拠点を置き、眞悧が参加していたテロ組織幹部の夫婦の息子である晶馬に話しかけられる。これが晶馬と陽毬の出会いであったわけだが、晶馬と出会ったばかりの頃の陽毬は大人による子どもの不承認について重要な台詞を言っている。
 知り合いになった二人は、陽毬と同じように捨てられていた子猫をゴミ捨て場で一緒に育てるのだが、動物禁止のマンションだったために子猫は文字通り処分されてしまう。陽毬は捨てられていた子猫に自分を重ねているようだが、その時彼女は「選ばれなかったのよ、あの子は。この世界は選ばれるか、選ばれないか。選ばれないことは死ぬこと。」と恐ろしいほど穏やかな諦念を顔に浮かべて述べている。その様子は選ばれない苦しみは死を凌駕すると悟っているかのようである。
 そして子猫の事件があった後に陽毬はこどもブロイラーに行くが、その前に晶馬に手紙を書き残していた。その手紙で陽毬は、晶馬から「選ばれたかった」と切実な気持ちを綴っている。その後、晶馬に家族として迎え入れられたことで、こどもブロイラーで「透明な存在」になるところから助け出されたときに「選んでくれてありがとう」とも述べている。
 以上のことから「選ばれない」という問題がこどもブロイラー、つまり不承認の問題につながっていることが分かる。そしてそれにまつわる苦しみは死よりはるかに苦しいのだ。

 では「選ばれない」とは、どういう状態を指すのだろうか。それは二人が育てていた子猫が捨てられていた理由を陽毬が言う台詞から分かる。それは「多分、最初は可愛がられたんだよ。でも可愛いが消費された。だから捨てられたの。」という台詞である。先述の通り、陽毬は子猫に自分を重ねているので、陽毬自身について述べた台詞だと捉えることができる。では、その陽毬を「可愛がる」主体は誰か。それは彼女を捨てた母親だったはずだ。当然、「可愛い、を消費する」のも、それが故に陽毬を「捨てる」のも母親だったということである。
 そしてこのことは多蕗とゆりにも当てはまる。多蕗の母親にとっての多蕗の「可愛い」は彼のピアノの才能であったし、ゆりの父親にとってのゆりの「可愛い」は父親の思い通りになるゆりの従順な心であった。多蕗の母親は多蕗がピアノを弾けなくなった途端に、つまり「可愛いが消費された」途端に彼を捨て、多蕗をこどもブロイラーに追いやっている。ゆりは、桃果に父親が消される日まで父親に従順であることができたために「消費」しつくされて父親に捨てられることはなかったが、父親のせいで身体のあちこちに大きな怪我を負って精神を荒廃させていくゆりの姿は現在進行形で「可愛いが消費されている」子どもの姿ではなかったか。「可愛いが消費された」子ども達が行き着く場所であるこどもブロイラーでは、子ども達が「透明な存在」になる。そしてこの言葉は、アイデンティティを構成するものの中で個体の諸性質に還元することができない余剰Xがないがしろにされた状態のことを述べていた。
 つまり「可愛いが消費され」て「選ばれない」こととは以下のように定義できる。子どもを「可愛がる」大人という主体──現代においてその主体が大人ではないという反例は私には挙げられない──が、子どもの持っている特性のうち愛したいと思う部分だけを認めて可愛がる。子どもが本来持っていた余剰Xは、その過程において大人の愛する特性だけで覆い隠される。そして子どもの中身が大人の思い通りにならなくなった途端に子どもを愛さなくなり、子どもの存在意義を全て否定して「お前なんかいらない」と宣告する。そしてそれは往々にして家族という組織において発生すると明確に指し示す以下のような台詞を、父親からゆりへの虐待の描写の直後に眞悧が語っている。

ねぇ、家族というのは一種の幻想、呪いのようなものだとは思わない?考えてもみなよ。家族という名に縛られて苦しむ子どもがどれだけいるか。愛という名目で子どもを私物化する親、殴る親。彼らが愛しているのは自分自身だけだというのに、子どもはただ家族という理由で親を愛し、兄弟を愛さなければならない。

「輪るピングドラム」

 この眞悧の台詞を虚構の時代という切り口で解釈するために、まず横田創による幾原邦彦の作品についての議論を引用したい。横田は『輪るピングドラム』の議論をする際に、親子関係について以下のように分析している。子どもが大人たちから「かわいらしい」と「ちやほやされる」、つまり「可愛い」と思ってもらうには「自分自身を否定」している状態にある必要がある。そしてその「自分自身の否定」というのは、親をはじめとした大人達からの「しつけ、あるいは教育と呼ばれる暴力」によるものである、というものである。
 そしてこの大人と子どもの姿は眞悧の台詞における「愛という名目で子どもを私物化する親、殴る親。」という部分と合致する。一方で「子どもはただ家族という理由で親を愛」さないといけないと思っており、家族という組織に付き合って親に自分自身を可愛いと思ってもらうために「自分自身の否定」を行うのである。

 なぜそのようなことが起きるのか。その根幹的な理由は、大人の自己愛であり、眞悧の台詞で言うならば「彼らが愛しているのは自分自身だけだというのに」という部分である。そしてこれは先の議論で取り上げた眞悧の、人は自分の「箱に入る」という台詞につながる。
 「箱に入る」、つまり理想が〈超越性〉を失って虚構となった時に人は自己規定をそれぞれの内部で行うようになる。その自己規定は自分以外の何者かによる承認が必要なものである一方で、その承認を得るのは困難を極めており、それゆえ自己規定は失敗してしまっていた。

 それでも人間はどうしても安定した自己規定を得たい生き物である。そこで重要になるのが神戸連続児童殺傷事件の少年Aが自己の中に神を作り出して、その神の承認を追求していたという大塚の指摘である。この指摘より、この神を少年Aは自分に承認を与えてくれる他者と錯覚していたことが分かる。そうでないと承認を与える主体になりえないからだ。しかし、当たり前だが、少年Aの自己内部で作り出した神は少年の自己の一部にしか過ぎない。このために、彼の自己規定が現実の外部にさらけ出されたときに本物の他者に理解されずに自己規定は失敗していた。
 虚構の時代を生きる人々は、少年Aと同じように自己規定において困難を抱えている。虚構の時代では社会全体をまとめる理想が無くなったために、外部からの承認を得て自己規定を確立させることは難しい。だが、他者を空虚な存在に変化させたところに自己投影すれば、安定した自己実現は実現してしまう。自己の中に他者を作り出して承認を得るという少年Aの手法には限界があることは既に分かっている。だが、他者を自己の一部に取り込んでしまった後に自己規定の開示をその他者(だと自分が錯覚している存在)だけに行えば、外部からの承認を得たと思い込むことはできる。主観的には自己規定は失敗しない。

 それでは空虚な存在に変化させやすく自己の一部に取り込みやすい他者とは誰だろうか。自己規定を行うに至っていない存在が相手なら容易いだろう。これに当てはまるのは、自我の芽生えていない、あるいは自我が芽生えてからさほど時間の経っていない子どもだった。子どもは他者であることに相違ないが、自己規定がまだ未熟な子どもに親は自分の理想を押し付けることができる。そうして自己の一部に取り込んだ子どもという他者から承認を形式的に得ることで、大人は自己規定を確立することができる。それをまさに行っていたのが多蕗とゆりの親である。彼らは親から理想を押し付けられて親の愛する特性によって余剰Xが覆い隠されてしまった空虚な子ども達だった。
 つまり、虚構の時代以降の子ども達は大人たちの自己愛のための犠牲者なのだ。理想という外部による自己規定が不可能になった時代において、各々が「箱に入り」自分自身の中で自己規定を試みても、最終的に人間は外部による承認を必要としていた。それを達成するのは難しいが、自分は自己規定に失敗していないと錯覚していたい大人達の自己愛のために、本格的な自己規定をするに至っていない多くの子ども達が空虚な存在にさせられていった。
 しかし大人達がどれほど子ども達を空虚な存在に変化させようと試みても子ども達が完全に空虚になるわけではない。横田が述べていたように子どもは今の状態を常に否定されているがために、大人にとって空虚な存在に見えるようにさせられているだけである。大人が「可愛い」と思う特性で無かったことにされた余剰Xは存在している。
 そして子どもが完全なる空虚な存在ではないということは、大人の思い通りにはならなくなる時が来る可能性があるということだ。子どもが成長し、大人が「可愛い」と思わないために隠蔽された余剰Xが顕現するときはいつか必ずやってくる。その時に子どもの「可愛いが消費され」つくされる。大人の自己規定のための空虚な存在という役割を子どもが完全には果たせなくなったときに大人にとって不要な存在となり、捨てられる。

 だが、なぜ子ども達は家族という組織の中で、自己否定に身を投じてまで大人からの愛を求めて奔走するのであろうか。眞悧はその理由を「家族」だからと述べている。もちろん家族愛を強制する風潮が、この社会に存在していることも否定できない。しかし作中で多蕗とゆりは親に愛してほしいという強い願望を持ち、親からの虐待を甘受していた。つまり、子どもは親という大人に愛してほしいという動機で自己否定を自発的に行っている。一体それはなぜなのか。それは子どもの視点からだと、大人という存在は子ども自身の自己規定を初めて認めてくれる可能性を持つ他者──たとえば少年Aにとっての神のような存在──という外部に映るからである。
 ところがそれもまた錯覚にすぎない。先程も述べたように、大人は彼らの信奉する自己規定を投影しているだけの自己愛の延長で子どもを愛するのである。しかし子どもにとっては、大人に強制された自己規定に従って偽りの自己を形成した上で、大人から承認を得ることが、自分に固有の自己規定の承認を得ることと同一のように思われたのではないか。
 そして、どれほど子ども達が愛してもらおうと頑張っても、「可愛いが消費され」て、愛の供給が止まるときはいつかやって来る。このことは大人からすると単純な愛の有無の話に思える一方で、子どもの目からは大人という神が途端に自分に承認を与えてくれなくなるという重大な事件に映る。この時に子どもは「こどもブロイラー」に送られて「透明な存在」になる。子どもは誰からも余剰Xに目を向けてもらえない存在になり、誰からも固有の存在としての承認を得られない、つまり『輪るピングドラム』の世界で描かれる無個性なピクトグラムのように世界に存在してもしていなくても何も変わらない存在となる。

 この、誰かの自己規定のために空虚な存在として生きる子ども達はまさに、「セカイ系」作品や「王子様物語」に出てくる空虚な美少女と王子様のようである。そう、この子ども達こそが「セカイ系」的物語に助けを求めた張本人なのだ。大人が子ども達を自己規定への他者からの承認を形式的に得るために空虚な存在にしたように、子ども達もそのような空虚な他者を求めていたはずである。なぜなら彼らはそれしか承認を得る方法を知らないからだ。そして子ども達の欲望、あるいは切実な願いが虚構に向けられた結果が「セカイ系」という物語の誕生だった。
 『輪るピングドラム』に視点を戻すと、「セカイ系」的少女である荻野目桃果は確かに多蕗桂樹と時籠ゆりという大人の犠牲になった子ども達を救っている。しばしば批評において「セカイ系」は稚拙だと批判されることがあるが、「セカイ系」によって救われていた存在は確実にいたはずなのだ。
 
 しかし、桃果が表象する「セカイ系」にも限界があると『輪るピングドラム』は主張する。まず16年前の事件で眞悧と相討ちの形で桃果は二つのペンギンの帽子に存在が引き裂かれてしまっている。桃果がいなくなって多蕗とゆりは自立すると思いきや、ますます存在しない桃果に依存するようになり、少女との一対一の関係にアイデンティティを依存させるという「セカイ系」の特徴が露悪的なまでに出てくる。そしていなくなった桃果を求めて、多蕗は16年前の事件を起こしたテロ組織幹部夫婦の家庭である高倉家に復讐しようと陽毬の誘拐事件を起こし、ゆりは桃果の復活のために桃果の妹である苹果を桃果の依り代のように扱っている。「セカイ系」によって救われた多蕗とゆりは、桃果という存在の喪失のためにそれぞれ現実世界において他者に危害を加える存在にまでなってしまっている。
 その中で、陽毬が持つペンギンの帽子として桃果という概念は再び現世に降り立って陽毬に憑依する。そして多蕗やゆりを救った桃果とは随分違う口調で「生存戦略!」と叫んで、血の繋がりは無いが家族として暮らす高倉家の子どもたちに「己の運命を変えたければ、ピングドラムを手に入れるのだ」と命令する。「セカイ系」は確かに限界がある物語であったものの、多くの人を救ってきたはずだ。桃果は「セカイ系」の次の段階の救済、あるいは本来実践したかった救済を提示しに再び登場している。
 ここまで、荻野目桃果という存在と彼女が「こどもブロイラー」から救った多蕗桂樹、時籠ゆり、同じく「こどもブロイラー」にいた高倉陽毬を取り上げて、虚構の時代を背景にした大人による子どもの不承認が「セカイ系」という虚構を生んだことについて議論してきた。次の議論では、それと並行して発生した別の不承認の問題について、桃果と「同じ風景が見えていた」と述べる渡瀬眞悧がテロに巻き込もうとした登場人物に着目して議論していきたい。
 
 渡瀬眞悧は、オウム真理教に代表される終末思想によるテロを象徴し、その背景には虚構の時代での理想の相対化があり、これは荻野目桃果が象徴する「セカイ系」と共通するものであった。「セカイ系」を生み出したのが大人による子どもの不承認であったのならば、終末思想によるテロには何が背景として存在するのか。結論から言うならば、それは経済的競争による個人の不承認である。
 先程の大人による子どもの不承認と比べて、この競争による個人の不承認は多くの人にとって身近な問題であるかと思われる。しかし、自らが競争による個人の不承認に遭ったところで、「世界を壊す」ためのテロは自分とは全く関係ないと思っている人は多いだろう。実際に宇野は『リトル・ピープルの時代』において、オウム真理教のテロは、自らが信奉するものを守るために小さな共同体に閉じこもり、被害妄想的に周りを攻撃したものと断罪している。
 間違いなく、テロという行為は許されていいものではない。自らの利益のために他者を傷つけることは絶対にあってはならない。しかし一体どうして多くの人は、自分達は彼らのようなテロリストになることは絶対になかったと安心しきっているのだろうか。テロ組織の人間は、自分達のような普通の人間ではないと線引きするような態度を取っていた『輪るピングドラム』の世界は、眞悧というテロへの誘惑を退けることができなかったのだ。価値の相対化のなかで別々の価値として共存できずに、「被害妄想」が生まれるに至った背景について私達は考える必要がある。そしてその考えなければならない問いとは、ここではつまり、なぜピングフォース、あるいは企鵝の会がテロに及んだのかということである。
 それでは、虚構の時代においてどのように経済競争は不承認の問題を引き起こしていったのか。まずは、眞悧が所属していたテロ組織であるピングフォース(改名後は企鵝の会)の幹部であり、高倉家の父である高倉剣山が経済的競争について述べた台詞を取り上げることで、改めて競争社会をテロ組織が憎んでいたことを確認したい。彼はテロ組織での演説においてこのように述べている。

この世界は間違えている。勝ったとか負けたとか、誰の方が上だとか下だとか、儲かるとか儲からないとか、認められたとか認めてくれないとか、選ばれたとか選ばれなかったとか。やつらは、ひとに何か与えようとはせず、いつも求められることばかり考えている。この世界はそんなつまらない、きっと何者にもなれないやつらが支配している。

「輪るピングドラム」

 このように高倉剣山の恨みはとりわけ競争社会へと向けられていることがはっきりと分かる。さらに高倉剣山が批判する競争社会を象徴するかのような存在が『輪るピングドラム』には描かれている。それは夏芽家である。夏芽家は夏芽ホールディングスという巨大企業を経営する経済的な勝ち組であり、創設者の孫である夏芽真砂子という少女が現在の夏芽ホールディングスのトップである。だが、その真砂子の父は、創設者である真砂子の祖父や夏芽ホールディングスから逃げ出す形でテロ組織に参加し、夏芽家に帰ることなくテロ組織で死を迎えた。
 ここから夏芽家とテロ組織という明確な対立構造が見て取れる。そして先述の高倉剣山の台詞や夏芽家の描写より、このテロ組織は競争社会に適応することができなかった、あるいは適応することを選ばなかった人達の集団だったと分かる。そして虚構の時代に入って以降、その競争社会は単に個人を経済的競争に駆り立てて疲弊させるものから、更に個人を市場原理にさらけ出す方向に変化してきていると『輪るピングドラム』は示す。
 その変化を知るためには夏芽家を支配し、夏芽ホールディングスを創設した真砂子の祖父を掘り下げる必要があるだろう。彼はマッチョイズムを体現したような描写を作中でされている。かなり年齢を重ねているはずなのに、まるでボディービルダーのように筋肉質な体型をしている。さらに口癖は「すり潰されたりせんぞ!」であり、毎朝それを繰り返し言いながら竹刀で素振りをして自己鍛錬をしている。しまいには真砂子の弟であり、身体の弱いマリオに対して「夏芽家歴々の猛者たちが挑み、耐え抜いた試練の数々」と称し、火の輪くぐりなどの過酷で荒唐無稽な訓練を課そうとしている。そしてそのときに「わしのように強くなれ、マリオ!けしてすり潰されるな、むしろすり潰すのだ!」と言っている。
 このように非常に滑稽な描写をされた人物であるが、彼は失われた理想を象徴している人物なのだ。その失われた理想というのは、他者によって「すり潰されたりせず」競争社会を生き抜いて勝ち組として社会で自己実現をするというものである。この失われてしまった理想について考察をするにあたって重要な描写がある。それは真砂子の祖父が象徴する理想はアメリカによって肯定されたものだということだ。真砂子の祖父を事あるごとに「You are excellent!!」などと言って称賛するアメリカ英語を話す外国人の付き人がいる。この描写は祖父が象徴する理想はアメリカによって支えられたものであることの示唆である。
 アメリカによって肯定され、かつ経済にまつわる理想となれば一つしかない。それは、アメリカからもたらされた、経済的な成功こそが全てという理想である。大澤の『不可能性の時代』における議論によると、日本は敗戦をきっかけに自分達の行為を評価する超越的な他者としてアメリカという理想を受け入れている。そして安保闘争などを経て、超越的な他者としてのアメリカから政治的な要素が抜かれたときに「理想が、いかなる思想的な含みをもたない豊かな生、「経済的に豊かな生」と等値され」たのだ。
 さて、真砂子の祖父の象徴する理想とは、アメリカが肯定的な評価を下す社会や個人の状態である「経済的に豊かな生」を、経済的な競争社会を生き抜いて達成することだったのを確認できただろうか。また、これは父親という存在とリンクする思想でもある。宇野常寛の議論にしばしば登場するが、手段は何にせよ社会において自己実現をするということは日本のサブカルチャーにおいて父親というモチーフを用いつつ頻繁に語られる命題であり、そしてその父親は必ず社会と同等に扱われる。厳密に言えば真砂子の祖父は父親ではないが、〈社会=父親〉という構図を表象するもので間違いないだろう。
 そして、真砂子は祖父について「あの男は、この世界には二種類の人間しかいないと考えていた。成功者と敗北者。」と述べていた。この「成功者」と「敗北者」という区分の言葉は、「金持ち」と「貧乏」などの経済的豊かさの区分を単に表す言葉とは意味合いが少し異なってくる。なぜあえて「成功者」と「敗北者」という言葉が用いられているのか。それは経済的な豊かさが社会的な成功、ひいては自己実現に関わっていることの現れだからだ。祖父の理想が台頭している限り、「成功者」として自己実現を達成するには社会において経済的な競争を勝ち抜くしかない。だが、真砂子の祖父の死によって彼の象徴する理想は終わりを迎えたかのように思えた。
 ところがマリオに死んだ祖父の幽霊が取り憑いてしまう。このエピソードが描かれた第16話のタイトル「死なない男」が示唆しているように、失われたはずの理想はまだ消えていないのである。虚構の時代において価値が相対化されたならば、「経済的な競争社会で勝つことによる自己実現こそが絶対的な成功である」という理想は効力を失ってもおかしくないのに未だにそれに取り憑かれている。
 そして取り憑いた祖父は見た目では判別のつかない毒入りのフグと毒無しのフグのどちらかを食べて、自分と真砂子のどちらが毒無しのフグを引き当てて生き残れるかという勝負を真砂子に挑む。この描写は祖父が表象する理想が変わったことを示している。
 まずは真砂子の祖父は生前、自己鍛錬を怠らなかった人物であったことを思い出してもらいたい。これはつまり、競争社会を生き抜くことこそが自己実現であるという理想(真砂子の祖父)が、努力によって達成できると信じられていたことの現れである。佐藤俊樹が『不平等社会日本』において戦後日本の階級間の流動性について論じた際に、努力すれば何とかなると言い聞かせて学校や会社の競争に自分や自分の子ども達を参加させてきたと述べていたことが、そのまま体現されているのが生前の真砂子の祖父である。
 しかし祖父の亡霊が取り憑く現代において競争社会を勝ち抜くということは、たまたま毒の無いフグを選べた者が生き残るという図式のように、運に全て任されてしまっているのである。そしてその変化のきっかけには1980年代に始まったとされる新自由主義がある。この新自由主義に虚構の時代が重なってしまったことで、経済競争は人々を不承認の問題へとますます追い詰めていく。
 ここで議論を進めるために、新自由主義について論じた河野真太郎の『戦う姫、働く少女』を参照したい。新自由主義とは福祉国家の後に出現した経済思想で、市場の自由こそが経済の根幹であると考えて民営化を推進する主義である。そこでは徹底的な個人化が行われるために何の中間項も挟まずに一人ひとりが市場原理にさらけ出される。そして、規格に基づいた従来の物質的生産の代わりに、新自由主義下では非物質的生産が求められる。この結果、労働者はアイデンティティそのものを労働に捧げること、つまりアイデンティティの労働を要求される。このアイデンティティの労働とは、三浦玲一の『村上春樹とポストモダン・ジャパン:グローバル化の文化と文学』によると「われわれ自身のなかに内在するクリエイティビティの実現こそが「富」を産む」という考えに裏付けられている。そして河野によると、「そのアイデンティティは、つねに「いいね!」と呼ばれるようなものでなければならない」のだ。つまり新自由主義においては、他者に「いいね!」と言われるようなアイデンティティを形成し、それを外部に提供できる労働者が勝ち組となる。
 だが、真砂子の祖父が死んだ後の時代である虚構の時代で発生した価値の相対化が大きな障壁となる。価値が相対化されて各々が信奉する価値がバラバラになってしまっていては、どうやって確実に周囲に「いいね!」と高評価を与えてもらえるのだろうか。この状況で確実に高評価されて経済的に勝ち上がるのは運に任せられている。まるで、生死が毒のないフグを選べるか選べないかにかかっているかのように。
 だから真砂子の父親は、祖父が死んでも夏芽家という経済的なサバイバルの舞台に帰ってくることができなかった。経済的な成功による自己実現という理想が絶対的ではなくなったからと言って、自己実現の方法が多種多様になるわけでも、アイデンティティの擁立が容易になるわけでもなかったのだ。むしろ自己が露骨に市場原理にさらされる。真砂子が祖父を回想して「私たちは今もあの男に支配されている」と語ったように、競争社会における不承認の問題は呪いのように残っている。
 そして、この競争社会における不承認の問題が摩擦を生み、テロ組織を生んでしまった。『輪るピングドラム』は競争社会における不承認によって社会の隅に追いやられた人たちが、義憤や怨恨を伴いながら自分たちを認めてくれなかった社会を壊そうとしていた様子を綿密に描写する。高倉剣山の「この世界は間違えている」という台詞に表れるようにテロ組織の人々にとって、価値相対化社会において自己実現による競争を繰り広げる時代を終わらせることは正義だった。しかし、彼らを排除した社会にとって彼らの正義は正義として映らない。そこでテロ組織のメンバー達は、正義を妨害する悪として目に映った社会を終わらせるために攻撃してしまったのである。これが終末思想という虚構の結末である。これは虚構が虚構世界にとどまることができずに現実に作用しようとしてしまった事例なのだ。
 
 今まで議論してきたこの二つの不承認の問題を、桃果と眞悧は同じように見つめていた存在である。それは「世界でたった一人の、僕と同じ風景を見ることのできる、僕の恋人」と桃果について語る眞悧の台詞から分かる。
 しかし、桃果と眞悧は虚構の時代での不承認の問題を認めていたという点で共通していた一方で、敵対する関係でもあった。16年前の事件で彼らは相討ちという形で退場したのを覚えているだろうか。
 眞悧は桃果について「同じ風景が見える唯一の存在である僕を否定した。」と述べている。この台詞より、桃果と眞悧は虚構の時代での問題を認めているという点は共通していたが、それに対する態度や対処の仕方が全く異なっていたと言える。それでは彼らはどのような点において異なってしまったのか。それは、二つの不承認の問題の根本的な原因である価値相対化を肯定するか否定するか、である。
 桃果の象徴する「セカイ系」は、個人のアイデンティティを救うために空虚な存在として他者を措定し、そこに自己投影するものであった。ここで重要なのが「セカイ系」とは物語枠という虚構に分類されるものだということである。つまり「セカイ系」は価値相対化社会という現実に対しては介入せずに、虚構で完結する救済によってアイデンティティの危機から脱するものである。無理矢理に現実を変えるのではなく、虚構の時代の流れに身を任せて「セカイ系」という虚構を作り出して生き延びる戦略を立てている。
 そしてその理由は幼少期のゆりとの対話で明らかになる。アンデルセン童話の「みにくいアヒルの子」について幼少期の時籠ゆりが、みにくいものは永遠にみにくいままだと否定的に語るときに桃果は「私は皆綺麗だと思うな、空も鳥も虫もかえるも花も石ころも。この世界は神様が作ったんだって。だったら、汚くて醜いものなんてあるのかな?」と話す。この台詞から、全てのものを肯定して価値を見出している桃果の態度が見て取れる。つまり桃果は価値の相対化それ自体は肯定していたのだ。だから桃果という「セカイ系」は価値相対化社会という現実に介入しない。
 一方で眞悧の終末思想はアイデンティティの危機の原因である価値相対化社会そのものに向けられたものであり、それを終わらせようとした結果生まれたものである。終末思想自体は虚構だが、価値相対化社会という現実に対してテロという現実の行為で介入してしまっている。このように、桃果と違って眞悧は価値相対化社会そのものに怒りの矛先が向いている。
 これが、桃果という「セカイ系」と眞悧という終末思想の分岐点である。この結果、16年前の事件で桃果と眞悧は対峙して両者ともに表舞台から退場してしまった。

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