「ポスト・セカイ系」としての『輪るピングドラム』―「透明な存在」のために―【3/3】


4章:「セカイ系」を過去のものにするために

 だが、このように二つの虚構が退場してしまった後、同じようにその背景である不承認の問題も消えたわけではない。そして「セカイ系」も終末思想もただ効力を失っただけで、真の意味で過去のものにすることができていない。

 「セカイ系」は一対一の関係において他者に依存するという骨組みだけが残った亡霊として彷徨っている。桃果という「セカイ系」で救われた子ども達だった多蕗とゆりは、桃果なしではアイデンティティを確立することができずに彼女の影を求めて暴走し、多くの人を巻き込んでいく。

 その中で苹果は桃果になろうとする。未来のことが書かれてあるという桃果の遺した運命日記に苹果は忠実に従って、書かれた内容を桃果の代わりに再現する。その多くが多蕗との恋愛である。桃果が多蕗を好きだったからという理由だけで苹果は多蕗と結ばれようと奮闘する。桃果に同一化しようとするこれらの苹果の行動はまさに、「セカイ系」を完全復活させ、未来へと残そうとするものと言える。そしてその目的とは、桃果がいた頃の幸せ、すなわち過去を取り戻すというものなのだ。苹果は過去の「セカイ系」という救済の復活のために犠牲を払っている子どもなのだ。

 そして終末思想によるテロも息を潜めて誰かをおびき寄せようとする。テロ組織は水面下で活動している上に、眞悧は地下に潜って次の機会を伺っているのだった。

 このように不承認の問題が続き、「セカイ系」の亡霊が彷徨っている一方で、終末思想が影から手招きをするこの時代において、幾原邦彦は『輪るピングドラム』でどのような物語を「ポスト・セカイ系」として提示しているのか。何をもって「セカイ系」と終末思想に蹴りをつけようとしているのか。

 それはピングドラムである。幾原邦彦の「ポスト・セカイ系」におけるキーワードでもあり、「セカイ系」や終末思想に頼らないで不承認の問題を生き抜くために必要なのが、題名にもあるピングドラムである。

 では、ピングドラムとは何なのか。ピングドラムとはかつては存在していたが失われた何かであり、16年前の事件で多くの人に危害を加えたという家族の犯した罪の罰として病気になっている高倉陽毬と夏芽マリオを救うものである。第1話で一旦死んだ陽毬は、霊安室で突然桃果の分身であるペンギン帽に憑依される。陽毬の身体を乗っ取ってペンギン帽のプリンセス・オブ・クリスタルと呼ばれる女神のような存在は「生存戦略!」と叫び、ワープ先の異世界で、妹の命を救いたければピングドラムを手に入れるのだと兄弟である晶馬と冠葉に命令する。そして第12話で再び憑依された陽毬は、自分達が16年前の事件の被害者家族と加害者家族という点で繋がっていると知って沈黙する苹果と晶馬に対して「聞け!呪われた運命の子らよ!お前たちはピングドラムを失った!」と叫ぶ。つまり16年前の事件という過去に囚われている子ども達はかつてあったはずのピングドラムを無くしたということである。

 さらに、ピングドラムは生前の桃果に関連したものである。というのもピングドラムを探せと命令するプリンセス・オブ・クリスタルは桃果の分身であるからだ。彼女は口調が桃果とかなり違うために同一人物とするのは難しいものの、プリンセス・オブ・クリスタルが憑依するのに使うペンギン帽は、元々は桃果であった。

 そしてピングドラムが無ければ眞悧がテロを起こすのを許してしまう。16年前の事件後、地下深くにある図書館で司書を務めていた眞悧は再び地上に出てきて高倉冠葉と夏芽真砂子に接近し、自分の愛する妹弟を救うのはテロだと誘惑し、16年前の事件の続きを行おうとする。そのテロを招き入れた要因の一つは、子ども達が「ピングドラムを失った」ことだと復活した桃果であるプリンセス・オブ・クリスタルの口から述べられる。

 眞悧のテロに真砂子は加担しないが、冠葉は陽毬のために巻き込まれてしまう。一方で、プリンセス・オブ・クリスタルはピングドラムが陽毬とマリオを救うのに必要だと言う。不承認の問題を抱えるだけでなく、16年前の事件の負債を抱える陽毬とマリオという子ども達が救われるには、16年前と同じように現実に対して虚構側から暴力という干渉をするか、ピングドラムを再び手に入れるかのどちらかの道しかない。

 このように作品を見ている私達は、ピングドラムとは何かと作品を通してずっと考えさせられる。それは当然である。なぜなら私達もまたピングドラムを失った存在であり、『輪るピングドラム』は私達にピングドラムを取り戻させるための物語だからだ。

 それでは、改めて、ピングドラムとは何なのか。まず、ピングドラムとは運命の果実とも言われるりんごで表されるものである。最終話でいよいよ眞悧と冠葉が、瀕死の陽毬と陽毬のベッドを乗せた電車の中でテロを起こそうとするのを晶馬が阻止しに来る。電車は眞悧と冠葉、晶馬そして陽毬を乗せて走る。そこに苹果が途中乗車し、運命の乗り換えをする呪文でもあり、桃果が一番大切にしていた言葉が分かったので陽毬を救いに来たと言う。そこで陽毬は何度も繰り返してきたイリュージョン──プリンセス・オブ・クリスタルが「生存戦略!」と叫んで異世界へとワープし、他の登場人物に語りかけること──を初めて憑依されていない状態で行う。そこで陽毬と晶馬は冠葉を迎えに行く。そして陽毬は「これがピングドラムだよ」と冠葉に赤い球体の半分を渡す。このピングドラム授受のシーンのあとに、幼少期の冠葉が晶馬にりんごを半分分け与える回想シーンが流れ、続いて電車に乗っている苹果が「運命の果実を一緒に食べよう!」と叫ぶシーンが連続で流れることより、ピングドラムは運命の果実であるりんごとして描写されるものであると分かる。

 この他に、運命の果実としてりんごが登場するシーンとしては、晶馬が陽毬を家族に選ぶシーンが挙げられる。そして、この晶馬が陽毬を家族に選ぶ一連の出来事を通じて、ピングドラムとは何であるかが示される。

 親に余剰Xを否定されて「こどもブロイラー」に送られた陽毬を助け出すときに晶馬は「運命の果実を一緒に食べよう」と言う。そして陽毬は高倉家の子どもとなり、「こどもブロイラー」から救い出される。つまり、運命の果実、すなわちピングドラムを分け合うことが余剰Xの肯定につながる。そしてピングドラムを分け合うことによる余剰Xの肯定について重要な台詞を陽毬は言っている。

 陽毬が冠葉をテロ組織から救い出そうとするシーンでは、「私が生きているって感じられたのは、かんちゃん(筆者注:冠葉)としょうちゃん(筆者注:晶馬)がいたから。「高倉陽毬」でいられたから」と述べている。この「「高倉陽毬」でいられた」ことこそが、余剰Xが肯定されている状態である。それは大澤が余剰Xについて説明するときに「名前は、個体の諸性質に還元することができない余剰Xを指示している」と述べていたことから明らかである。つまり陽毬の不承認の問題は、冠葉と晶馬のおかげで回避できている。

 なぜ二人の兄のおかげなのか。それは、陽毬の余剰Xを肯定するのは不特定多数の外部ではなく、晶馬と冠葉だからだ。家族で潮干狩りに行って迷子になったときのことを夢の世界で陽毬が回想しているシーンがあるが、迷子になった後に二人の兄に見つけてもらえたことについて「私、あの時分かったんだ。私は見つけてもらえる子どもになれたんだって。(中略)どんなに遠く離れてしまっても、しょうちゃんとかんちゃんがきっと私を見つけてくれる」と言っている。この台詞が迷子になっても探し出してもらえたことだけを指し示す台詞ではないことは、陽毬がこどもブロイラーで「透明な存在」になりかけていたことからはっきりと分かる。「透明な存在」は誰からも見つけてもらえない存在なのに対し、「高倉陽毬」でいられたと言う陽毬は二人の兄には必ず見つけてもらえるのだ。それは兄達が陽毬の陽毬らしさ、つまり余剰Xを認めているからに他ならない。

 そしてこれらは全て、晶馬からりんごというピングドラムを分けてもらったことが始まりになっている。晶馬からのピングドラムが無ければ、この三人は家族として生活することなく、ただの赤の他人で終わっていた。不承認の問題で否定されて無かったことにされた陽毬の余剰Xは、晶馬からのピングドラムがきっかけの二人の兄からの愛によって受容されることで救済されていた。

 もう分かっていただけたと思うが、ピングドラムとは愛のことである。しかし、愛というだけならば、「セカイ系」も「王子様物語」も曲がりなりにも美少女や王子様を愛していたはずだ。しかし、自己愛のために虚構に終始した「セカイ系」や「王子様物語」と違って、『輪るピングドラム』という虚構の物語は現実において愛を循環させようとするものだ。そのために重要な要素が二つある。それは、ピングドラムに伴う自己犠牲と、ピングドラムの循環である。

 まず一つ目の自己犠牲についてである。『輪るピングドラム』は、ピングドラムに伴う自己犠牲をとても美しく描く。これは最終話のイリュージョンで陽毬と晶馬が冠葉を迎えに行くときに、身体が傷だらけになるのも厭わずに割れたガラスが空中に無数浮遊する中を進んでいくシーンや、冠葉が晶馬にピングドラムを分け与えるときに自らの命を危険にさらしているシーンの描き方から分かる。

 そして実は、この自己犠牲は少女同士の友愛から来ているものである。『少女革命ウテナ』についての議論において、「セカイ系」から脱却するために少女同士の友愛が描かれ、互いに利己的であることを受容する関係性に可能性が見出されていると述べた。しかしウテナとアンシーと同じように少女同士の友愛を結んだはずの桃果とゆりの関係性について論じた時に述べたように、一対一という関係性が障壁になる。ゆりは桃果にただ依存していただけで、「セカイ系」を打ち破るはずの友愛という構図から「セカイ系」的な構図に堕落してしまった。このように一対一の関係性において承認を与え合うことには相手のアイデンティティに目を向けずにただ依存するという「セカイ系」的な自己閉塞の危険性が出てきてしまう。

 その危険性を封じるために、自己犠牲が美しく描かれている。そしてそれだけではない。その自己犠牲ですらも、余剰Xの肯定をもたらすのだと私達に語りかけるのだ。それは、陽毬が冠葉を迎えに行く時に話す以下の台詞から分かる。

ねぇ、生きるってことは罰なんだね。私、高倉家で暮らしている間ずっと小さな罰ばかり受けていたよ。しょうちゃんは子どもの頃から口うるさいお母さんみたい。脱いだ靴は揃えろとか、汚い言葉は使うなとか、夕飯は家族揃ってからとか。かんちゃんは食事の後すぐ寝っ転がるよね。牛になるよ、って言っても聞かないし。あと、鼻をかんだティッシュを放りっぱなしにするのはやめて。そんなんだから「女にだらしない、ばっちいかんば菌」って言われちゃうんだよ。

「輪るピングドラム」

  このように陽毬は、高倉家という家において生きることの罰について述べている。そして晶馬は冠葉が家族になったことについて「僕は兄貴なんていらなかったんだ。だいたい何で冠葉が兄貴なんだよ。そんないきなり兄弟なんかになれるかよ」と述べる。これらの台詞は、晶馬が冠葉からピングドラムを受け取っていたことを考慮すると、ピングドラムの授受によって家族になることへの抵抗を表す台詞だと言える。この陽毬と晶馬の台詞は、ピングドラムの授受によって生じる自己犠牲への文句のようなものである。

 しかし、先程の陽毬の台詞に続く言葉が重要である。生きることの罰について彼女は「でも、それでも私達は一緒にいたよ。どんな小さくってつまらない罰もね、大切な思い出」と肯定する。この陽毬の台詞によって、現実において愛を与え合うことに伴う不利益である自己犠牲は承認をもたらすものへと変化する。

 ただ、本来であれば、この自己犠牲を伴う愛は『少女革命ウテナ』で完全に実現するはずだったものだ。幾原邦彦は、『少女革命ウテナ』でウテナとアンシーに、自分には利己的な面があると告白させ合うことで、他者との関係において相手のためだけに行動できる人間はいない、つまり自分の思い通りになる空虚な存在の他者はいないことを突きつけていた。『少女革命ウテナ』ではそれを受け入れることで他者を中身の伴った他者として機能させようという試みを行っていたが、後述の通り、一対一の関係ではどうしても限界があったのだ。そこで『輪るピングドラム』で自己犠牲を受け入れて他者に承認を与えていくことで承認が得られるという構造に引き継いだ上で、空虚な他者しか存在しない「セカイ系」からの脱出を希望あるものにしようとより一層背中を押している。

 長くなってしまったが、次に、『輪るピングドラム』を「セカイ系」から分ける重要な要素である二つ目のピングドラムの循環についてである。晶馬が陽毬に与えたピングドラムは、かつて晶馬が冠葉からもらったものだったことを覚えているだろうか。『輪るピングドラム』というタイトルが示すように、ピングドラムは三人以上の人間の間で循環するものなのだ。

 なぜ『少女革命ウテナ』で少女同士の一対一の友愛を語った幾原邦彦は、三人以上の関係を語り始めたのか。それは『少女革命ウテナ』で試みた自己に閉塞する意識からの脱却を、今度こそ実現させるためである。

 「セカイ系」を象徴し、ピングドラムと関連のある荻野目桃果には限界があった。実は桃果の「セカイ系」的少女としての性質が際立つのは、彼女が世界から退場してからのことである。多蕗とゆりは桃果によって救われた子ども達だったが、桃果がいなくなってからますます彼女に依存している。この要因は、桃果が多蕗とゆりとそれぞれ一対一の関係を築いていたことである。桃果だけが自己犠牲を行い、承認も桃果からの一方通行になってしまっていた。

 このように『少女革命ウテナ』における少女同士の友愛のように、たとえそれが恋愛関係でなくても排他的な一対一の関係では、他者を空虚な存在にしてそこに自己投影するという「セカイ系」特有の自己閉塞に行き着く危険性があった。それは不承認の問題を生んだ原因を繰り返すことに過ぎない。だからこそピングドラムは現実において複数人の間で循環させなければならない。

 これらの特徴によって『輪るピングドラム』におけるピングドラムという愛は、「セカイ系」のような自己愛に陥らずに済む。ピングドラムは三者以上の人物で循環する、つまり誰かの愛によって余剰Xを認められた他者が、その受け取ったピングドラム(愛)をもとに別の相手のアイデンティティに対して承認を与えていく構図を取っている。そしてこの時には自己犠牲も伴うが、それは美しいものだと作品を見る人達の背中を押す。「セカイ系」の構図は、自分に愛という承認を与えてくれるだけの空虚な存在に他者を変化させる危険性を持つものだった。しかし、この循環の構図によってその自己愛の危険性を避けることができる。

 これが、「セカイ系」と終末思想が見つめていた不承認の問題が未だはびこる現代において私達が承認を得て生き延びることを助けてくれる「ポスト・セカイ系」の物語である。

 だが、ピングドラムを受け取ったことのない人はどうやって生きていけばいいのだろうか。血の繋がりを持たない高倉家の子ども達が分け合ったピングドラムは、そもそも冠葉が閉じ込められていた箱の中で見つけたものである。りんごが与えられなければ、分け合うこともできない。

 そこで『輪るピングドラム』は、「セカイ系」を思い出してほしいと伝える。最終話での多蕗とゆりの会話が鍵となる。多蕗が「君と僕は予め失われた子どもだった。でも世界中のほとんどの子ども達は僕らと一緒だよ。だからたった一度でもいい、誰かの「愛してる」って言葉が必要だった。」と語るのに対し、ゆりは「たとえ運命が全てを奪ったとしても、愛された子どもはきっと幸せを見つけられる。私達はそれをするために、世界に残されたのね。」と応える。これは最終話の「運命の果実を一緒に食べよう」という苹果の言葉で陽毬が死ぬという運命が乗り換えられて、冠葉と晶馬が犠牲になる形で陽毬と苹果は生き残った後で言われた言葉である。この台詞は、愛されなかった自分達は誰かを愛していく使命のために生き残ったという言葉にも聞こえるがそうではない。桃果が多蕗とゆりに「愛してる」と伝えていた。そしてその桃果は虚構の「セカイ系」を表象する存在であった。

 つまり『輪るピングドラム』は循環させていくピングドラムの源として、「セカイ系」という虚構の物語枠からの愛を提示している。不承認の問題の救済として「セカイ系」が出てきていたことを忘れないでほしい。自己に閉塞し、他者を空虚な存在にする「セカイ系」は批判されるべきだが、「透明な存在」に対して「セカイ系」は愛を与えて救っていた。だが桃果の限界は、救済が虚構にとどまって不承認の問題の根本的な解決をしていなかったことにあった。しかし、「セカイ系」という虚構から受け取った承認という形の愛を、現実においてピングドラムという愛として循環させることはできる。ペンギン帽によるイリュージョンの度に「生存戦略!」と叫ばれるが、そのあとに続く台詞の「イマジン(Imagine)!」は虚構の「セカイ系」からもらった承認を思い出せという意味だったのではないか。「セカイ系」という虚構による承認を受け取った人々はそれを忘れるのではなく、その後の現実世界において承認という名の愛を循環させていかなければならなかったのではないか。

 そして『輪るピングドラム』は、この作品を見ている私達にも、虚構からの愛を私達の手のひらに乗せて示している。作品の最後に画面いっぱいにりんごを持つ手が描かれた絵が出てくるが、大事そうにりんごを持つその手は絵の下から差し出されている。この絵の下部、つまり作品を見る側に一番近いところから差し出された手は作品を見る私達の手と解釈することができる。そしてその中に収まっているのは、分け与えられた半分のりんごなのだ。そして次のシーンでは、最終話のタイトル「愛してる」が画面いっぱいに映し出される。この映像表現は、作品受容者の私達に対し、自分達の手の中にも誰かからもらったりんごがあり、そのりんごとはアニメを作った側から与えられたものかもしれないとも読み取れるものだ。つまり、アニメという虚構を作り出している側から承認という愛が存在すると私達に伝える表現なのだ。

 そして虚構からの承認を得た後に、現実世界で他者との間で自己犠牲を伴う愛を循環させることを通じてお互いに承認を与え合わないといけない。そこに自己犠牲を伴うのは、今まで虚構に耽溺して不承認の問題の解決に取り組んでこなかった罰でもあるかもしれない。

5章:「ポスト・セカイ系」の今後

 さて、ここまでの議論で「セカイ系」に関する議論が見落としてきたものが見えてきただろうか。虚構の時代から現代まで続く不承認の問題、そして虚構に完結する救済としての「セカイ系」と、現実に暴力の形をとって解決しようとするテロ。見て見ぬふりをされて今日に至るまで積み重なってしまった多くの負債を少しでも減らすために、『輪るピングドラム』が、アニメという虚構として私達に示した新しい物語。それは「セカイ系」という虚構の与えた承認をもとに、現実において互いに互いを承認しあう関係性を築くために自己犠牲を伴う愛を与えていきなさいと示す物語であった。

 だが、ここで問題が一つある。陽毬と苹果は生き残ったものの、冠葉と晶馬は犠牲になって消滅してしまったことだ。陽毬は二人の兄の存在をはっきりと覚えているわけでなく、二人の兄が残したメモの「大スキだよ!!お兄ちゃんより」という言葉を見て不思議と涙が出てくるだけである。そして、冠葉と晶馬の生まれ変わりと思しき少年二人が陽毬の暮らす家──かつて三人で暮らしていた家──の前を通り過ぎるときに、「りんごは愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ」と言い、死は終わりではないと話しながら去っていく。冠葉と晶馬は自己犠牲を伴う愛を与えたが故に死んでしまったが、代わりに新しい命を得て生まれ変わったということになる。

 しかし個人にとって死は絶対的な終わりである。自分の死んだ後も世界は続いていくので自己犠牲を積極的にしましょう、と解釈されてしまうのでは全体主義に繋がりかねない。もちろん、見て見ぬふりをされ続けた不承認の問題の解決には多少の犠牲を払わねばならない場面もあるだろう。それでも、その犠牲として死が提示されて美化されてしまうのは危険な論理を孕んでいると言える。

 だが今までの議論で確認してきたように、「セカイ系」という自己愛に閉じこもる物語が台頭する時代が続いてきた。その物語とは、現実において人が誰ともつながることのできない、誰からも承認をもらえず、誰にも承認を与えることのできない世界である。その閉塞した世界を打ち破るための手段として『輪るピングドラム』で提示されたのが自己犠牲であり、その自己犠牲とは人が誰かとつながるのに必ず伴うものである。そして『輪るピングドラム』は、その過程における自己犠牲を肯定的に捉えることで不承認の問題を乗り越える後押しをしている。それは自分の大義のために死ぬテロが自己犠牲を賛美するのとは違う。

 それでも自己犠牲という行為は、明確な善悪の線引きをすることができない、扱いが難しいテーマである。しかし、ひとまずは「ポスト・セカイ系」の後の物語が『輪るピングドラム』の自己犠牲の問題をどのように扱うのかを、虚構の世界が機能していると信じる立場としては見守りたい。

(了)

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