奇説 今昔物語集 vol.004 -藤原氏列伝(下)-篇
人形浄瑠璃や歌舞伎の演目としても有名な『菅原伝授手習鑑』では、極悪人として描かれる時平(しへい)のモデルとなるのが今回の主人公、藤原 時平である。実の叔父のワイフを寝取ってしまう、という壮絶な艶物語は、後世、谷崎 潤一郎の小説『少将滋幹の母』のモチーフにもなった。
1.本院の左大臣 時平
今は昔、本院の左大臣と呼ばれた藤原 時平という人がいた。時平は、昭宣公と呼ばれた日本史上初の関白、藤原 基経の子である。時平の邸宅は左京一条、現在の堀川通の東側に位置し、「本院」と呼ばれたのは、藤原氏の氏長者としてその権力を掌握したことから付いた名前であったからに違いない。
時平はこのとき、まだ壮年で三十歳になったくらいであろうか、容姿端麗、才気利発で非の打ちどころがなかった。時の天皇は醍醐天皇でよく仁政を行ったので、その治世は延喜の治と称された。また醍醐天皇の子の村上天皇も父親を見習って素晴らしい政治を行なったらしく、この二代の天皇の治世は延喜・天暦の治と呼ばれ、天皇が親政を行なっていたうちで最も上手くいった事例として、後に中国史における周の文王のように神聖視されることになった。
ちなみに、左大臣 時平の脇で同じく醍醐天皇を補佐したのが、右大臣であった菅原 道真である。
『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』として浄瑠璃にもなる昌泰の変は、時平の讒言により道真が右大臣の職を解かれ太宰府に流されるに至る物語で、後に時平はわずか三十九歳という若さで病死することになるが、これも菅原 道真の祟りであると当時から人々に噂された。
時平には、道真の祟りによって悪人のイメージがすっかり定着してしまったが、延喜の治を支えた殊勲者として名宰相であったことに疑いはない。
醍醐天皇が明君であったのは、財政規律を重んじたからであろうと思われる。当時、贅沢や行き過ぎた華美な暮らしを禁止していたのだが、あるとき、時平が内裏に参内したときのことである。醍醐天皇は、時平がことさら美しい装束で着飾って歩いてくるのを小窓から見つけた。
「庶民はおろか、家臣にも申し渡しているというのに、左大臣たる時平が何たる贅沢ッ!」
醍醐天皇は激怒した。直ぐに天皇の秘書官である蔵人を呼び、こう言った。
「時平のあの格好はなんだッ!左大臣といえば大臣の中でも主席。時平は主席の大臣でありながら、法令を無視して、あのように豪勢に着飾って参内するとは不届き千万である。早々に退出せよ、としかと申し渡すように」
蔵人は、今をときめく権力者の時平に対して醍醐天皇の怒りを取り次がねばならず、嫌な役目を仰せつかったものだ、と気落ちしたが勅命であるからには見過ごすわけにもいかず、ええいッ、ままよと勇気を振り絞りつつも震えながら時平に伝えた。
ところが、蔵人の予想に反して、時平は大いに驚き、恐縮した様子で急いで退出したのである。ただ退出したのではない。左大臣ともなると「先払い」といって
「左大臣のお成り」
「左大臣、お帰り」
という風に、従者たちが前持って告知をして回る。それを聞いて内裏で働くものたちは、かしこまったり、挨拶をしたりするわけだが、このときは警護の武官や身の回りの世話をする従者などを振り切る勢いで、先払いの声も出させずに、時平は文字通り内裏から逃げ帰った。従者たちは、なぜ参内したばかりの時平が、このように慌だたしく帰るのか、理由もわからないので戸惑った。
その後、時平はひと月の間、本院の門を閉じ、外出どころか部屋からも出ることなく、心配して人が訪ねてきても、
「醍醐天皇のお怒りがおさまらないので」
といって、会うことはなかった。だいぶ後になって、これは実は醍醐天皇と時平が事前に示し合わせて、世間にこの法令をより効果的に知らしめるために行なったことがわかった。
2.羊頭狗肉
少しテイストは異なるが、この話は晏嬰(あんえい)の逸話に似ている。
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