死生観 啄木 篇
1.金にルーズな天才詩人
石川 啄木といえば、日本人の誰もがその名を知る天才詩人のうちの一人といってよいでしょう。
という歌を由来とした傑作『一握の砂』。この中に収められている幾つかの詩は、覚えていなくとも日本人の記憶のどこかに、まさに一握の砂のように落とし込まれていて、一度も聞いたことがないはずのビートルズのフレーズをなぜか知っているような、そんな感慨を持つにいたるのであります。
説明も全く必要がないほど、貧乏です。本当の貧困とはかくあるべきか。しかし啄木はニートというわけではありません。歴とした朝日新聞社員であり、月給は25円(現在の30万円程度)ちゃんとあります。
函館市中央図書館の啄木文庫に残されている啄木の借金記録を見ると、1905年から約4年間の借金(実際に借りた金額だけではなく、ツケ払いや支払延滞といった内容を含む)は総額1372円50銭(現在換算で約1400万円)とあります。
そして、これらの借金のほとんどは、吉原や浅草での花街通いなどで浪費していたとみられています。まぁ、一から人生を追わずとも、どうしようもない人間だったことがわかります。
2.闘病、そして貧困
明治44年(1911年)2月1日、石川 啄木は慢性腹膜炎の診断を受け、青山内科(東京帝国大学内科学教室)の18号室に入院します。
3月に一旦、退院はしますが、症状は改善せず、やがて肺結核の診断を受けると、同時に妻の節子も健康を崩し、これまた肺結核と診断されてしまいます。炊事洗濯のほか家事全般は老いた母、カツの仕事となり、いたたまれなくなった父、一禎(いってい)は9月に家出してしまいます。
もはや、何もいうことがありません。
日本が貧乏になった、とはいえ、当時の本当の貧困(それも啄木の華街通いのせいなのですが)の様子を辿っていくと、なぜこの頃に社会主義や共産主義が説得力を持って大衆に迎えられていたかがよく分かります。
明けて明治45年の元旦、啄木は老母と妻に向かって呟きます。
「元旦だというのに笑い声一つしないのはオレの家だけだろうな」
1月21日になると、夏目 漱石の門下生の中でも品行が悪く「漱石の異色の弟子」と悪名も高かった作家の森田 草平(要は啄木の悪友)が家にやってきて、漱石の奥さんからお見舞いだ、といって10円を置いていきます。
現在の10万円ほどの価値だと思えば良いでしょう。
啄木は日記にこう記しています。
その金も尽きようとする1月21日、勤務先の朝日新聞社の同僚たちがやってきて、見舞金を今度は34円40銭置いていきます。
その翌日、啄木は「非常な冒険を犯すような気で俥に乗って」町へ出て、クロポトキンの『ロシヤ文学』や原稿用紙やノートを買い、4円50銭も使ってしまいます。
2月に入ると、今度は老母が喀血してやはり肺結核の診断を受けます。啄木の小さな家屋で、3人が咳をし、血を吐くという地獄絵図のような有様になってしまいます。
啄木の日記は2月20日で絶筆となっています。
カツ(母)の病状は急激に進行し3月7日に死亡すると、啄木の病状も悪化。前年に家出をして北海道に逃げていた父、一禎は呼ばれてまた上京してきます。
3.桜花が汗ばんで咲き垂れる
3月13日、読売新聞に「石川啄木危篤」とあるのを目にした同郷の盛岡中学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)の先輩、金田一 京助が啄木の自宅まで翔んでやってきます。
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