見出し画像

存在の構造 篇

 生と死は表裏一体の概念であるのに、人は、何故、死の方ばかりを怖れるのだろうか

 意外にも日常では忘れ去られがちな真実であるが、その昔、何億という子種の中から、奇跡的に母親の胎内において着床し、アメーバのようなものになり、やがて人として形成されていったのが、ぼくであり、あなたである。

 この何億の子種の中で、他のどの種でもなく、まさにこの「ぼく」となる種が残ったからこそ、今、ぼくがこの世に存在しているわけである。

 奇跡ッ、と叫びたいところだけれど、このとき、ぼくがもし母親の胎内を、

 「あー、めんどくせ」

とかいって、泳ぐことを否定していれば、当然、ぼくは人間として生まれることはなく、この世に誕生することもなかっただろう。実際、何千個か、何万個かの我が同胞は、力なく、泳ぐことなく彼方へ消えていったことは容易に推測することができる。

 一瞬の、短き人生。
 行為としては自殺とみてとれる死に方をした、ぼくの最初の身内。

 一方、泳ぎに泳いで、泳ぎきったのだけれども、一歩およばず力尽きた兵たちもいる。こちらは何千万個、何億個といるだろう。

 一瞬の、短き人生。
 だが、こちらはやるべきことをやってその生涯を終えた、羨望に値する人生。箱根駅伝でブレーキしてしまった選手と同じくらいの感動を、味わったかもしれない。繋ぎたかったタスキ。繋げなくてゴメン。

 さて。
 そうしてぼくは、母親の胎内の中で、十月十日の時を過ごすのである。
 選ばれし者に与えられる、最初の安住の地。
 エヴァが住んでいた楽園、ザイオンのような絶対安全なる空間において、母親の養分をヒルのように吸い取りながらすくすくと成長するのだ。

 ところが、ある日、運命の時が訪れると、否応も無く胎児は外界へと放り出されてしまう。死が「存在することができなくなる」行為であると規定すれば、母親の胎内に存在できなくなるという「生まれる」行為は、実は、最初に体験する「死」である。

 「死」は悲しいことである、とぼくは思う。
 いや、もっと正確にいうと、「死」には「悲しい」という感情が付随しているのだ。

 親しい人が死ぬと、悲しい、と思う。
 だが、何故、親しい人が死ぬと「悲しい」という感情が生じるのか。
 それは、「悲しい」という感情の裏に、「もう会うことができない」という想いがあるからだ。

 「死」が存在を許さぬ行為、すなわち「不存在」を示すものであるからこそ、「もう会えない」という事実が、自らの「生(存在)」を脅かす行為のように思えて、怖れを抱くのである。

 だから、会ったこともない人が死亡した、という情報を、テレビや新聞などメディアで目にしても、まったく悲しくはない。

 詰まるところ、われわれは、「死」が怖いのではなく、「もう会えなくなること」が怖いのだ。

 だが、もう一歩踏み込んで「もう会えなくなる」とはどういうことかを考えていくと、会えたこと自体が奇跡的だったことに気がつくことになる。

 物理学の根源、宇宙の生成過程については、何も明らかになっていない。
 宇宙物理学者は、宇宙の誕生を「ビッグバン」、つまり、突然、爆発が起こって出来た、とこれ以上ないくらいに適当に説明しているわけだが、結局のところ、ぼくたちは、どうして存在するのかもわからない宇宙になぜか存在していて、そして、どうしてかは分からないが、その人と出会ってしまうわけである。

 そして、この「出会い」自体が奇跡的なことだったと気がつくと、「死」を悲しんでばかりもいられなくなる。むしろ、「死」に対して感謝にも似た感情が湧き起こってくる。

 よく「人間の本当の価値は、葬式に何人来てくれるかで決まる」という人がいるが、ぼくにしてみれば、ぼくの葬式に何人来ようが、ぼくにとっては全く関係のないことである。何故ならば、ぼくは死んでいるのであり、もうそこにぼくの心、記憶は存在していないからだ。

 結局、物も事も、およそ一切の事象は、ぼくたちの記憶の中にあることをもってのみ存在する。記憶から消えたときが人間にとっての「死」であるし、死、とは人間にとってしか存在しえないだろう。

 そういう意味では、大事な人というのは、いつも隣にいることよりも、自分の手の届かないところにいる方が、より近い存在になる、とも考えることができる。

 死は、「もう会えない」という感情を付随するから悲しいのだ。
 だが、人と出会う、ということは奇跡的なことだ。では、そのように、不思議で、奇跡的な出会いをした人と、「もう会えない」ということがあるのだろうか。

 無用の用、のような論理になってしまうが、事や物の存在が人間の記憶の中によってのみ立証されるこの現実世界において、実は、「もう会えない」ということはない。

 その証左として、ぼくは、遥か数千年、数百年前に存在していたであろう人物にも、その「記憶」の断片を通して出会うことができる。いつも隣にいた人のことは、普段、考えもしなかったけれど、その人がいなくなったときに初めて、記憶の中で近しい存在となり得るのである。

 一期一会とその記憶。
 これが存在の構造なのだ。

ここから先は

0字

Podcast「チノアソビ」では語れなかったことをつらつらと。リベラル・アーツを中心に置くことを意識しつつも、政治・経済・その他時事ニュー…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?