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死生観-人生とは、曰く不可解-篇

1. 最高的朋友去世而暮悲嘆

 闇い始まりで恐縮だが、この気持ちをどう表現して良いのかわからず、序章のタイトルは中国語風にした。

 今日、友の死の知らせが届いた。

 彼とは、ぼくが2005年に福岡市の清川にTAOという、吹けば飛ぶような小さなカフェ&バーをオープンしてから、すぐに知り合った。
 当時、彼は九州大学の知的財産本部で期間付のスタッフ、つまりいわゆるポスドクとして勤務していた。未だ居住したことも、実はそんなに遊びに来たこともなかった福岡で、つまり何の縁も知己もなかった中でいきなり飲食店をスタートさせてしまった27歳のぼくにとって、アカデミックな香りを身に纏ってTAOにやって来る彼は、夜な夜な議論を戦わせるライバルであり、私的な相談をし会える朋友であり、3歳年上の兄貴のような人であった。

 これらの内容を、彼の許可もなくここに記してしまうことは、彼の生と死に対する冒涜でもあるように感じられ、せめて、死生観に対するぼくの考えを綴り、遥か天上でこちらを凝視しているであろう 槐島 慎 氏に捧げるものとしたい。

2. 藤村操と「厳頭之感」


 「皆さん、突然ですが、サヨウナラ。」

 かく言うぼくも、或る時期に、この世から、いつお暇を頂いても構わぬよう、かつて命の炎を燃やし尽くした先達の言葉を研究しようと思い立ったことがあった。

 「ひょっとして、あんた、本気で死ぬ気あるの?」

と詰問されてしまいそうなので、そこは断言しておく。別段、いま直ぐに命を断つつもりはない。そのうちに、ぼくの中の大いなるニヒリズムが、突如として巨大化していって、ついに、その時が来るのかもしれない。ただそれまでは、死ぬ気になって生きてみようなどと思ってみれば、人生は随分と違ったものになってくるのだろう、などと暢気なことを考えているのである。

 「人生とは、曰く不可解」
  (ジンセイ トハ イワク フカカイ)

 この台詞は、いまからおよそ120年も昔、若き哲学者が刻んだ辞世の一節である。彼の場合、辞世というよりも、むしろ「遺書」と呼んだ方がいいのかもしれない。

 ちなみに、この辞世には題名がある。

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