「人生の意味」という虚構
時間が余るほどあると、「人生の意味ってなんだろう?」というしょうもない事を考えてしまう。
突き詰めれば人生の意味なんて存在しないことは良くわかっている。それなのに、ぐるぐると頭の中で考えては、わからないわからないと悶えてしまう。
世界に投げ出されたという感覚。自分の意思と関わりなく、この世に生まれてしまったという意識。僕にはこいつらがいつも付き纏っている。人生は強制スタートであって、芥川龍之介の『河童』のように自分が生まれる事を選べない。
僕は無神論者なので、神がこの世界を創りたもうたとも思ってないし、神の栄光のために僕の人生があるとも、来世の救済のために今の人生があるとも思っていない(もちろん自分は無神論者だが、信仰を有している人のことは尊重したい)。
突き詰めると人生の意味などどこにも無い。でも、それじゃ居た堪れないような気がしてしまう。だから探してしまう。そうして見つからなくて、絶望し、また探す。
詰まるところ、無意味なことほど僕らにとって苦痛なことはないんじないだろうか。まして、人生というものが壮大な無意味=茶番だということに耐えられるほど、我々は強くない。だから、例えそれが虚構であることに薄々気付いていても、「人生の意味」を探して、ギリギリのところで正気を保とうとしているのではないか。
人生が究極的には無意味かもしれないと思った時、その人は発狂せずにはおれないだろう。しかしそれは、人生という「茶番」を生きるための、それも心持ち楽に生きるための、一つの転機になるような気がする。
つらつらと考えを書いていると、不意に酷く空腹であることに気がついた。もしかすると、僕の人生の意味は僕の胃が知っているかもしれない。
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