「視線の先」

薄暗い館内は空調が効いていて涼しかった。ゆらゆらと蒼い光が来館者の顔を照らす。家族連れや友人同士、好きな人と一緒に楽しんでいるようだった。その中で私は人混みの間をすり抜けて目的の水槽の前に立つ。一番大きくて、ジンベイザメやマンタが悠々と泳いでいた。その大海原の一部を切り取ったような風景が目の前に見られる場所にいくつかソファがあった。私は空いていた場所に腰掛ける。隣には一人で座っている人がいた。頬杖をついてじっと水槽を見つめている。誰かを待っている雰囲気ではなかった。なんというか、そう、何かを必死に考えているかのような、目の前の魚が水中を泳いでいるのと同じようにその人は思考の海に潜っている感じだった。蒼い光が反射してゆれている瞳は自分にも覚えがある

 私は思った。ああ、この人は迷っているんだなと。

 人にはそれぞれ何か大きな事があった時、人生の分岐点に立った時に訪れる場所があるのではないだろうか。その人にとってそれが水族館なのだろう。水槽の前に座って揺れる水面や泳ぐ魚たちを見ながらどうしようかと考えるのだ。

 この人はいつからこの水槽の前に座っているのだろうか。どのような答えを導き出すのだろうか、どんな道に進むのだろうか。その人にしかわからない色々な葛藤があるのだろう。複雑に絡み合った思考の糸を一つ一つほどいていってたどり着いた先にあるものを選び取る。その作業をしているのだろう。

 一時間くらい経っただろうか。ふいに隣の気配が立ち上がった。つられて視線を上げる。その人は一つ瞬きをして振り切るように魚たちに背を向けて歩いて行った。


 その瞳はゆらゆらとゆれることなく、まっすぐと前を見ていた。

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