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『雲の屑』: 言葉のない人間に暴力以外のものは残り得るのか

『雲の屑』(2015)
監督:中村祐太郎  脚本:木村暉
東京学生映画祭 グランプリ受賞、観客賞受賞
予告編:


就活していなければ、『雲の屑』を観てまた全然違う感想になったのだろうが、就活生としての感想を一言にまとめれば、この映画は、「言葉のない人間め、お前はなんのために生きているのか、どうやって生きていけばいいのか(、そして、本当に生きていられるのか)」を問う映画に見えた。

就活で最低限に求められることとして、相手の話や質問を(聞きたくなくても、聞き流しているとしても)しっかり聞く姿勢を見せ、そして(本心じゃなくても、自分の考えじゃなくても)とりあえずその場でそれらしい言葉を発して、少なくとも形式上、コミュニケーションのキャッチボールを全うするように演じることだと、私は思った。

そのプロセスで、瞬時に何かの言葉を発する力が求められている。本当は嘘をついていて、対応するために適当に言っただけだとしでも、言葉を求められた時、言葉を発せられただけで、私はいつもほっとする。本当は自分の言葉ではなく誰かの言葉を借用(盗用)したとしても、あるいは、自分の考えではなく相手に求められていることを言うことで嘘をついたとしても私はそれらに対して罪悪感を持たなくなった。何かの言葉を発したことの達成感の方がそれを上回って、罪悪感のことを私に忘れさせ、言葉の重みが消えてなくなった。

思ってもいないことを言い続けることで本当にそれを信じてしまうんじゃないか、見せたい虚偽の自分を作り続けることでそれが本当の自分になってしまうんじゃないかと、私は思い悩んで先生に相談した。

先生は、「それができるのは、社会性が高いということだよ」と私を慰めてくれた。

それを思い出すと、私が『雲の屑』を観た時に終始持っていた違和感はなんだったのかがよくわかった。この人たちは言葉を持っていない人間で、そのコミュニケーションは常に一方通行だったから。

・ 浩輔が幸雄にビジネスの説明をするとき、幸雄がテレビゲームをしていて聴いているように思えない
・ ゆり(浩輔の今カノで幸雄の元カノ)が帰ってきて挨拶するのに、二人は無視してテレビゲームをやり続ける
・ 次女が彼氏であろう男子学生といるとき常に携帯をいじっていて男子学生に反応をしない
・ 幸雄は元カノに話しかけても、元カノは携帯ばかり見ている。セックスしても彼女は全く感じない
・ 次女は、長男の仕事の先輩のおじさんや幸雄のセックス中、文脈もなく謎の詩を暗唱する
・ 「明日プレゼンを入れたので幸雄さん頼みますね」と浩輔に言われた幸雄、タバコを吸って応答しない

以上羅列したものは、発話者が無視されるパターンがほとんどなので、まだわかりやすいコミュニケーションの一方通行だった。しかし私がより面白いと思ったのは、むしろ何かを言っているけど何も言っていないようなコミュニケーションの行き違いである。

例えば、最初の幸雄の女性遍歴の自慢はその一例である。東京で一日に性交した女性の人数が何百人だの何十人だのと自慢するが、それが嘘なのは浩輔にもわかっているし、冗談としてもあまり面白くはない。彼は何かを言っているが、何も言っていない。

また、浩輔と彼女のゆりの会話もそうだった。ここにいても腐るだけだというわりと真面目な話を浩輔が彼女にしても、彼女は「いいじゃん、すごいじゃん」とだけ言って、向き合おうとしない。「お前、幸雄とヤったんだろ」と言われても、「え?」「ん?」「何言ってんの」としか答えない。二人は話してはいるように見えるが、何も話していない。

次女が謎の詩を暗唱することもそうだ。彼女にとって言葉の目的は目の前の人に伝わることではなく、軽蔑することである。つまり同じ言葉を使っていても私はその最も高尚な形で、あなたには到底理解できないものを使っているのよ、という自分の優越感を宣告する行為である。レイプされても、暴力をふるわれても私は精神的にはあなたより上で、あなたを見下しているのよという、彼女なりの阿Q精神である。そのコミュニケーションは彼女自身の中で完結しているのである。

さらに、コミュニケーションが円滑に進んでいるように見えても実は誰かの思い込みによるものの例もある。例えば長女と浩輔の会話はそれに当てはまる。ネズミ講の下級会員で、搾取される立場で、被害者なのに、「幸せのお裾分け」だと信じ込み、自分から進んで奴隷になる。浩輔からしたら彼女はめんどくさくて愚かな存在だろうが、彼女は浩輔を家族の進路について相談できる親切なお友達として認識している。二人の会話は、映画の中で数少ない暴力のない平和なシーンで、会話も弾んでいるように進むが、互いの前提がそもそも大きく異なることから、実はそれは表面的なもので、本当のコミュニケーションではない。

結局この作品の中で、言葉を通して他者とわかり合う人が一人もいない。物語を進めるのもまた言葉ではない。言葉を発せば発するほどその意味が失われる。言葉に意味がある、という前提自体を崩壊させるような脚本と言ってもいいだろう。


そういう意味では主人公は存在せず、みんな言葉の法則が通用しない人として作品の中で同等な地位にある。特に幸雄の場合、暴力が言葉の代わりとなっている。長男(卓夫)が最初にビジネスに勧誘された時に拒絶したが、二人の暴力に屈従し、いいと言う。しかしそう承諾した後も、幸雄は彼に灰皿に入れたお酒を飲ませようとして、意味もなく暴力をふるう。つまり幸雄にとって、暴力が何かの目的を達成させるための手段ではなく、暴力そのものが目的になっている。

もちろん幸雄は、生まれながらそうだったとは思わない。彼は、複数の抑圧を受けていて、また冒頭で後輩の浩輔の短い会話で、浩輔の言葉によって何度も精神的に去勢されている。

まず浩輔は、幸雄のおそらく水商売をしていた母親の話をする。「俺初体験の相手、幸雄さんのお母さんなんっすよ、やばいっすよね」と。つまり、お前は俺の先輩だけど娼婦の子だよ、父のいないbastardだよ、自分のことを偉いと思ってんじゃねぇーぞ、という、一度目の去勢である。

次に、「お母さんがどっか行っちゃって、住むとこもない」ことを指摘する。経済力で言うとこっちの方が上だぞ、お前は居候している身で俺の世話になっている方だよという、二度目の去勢。

最後に、幸雄さんの元カノが自分の今カノであることを浩輔が打ち明ける。男性魅力で言っても自分が勝ってるぞ、という三度目の去勢。

もちろん、幸雄は抑圧されているからと言って同情できるわけではない。しかし一つ言えるとして、彼が暴力をふるっているのは強いからではなく、弱いことを隠そうとしているからということである。地元の閉鎖的なコミュニティーの中では暴力でなんとかしてきたとしても、誰も知らない東京ではもちろんそれが通用するわけがない。都会と現代のルールに去勢され、自分の言葉を持たない彼は、さらに弱い人を暴力で支配することで自分の男らしさを奪回しようとしている。彼は名目上、浩輔と一緒にネットワークビジネスをやっているが、彼自身は特にやる気がない。「プレゼン」という、まさに言葉がすべての行為に、自分が必ず失敗することがわかっているから、その挫折感を埋めるために暴力をふるい続ける。彼にはもはや暴力以外なにもないのだ。

作品の終盤、浩輔の家で長男を狂ったように殴る幸雄は、殴りながらこのような言葉を発している。「お前のせいだよ、自分じゃ何もできないくせになんなんじゃ」
「お前なんのために生きてんだよ、もっと努力しろよ」、そして面白いことに、殴ったあと、「飽きたよ、うんこしたい」と言いながら去っていく。

しかし観客には分かる。自分じゃ何もできないのは幸雄で、生きる目的がないのは幸雄で、また努力しないのも幸雄自身である。幸雄の怒りは、力があってみんなに怖がられて女性とセックスしまくる(と自称する)いわゆる「男らしい」自分が、実は体型が薄く身長が低く、安い月給で地味な仕事をしていて、風俗に行く勇気もないいわゆる「男らしくない」長男よりも社会的に弱いことから由来している。「飽きたよ」と自分が言うことで、暴力の無力を認識していることが露呈してしまう。彼の生活は、他人に暴力をふるうこと、排泄すること、エロ漫画を眺めながら自慰行為をすること、その場その場で出会った女性とセックスすること以上なにもない。すべて言葉が不必要な行為である。その虚無性に彼は飽きて、またそれを解決するために暴力をふるい、女性をいじめ、また結果的にそれで虚無に陥るという無限の悪循環から彼は脱出できずにいる。

彼の二回のセックスを振り返ってみよう。一回目は、自分の元カノで浩輔の今カノのゆりと。おそらく彼は彼女を「征服」することで、浩輔に奪われた男性性を取り戻そうとするが、彼女が全く感じず、なにも反応しない。「お前女なんだから努力しろよ、もっと気持ちよくしろよ」と、彼女の頭を叩くが、挫折してしまったことは事実である。

二回目は、謎の詩を唱える次女と。セックスの間に次女は詩を語り続ける。幸雄は「お前何言ってんの、意味がわからないよ」と、同様に彼女をビンタする。しかし今回は、挫折した様子はなく、幸雄は大笑いする。言葉を持たない幸雄は、初めて暴力で言葉に勝ったと実感したところである。言葉の最高芸術である詩を凌辱することで、言葉を生きる術としている人たちに勝った錯覚でもあったのではないか。

この映画は、女性嫌悪の嫌疑で女性には不人気だったらしいが、フェミニストとして私は女性嫌悪とは思わなかった。なぜかと言えば、家父長制の社会に実在する女性嫌悪を最もリアルな形で、言い換えれば最も見苦しく、不快な形で見せているから。重要なのは、作品の中で女性が虐められ、暴力をふるわれ、馬鹿にように振る舞い、言葉も意志も思想も持っていないことではない。重要なのは、なぜ彼女たちがそう描かれているかを考えることである。彼女たちは、言葉を持っていないのではなく、言葉を持つことが許されていないのだ。

二人の男の力関係の張り合いに巻き込まれ、幸雄にレイプされたゆりは、気持ちいいと言うことと暴力を振るわれること以外の選択肢を与えられていない;一人で家族を支えざるを得ず、頼れる家族、友人やパートナーに恵まれない長女は、騙してくる浩輔たちに初めて希望を見出して奴隷の無知な幸せを得る;年上の男性に性的に搾取され、転落する女子高生たち。

「ホモソーシャル」という言葉は最近、業界かかわらず色々なところで聞くようになったが、あまり知られていないのは、最初にこの言葉が1985年にイブ・セジウィック『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望』によって世に出たのは、フェミニズム理論の文脈においてであることだ。ホモソーシャルは、女性嫌悪を前提とすることがその理論の中核となっている。『雲の屑』は、それを意識しているかどうかはわからないが、見事にそれを表現している。もちろん男性は、男らしさとホモソーシャルな環境に抑圧されているが、その前提には女性への抑圧が常にあることを忘れてはいけない。

言葉の奪われた人間には、暴力以外のものは残り得るのか。幸雄の死は一つのアレゴリーとしてその質問に答えようとしている。彼を実際に殺したのは長男ではなく、小男だった。つまり抑圧と暴力の連鎖によるものではなく、文字通りに言葉を持たない小男が長男を救うための行為だった。小男は、文字通り言葉を持たずに、みんなにいじめられるが、いつもその優しさと明るさを保持している。
しかしそれは希望なのか、幻なのか?小男は人間なのか、天使なのか?我々の到達できる美徳なのか、それとも到達できない理想なのか?


それは私にはなにも言えないが、就活生として言いたいのはむしろ、ひたすら言葉を求められることも時には暴力のように感じること、言葉なしではなにも残らない人間になるかもしれない恐怖である。

あぁー、就活早く終わってほしい。


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