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タヌトの来歴・体験談【高機能自閉症、母子家庭育ち、親の離婚3回、父親がストーカー、義父2人】

私タヌトは、高機能自閉症という発達障がいと診断されています。

母子家庭で育ち、親の離婚を3回経験しました。

養護学校、通信制高校、専門学校、就労移行支援事業所、アパート、借家、グループホームと活動の場を移し現在に至ります。

そんな私タヌトが現在に至るまでの、来歴と体験談をご紹介します。


幼少期

1994年11月13日、石川県の小松市民病院にて当時東芝で働いていた父親と、主婦だった母親の間に長男として私タヌトは生まれました。

1997年頃、旅館で横になっていた父親の足につまずき、テーブルの角に激突して頭頂部が陥没する大けがをしました。

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母親が言うには、このけがを負う以前の私は普通の子どもだったらしいです。

私の父親は東芝に20年以上勤めていた人であり、パソコンやゲームといった機器が大好きでした。

まだ3歳くらいだった私に、当時まだあまり普及していなかったパソコンを触らせていました。

その為、私はパソコンやゲームに関しては他の子よりも得意でした。

2000年頃、プレイステーション2のゲーム「アーマード・コア2」に熱中し、トイレに行くのを我慢し続けた結果、「膀胱炎」を発症しました。

尿道が閉じてしまっていた為、尿道に針を通す治療を受けたのですが、今でも鮮明に思い出せるほどトラウマになりました。

幼少期の私は病弱であり、風邪、虫歯、てんかん、ひきつけ等で何度も病院に行きました。

その頃に母親は、私に対して多数の違和感を感じており、発達障がいや精神障がいの本を読み漁りました。

母親の提案で、石川県金沢市の精神科病院へ行った所、「高機能自閉症」と診断されました。

その際私の父親は病院の先生に対して「違うと思います」と言いました。

この言葉が、後の悪夢の始まりでした。

小学生時代

石川県加賀市勅使町にある勅使小学校に入学するも、当時はまだ周囲の人による「高機能自閉症」に対する理解がほとんどない時代でしたので、学校では不都合な事ばかり起きました。

小学2年生になった少し後から、不登校になったのを覚えています。

当時はまだ、高機能自閉症に対する情報が少なかったですから、不登校になった自分に納得が出来ませんでした。

その頃の私は精神的にとても不安定で、人と関わるとパニックになる為、一歩も外に出れなくなりました。

学校に行くどころか、他人に会う事すら出来なくなり、人と喋れず買い物にも行けず、このまま大人になって大丈夫なのかという強い恐怖感を抱いて日々を過ごしました。

その様な不安を忘れる為に、アニメ専門チャンネル「アニマックス」と、当時父親が持っていたパソコンに没頭したのを覚えています。

酒癖の悪い祖父が暴れていた為、実家から近所の知り合いが所有する借家に母親、父親、弟と一緒に引っ越しました。

この頃から父親は精神的におかしくなり、様々な奇行を行うようになりました。

東芝という大きな会社でのストレス、息子の発達障がいを認められないストレス、家を追い出されたストレス、親戚が病的なまでにお金を無心してくる人だったストレスなどが複合的に重なりおかしくなっていったんだと思います。

何度もトラブルになった為、母親は離婚を決意しました。

私は母親、弟と一緒に生活する事になりましたが、当時東芝に勤務していた父親からの金銭援助は大きく、金銭的には安定していました。

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親のトラブル、引っ越し、離婚などのいざこざが落ち着いてきた頃、養護学校「みどり分校」に入学する事になりました。

当時、高機能自閉症の生徒の入学は認められていなかったのですが、母親が何度も学校関係者を説得した結果、学校側が根負けし、入学する事が出来ました。

最初は黄色い帽子を深くかぶり、布団をかぶった状態でしか人前に出れないくらい、その頃の私は病的になっていました。

みどり分校には、素晴らしい先生がたくさんいました。

引きこもりだった私を、少しずつ人と関われる様に訓練して下さったんです。

畑でスイカやゴーヤを育てたり、水族館や動物園へ遠足しに行ったり、私の深く閉じた心が、少しずつ開いていきました。

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中学時代

みどり分校は、小〜中学まである学校だったのですが、中学時代はほとんど学校に通えませんでした。

離婚した父親は息子である私と弟を、毎週自宅に連れて行ってはゲームやミニ四駆をしていたんです。

それはまるで、私と弟が同年代の若い子たちと遊ばないように、洗脳しているようでした。

その様な生活を送っているうちに、学校に馴染めなくなり、私はまた不登校になりました。

ほとんど外出しない、2度目のひきこもり生活は2006年~2013年まで続く事になります。

離婚したはずの父親からの依存が激しくなり始め、完全に不登校になった私はオンラインゲーム「MPO+」に没頭し、昼夜逆転した生活を送るようになりました。

祖父の葬式や、親戚との金銭トラブル、祖母や母の都合により引っ越しを繰り返していた事などが重なって、私の心と、生活はガタガタに崩れました。

オンラインゲームで強くなることだけ考えていた為、他のプレイヤーからは「気持ち悪いほど強い」と言われました。

私は幼少の頃から絵が得意でしたので、色々な雑誌やコンテストに自分の絵を応募していました。

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ザウスという雑誌に6コマ漫画を連載させてもらったり、講談社の人に呼び出された事もあったのですが、残念ながら絵で食べていける程の才能はありませんでした。
 

昼夜逆転して、まともな物を食べなかった私は、不摂生がたたり「肺炎」を発症しました。

吐血するなどしたため、入院する事になったのですが、病院に行くのが1日遅れていたら間違いなく死んでいました。

水すら飲めないくらい衰弱していたんです。

何とか回復して退院する頃、私の母親は決意しました。

転換期

その頃母親は大聖寺で介護の仕事をしており、職場である男性と知り合いました。

その男性は、後に私の1人目の義父となる義父Aでした。

「田舎を転々としていても、今の様な生活から抜け出すのは難しい。このままでは息子さんも変わらないでしょう」と説得された私の母親は、石川県内では一番都会である金沢市へ引っ越す事を決意したのです。

金沢市なら、高機能自閉症に対する、社会からの理解も進んでいるかも知れない。

田舎よりは絵の才能を活かすチャンスがあるかも知れない、などの淡い期待を抱きながら金沢へ引っ越したのを覚えています。

当時、母子家庭で、加賀市から金沢市に引っ越す人は稀だったらしいです。

金沢市に引っ越した私は部屋に引きこもり、YouTubeやイラスト投稿サイトに、自分の作品を大量に投稿しました。

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自分に人前に出る仕事は出来ないと考えていましたので、何とかパソコンだけでお金を稼げないかと必死だったんです。

当時はまだ2009年頃でしたので、YouTuberやインスタグラマーといった概念がほとんど浸透していませんでしたし、道なき道を進んでいるような感覚でした。

金沢市に来てから2年くらいが経ち、義父Aと母親が再開し、結婚する事になりました。

私、母親、弟、義父Aの4人で生活する事になり、私はパソコンで絵を描く事に没頭しました。

義父Aと母が結婚していたにもかかわらず、私の父親はいまだに定期的に、私と弟を自宅に連れて行っていました。

父親からの依存は病的であり、結局私が高機能自閉症である事を頑なに認めません。

高機能自閉症、病的な父親からの依存、初めての義父との気を使う生活、パソコンで食っていかなければというプレッシャー、不登校で引きこもりである不安、様々な苦しみが重なり、私は強制的に精神力を鍛えられたように思います。

私は絵やパソコンの才能を活かすために、東京の専門学校「HAL東京」を見学しに行きました。

そこで先生から「君みたいなタイプは型にハマるよりは、高校を卒業してから美大に行った方が良い」と言われ、長らく不登校で引きこもりだった私に、普通の高校は厳しいと思い、通信制高校のアットマーク国際高等学校に通う事にしました。

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通信制高校で勉強しながら、2014年に自動車免許を取りました。

当時の状況ははっきり言って地獄でした。

義父Aと母親は、実家の後継など様々な都合が重なり、離婚する事になりました。

義父Aが家にいたおかげで病的な父親からの依存から守られていたのですが、案の定、とうの昔に離婚したはずの父親は、家に入って来ました。

このままでは家庭がグチャグチャになると思った母親は、当時勤めていたクリーニング屋さんの上司と結婚したのです。

この男性が、私の2人目の義父となる義父Mです。

長らく引きこもっていた障がい者でありながら、急に通信制高校で勉強し、ほとんど人と喋れないのに自動車学校へ通い、短期間で義理の父親2人と生活し、別れたはずの実の父親とも同時期にかかわらなくてはいけない、などの複合的なストレスにより、当時の私は凶暴になっていました。

理不尽な状況と、障がい者である自分の不自由さによって、尋常じゃない怒りが湧きました。

学校ではめちゃくちゃ浮いていて、陰口を沢山言われましたが、相当危ない人に見えていたのか、私に対して直接文句を言う人はいませんでした。

皆んなが離れていく、そんな感覚でした。

気が狂いそうになり、ここには書けないような事を考え、自分を保っていました。

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自動車学校を7ヶ月かけて卒業し、私の新しい車を実の父親が勝手に運転し始めました。

父親は、私の車でタバコを吸い、嫌味を言ってきたり、急に猛スピードを出したりしました。

義父Mと母親、私と弟が住んでいるところに、父親が来て、そんな事を繰り返すんです。

私はついにブチ切れて、一人暮らしを始めました。

実の父親に住所は教えず、これでもう自分は自由だと思いました。

専門学校時代

高校を卒業し、IT系の専門学校ファースト学園に一人暮らしをしながら通う事になりました。

今までまともな学校生活を送れていなかった私は、ある意味初めて学校に通うような気持ちでした。

「ようやくハンデがほとんど無い状態で勉強する事が出来る」と思った私は、狂ったように勉強しました。

パソコンが得意だったのもありますが、専門学校での私は、上から3番目くらいの成績でした。

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前途の通り、度重なる苦しい経験をしてきましたので、専門学校においては発達障がいがほとんどハンデにならないくらい、私は我慢強くなっていました。

2年生になる手前くらいで、母親が乳がんになり、学費を払う金銭的な余裕がなく、専門学校を中退する事になりました。

私は専門学校での成績が上から3番目くらいで、無断欠席は一切ありませんでしたので、中退する際、先生に引き止められました。

先生は私が勤勉であった事を考慮して、専門学校を1年間通ったという事にして下さりました。

いつか、2年生として戻ってこられるようにして貰えたんです。

専門学校で出来た友達とポケモンについて語ったり、色々楽しかったです。

小学校の頃からこんなに充実した学校生活だったら、どんなに楽しいんだろうと思いました。

私はこの頃、ITパスポートという資格を取得しました。

この頃住んでいたアパートの隣の部屋に騒音を出すおばさんが住んでいましたので、別の場所に引っ越しました。

警察を呼んだ途端に静かになる、悪質な人だったのを覚えています。

就労移行支援事業所時代

専門学校を中退した私は、一日中スーツを着て一人暮らししていました。

インターンシップへ行ったり、近所に引っ越してきた友人にご飯を作ったり、一日中外を出歩いてみたりしていました。

インターンシップや企業説明会に行った私は、やはり発達障がい者の私に、普通の就職は困難である事は薄々気付いていました。

目的を見失った私は、義父M、母、弟が住んでいる借家に住むことになりました。

この頃何度か一人暮らしをしようとアパートを転々としているのですが、隣人の出す音が無理で結局借家に戻っています。

この頃、私が「極度に聴覚が過敏」である事に、まだ気付いていませんでした。

DMM.comに面接に行ったり、一人暮らしを試みたりしている矢先、私は急に倒れました。

意識を失い、私は数日間動けなくなったのですが、その様子を見た義父Mと母親は「下手したら死んでいた」と言っていた事を覚えています。

母親に看病されながら回復した私は、YouTubeやTwitterなど様々なサイトに自分の作品を投稿しました。

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少しずつ自分で買い物に行けるようになり、就労移行支援事業所という障がい者が仕事につく訓練をしたりする施設に通う事になりました。

そこで私は、WordとExcelの資格を取得したり、ビルのトイレ清掃をしたり、ビジネスメールの書き方を学んだり、軽作業やデータ入力をするなどしました。

そこでやはり、私に普通の就職は無理だと強く思うようになり、良い意味で障がい者らしく生きようと決心したんです。

障がい者向けのグループホームに住むようになり、グループホームから就労移行支援事業所に通う事になりました。

しかし、グループホームから就労移行支援事業所までの距離が遠く、グループホーム自体も当時まだ完成したばかりで、色々とトラブルが起きてしまいました。

義父M、母、弟が住む借家に戻り、そこから就労移行支援事業所に通う事になりましたが、私は結局、就労移行支援事業所に通うのをやめます。

ビジネスメールの先生が私におっしゃった「タヌトさんは文章が上手いからなあ」という一言がきっかけでした。

実はその先生は元々、私が面接に行ったDMM.comのそれなりに偉い人でした。

私は専門学校生時代、DMM.comの会長の亀山さんの講演へ行ったのですが、質問コーナーの際に亀山さんから当てていただいた事があるんです。

これは何かのご縁だと思い、昔から続けていた「ブログ」を本格的に始めようと思い、就労移行支援事業所を辞め、ブロガーになりました。

その頃からタヌトの名を使うようになり、ブログ、Twitter、YouTubeなどで食べていけるようになろうと頑張り始めたんです。

タヌト時代

タヌトの名前でインターネット上に様々なコンテンツを出し、お金を稼ぐという考えに至った私は、一日中ブログを書いたり動画を投稿したりするようになりました。

その頃、私の家族の方でも色々あったのですが、プライバシーや家庭の事情の関係で、ここから先は書けません。

別のグループホームに住むようになり、そこでも隣人の出す音が理由で引っ越さざるをえなくなったのですが、そこで初めて自分が「聴覚が極度に過敏」である事に気づきました。

今はまた別のグループホームに住んでいるのですが、グループホームの方に教わった「防音イヤーマフ」をつける事で、何とか生活できています。

お風呂に入る際以外は防音イヤーマフを常につけた状態ですので、正直不便なのですが、引っ越しを繰り返して金欠に陥る訳にはいきませんので、仕方がありません。

お風呂に入る時は強力な耳栓をつけています。

義父や父親に気を使う事がなくなり、グループホームで一人暮らししている今が一番幸せかも知れません。

2019年2月にポケモンに関する有料記事を書いて以降、私タヌトの知名度は一気に上がりました。

とは言え、世間一般から見れば全くの無名ですが、ポケモン界隈では多少名の知れた存在なんです。

Twitterのフォロワーが合計で15万人を超えましたし、タヌトとしてもっと活躍したいです。

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幼少の頃から大切にしている、タヌキの人形です。

私タヌトの自伝本が完成しました。

私タヌトと母ひがぽんの共著です。