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ペリー来航前の日本

イシコフ:  ではいよいよ幕末の日本で何が起きていたのか。そのとき誰がどのように考え、どう動いたのかをしっかり検証していこう。

 最初に、ペリー来航前に起きた主な外国、外国人関連の事件を並べてみるよ。

  • 1837年(天保8年) アメリカの商船モリソン号が日本人漂流民を日本に送り届け、同時に通商の交渉をしようとするが、薩摩藩および浦賀奉行太田資統がイギリス船と思いこみ、異国船打払令に基づき砲撃(モリソン号事件)。

  • 1839年(天保10年) 高野長英・渡辺崋山などが、幕府のモリソン号事件の対応や鎖国政策を批判したとして処罰される(蛮社の獄)。老中・水野忠邦の側近として重用されていた鳥居 耀蔵ようぞうが古いやり方で江戸湾測量に失敗した腹いせに、進歩的な考えを持つ崋山らを陥れるために仕組んだとする説が有力。

  • 1842年(天保13年) 異国船打払令を廃止し、遭難した外国船に燃料と食料の補給を認める薪水給与令を制定。モリソン号事件への批判やアヘン戦争での清の完全敗北が大きく影響した。

  • 1843年(天保14年) 備後国福山藩藩主・阿部正弘(1819-1857)、24歳で老中に就任。

  • 1844年(天保15年) 鎖国の解除を求めるオランダ国王の親書が幕府に届けられる

  • 1845年(弘化2年) アメリカの捕鯨船マンハッタン号(マーケイター・クーパー船長)が、遭難した二組の日本人漂流民、計22名を救助し、浦賀に入港。クーパー船長は日本に来た最初のアメリカ人

  • 1846年(弘化3年) アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるが、時の老中・阿部正弘は拒絶する。

  • 1846年(弘化3年) アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員が択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。

  • 1848年(嘉永元年) アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員が西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みたため入牢させられる。アメリカには「日本がアメリカ人を虐待した」と伝わる。

  • 1848年(嘉永元年) ラナルド・マクドナルドが、日本への興味を膨らませ、捕鯨船から単身ボートで利尻島に上陸。捕らえられ、長崎に送還されたが、そこで日本人のオランダ語通詞(通訳)14名に英語を教えた

  • 1849年(嘉永2年) アメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航。前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去。

凡太: ペリーの来航前にもいろいろあったんですね。アメリカの捕鯨船関連が多いのが意外です。

マンハッタン号とクーパー船長

イシ: 当時、鯨油は機械の潤滑油や蝋燭の原料として需要があったから、アメリカから多くの捕鯨船が長期航海で太平洋に出て行っていたんだ。
 1845年にマンハッタン号が日本の遭難船2隻の乗組員を救助して送り届けたいきさつなんかは、映画にしてもいいほどドラマチックだった。
 偶然、22人もの日本人漂流船員を救助することになって、本来の捕鯨を中断してまでわざわざ日本に送り届けようとしたクーパー船長が、まずすごいよね。
 マンハッタン号の乗組員は22人で、救助した日本人も22人。捕鯨船の中は一気に混雑したはずだ。
 22人の乗組員の中には、大工、鍛冶、桶職などの技術者もいて、救助した日本人船員の気持ちを和ませようとしてか、毎晩三味線のような楽器(バンジョーかギター?)をかき鳴らし、踊ったりしていたそうだ。
 おかげで救助された日本人たちも打ち解けて、伊勢音頭を踊ったところ、乗組員たちも大いに喜んで笑っていた。救助された22人の中には、「勝」という11歳の少年も含まれていて、その子がまっ先に乗組員たちと仲よくなった……と、救助された日本人船員の報告が残っている。
 クーパー船長は、日本では遭難した日本人さえ容易に受け入れないことを知っていた。だからボートに漂流船員を二人乗せてまず上陸させて、敵意がないこと、漂流船員を届けに来ただけだということを慎重に伝えた。
 報告を受けた江戸詰めの浦賀奉行・土岐丹波守は「どこの船かは分からないが、とにかく鯨漁船であり、異国の漁民が他国の漂流民を助けようと自分の仕事を止めてまで誠意をもって送って来たのに、浦賀で受け取らず長崎へ回れというのは、自国の人民を捨てるも同様であります」と、何度も幕府に訴えた。
 しかし、老中首座になったばかりの阿部正弘は即断できず、勘定奉行や大目付らに協議させ、相当な時間をかけてようやく浦賀で受け入れることを決めた。
 その間、たまたまマンハッタン号が潮に流されて外洋に出てしまって、戻ってくるのに時間がかかったのが幸運だった。幕府がウダウダ議論しているときに浦和に近づいていたら砲撃されていたかもしれないね。

 そんなこんなでいろいろあったけれど、最終的には22人の日本人船員全員が無事に帰国できた。
 日本側からは白米20俵、小麦粉2斗、ニンジン200本、鶏50羽、中皿20人前、金入切子などの品々、薩摩芋1俵、大平目2枚、水300荷、上搗麦(つきむぎ)20俵、大根1000本、松真木200本、上吸物椀10人前、茶漬茶碗21人前、茶5斤、大蛸1杯、杉材木4本、から藁10把が無償で提供された。
 その際、幕府からのオランダ語で書かれた書状も渡された。そこにはこう書いてあった。
「遭難者を通じ口伝えに耳に届いたが、我が国の遭難者がこの船で届けられ、船上では親切に待遇されたという事である。支那とオランダを除き、遭難者は如何なる外国を経由しても受取らない事が我が国の法である。しかし、恐らくこの法を知らぬために遭難者を送って来たと思われるので、今回だけは受取る。次からは絶対に受け取らず、送ってきても厳罰を以て罰する。よくこれを理解した上で、他国にも知らすべし。 長い航海において船の食料、薪、水が底をついたということなので、これらを与える。 この諭書の命により、船は早速出帆し、近海にとどまらず、まっすぐに帰国すべし。」


凡太: 現場の役人は精一杯感謝の気持ちを伝えたのに、幕府の対応はガッカリですね。

イシ: よほど異国船が近づくことが怖かったんだろうね。それにしても、クーパー船長、男前だよね。
 彼は後にこのときの経験を書簡にしてペリーにも伝えている。

日本に憧れたマクドナルド青年

 さらに興味深いのは、ラナルド・マクドナルド(1824-1894)という青年が、まったくの個人的判断で単身密入国してきた事件だ。
 どんどん話が脱線するかもしれないけれど、とても興味深いので紹介しておこう。

 マクドナルドは、英領カナダ時代のアストリア砦(現オレゴン州アストリア)という所で、スコットランド人の父親と現地のアメリカ先住民チヌーク族の部族長の娘との間に生まれた。このように西洋人とアメリカ原住民の間に生まれた子は「メティ」と呼ばれ、差別を受けることも多かった。
 原住民の母親はマクドナルドを産んですぐに死んでしまったため、一時、母方の叔母に預けられたんだけれど、原住民の親戚から自分たちの先祖は日本人だと教えられたらしい。
 混血で容貌も西洋人と異なっていたため、日本という国への興味が膨らんで、ついには捕鯨船の船員となって出港する。
 船が蝦夷地に近づいたとき、単身、ボートで密航を企て、利尻島に上陸。そこでアイヌ人と10日ほど過ごした後、捕縛されて松前~長崎と移された。
 長崎では長崎奉行・井戸覚弘の下に取り調べを受けて、寺に収監されるんだけれど、井戸はマクドナルドがネイティブの英語を話すことを知って、配下のオランダ語通訳14人を彼につけて英語を学ばせることにした。その14人の中でいちばん優秀だったのが、後にペリー来航のときに通訳を務め、江戸に英語塾を開いた森山栄之助という人物。
 マクドナルドはわずか1年の滞在で、翌年、長崎に入港したアメリカ船プレブル号に引き渡されてアメリカに連れ戻されるんだけど、短い期間ではあっても、日本のオランダ語通訳や、幽閉されていた寺で僧侶や医者などと交流することで、日本に対する興味と親愛の情をますます深めていったようだね。
 帰国後も、日本人は自然を愛し、誠実で純粋だと紹介し、キリスト教信者は異教を不完全で野蛮なものだとしているが本当だろうかと問いかけてもいる。
 日本人に英語の発音を教えるにあたっては、「発音できない子音がある、子音のあとに母音が混ざる、LとRが正しく発音できない」など、今も日本人が英語を学ぶ際の弱点をしっかり指摘する一方で、日本語の単語にアメリカ先住民の言語に通じるものを感じ取って、親近感を覚えていたようだ。


ラナルド・マクドナルド (THE CANADIAN より)

 こうした青年を幽閉し、すぐに追放してしまったのは実に惜しいよね。
 マクドナルドはアメリカ政府ともイギリス政府とも関係なく、純粋に個人的な熱意と夢を抱いて、命をかけて日本にやって来た。幕府が彼を正式に通訳として雇っていたら、どれだけの力になったことか。通訳に留まらず、外国との交渉のアドバイザー役も務めてくれたかもしれない。
 70歳で生涯を閉じたマクドナルドの最後の言葉は「Sayonara my dear, sayonara」だったと伝えられており、彼の墓にも「SAYONARA]という文字が刻まれている。本当に惜しい人材を追い返してしまったんだね。

マクドナルドの墓には「SAYONARA」の文字が刻まれている

優秀な人材を生かせず、殺してしまった幕府

 徳川幕府は日本に親近感を抱いてやってきた有能な外国人を生かせなかっただけでなく、国内の優秀な人材をことごとく死なせてしまっている。
 1839年のいわゆる「蛮社の獄」では、渡辺崋山、高野長英ら、蘭学や海外事情に通じていた優秀な人材を何人も死に追いやっている。
 渡辺崋山は蟄居を命じられて田原に護送された後、自害(没年齢満48歳)。高野長英は終身刑を言い渡され、脱獄して全国を逃亡していたが、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され殺された(46歳)。
 崋山、長英らと親交があり、尚歯会という学者・技術者らが集まる勉強会にも参加していた幕府の天文方通訳の小関三英さんえいは、崋山・長英の逮捕を知り、自分も罰せられると思い込んで自害(51歳)。
 他にも崋山らを支えていた優秀な町人や僧侶たちの多くが獄中死している。
 日本が大変な難局を迎えているときに、一体どれだけの優秀な頭脳が生かされずに失われてしまったことか

 ちなみに「蛮社」というのは蘭学嫌いの国学者などが「南蛮の学問を学んでいる連中の集団」という意味で使った言葉で、かなりバイアスのかかった呼称だな。

凡太: そうした悲劇も、鎖国と保守主義の弊害ですね。

イシ: 石頭というか、思考硬直の武闘派や自分の出世と保身しか考えない連中が上層部に巣くっているとこういうことになってしまう。背景には、進歩的な考えを持ち、知識欲も旺盛で勉学に励む学者や官僚に対してのコンプレックスや嫉妬、怨嗟があったことは間違いないね。いわゆる国難の時期には、なぜかこういう無能で我欲ばかり強い連中が取り返しのつかない蛮行をする傾向があるように思うよ。そういう役人や軍人の集団こそが文字通りの「蛮社」だろうにね。

 ただ、ここで注目したいのは、ほとんどの役人はお上の命令に忠実に従って、異国船を追い払ったり、漂流民を長崎に送ったりしているだけで、実際に外国人を前にしたときの扱いは決して粗暴ではなかったということだね。クーパーもマクドナルドも、日本の役人との接触は終始友好的だったと書いている。
 このへんがまたもどかしいところでね。一人一人の気持ちと、お上からの命令がせめぎ合っているとでもいうのかな。個人の素養や人柄がうまく生かせてない場面がいっぱいあったと思うんだよね。裁量権を持つ人が石頭だと、現場で直接動いている人たちの本来の力量が発揮できない

凡太: その頃の将軍は誰でしたっけ?

イシ: 12代・徳川家慶だね。かなり高圧的な政治をする人で、当初、老中・水野忠邦を重用して天保の改革をさせていたけれど、忠邦が失脚してからは、老中・阿部正弘らを重用していた。
 家慶は、ペリーが最初の浦賀来航をした1853年に心不全で死んだ。

 では、ペリー来航までの出来事のまとめを続けるよ。

  • 1850年(嘉永3年) 井伊直弼いいなおすけ(1815-1860)、彦根藩主に。

  • 1852年(嘉永5年) オランダ商館長ヤン・ドンケル・クルティウスが長崎奉行に、アメリカが日本に条約締結を結ばせるために艦隊を派遣しようとしていると報告。オランダとしては、アメリカに長崎港での通商を許可したほうがよいとも進言。

  • 老中・阿部正弘はこの件を上位の譜代大名の他、外様である薩摩藩の島津斉彬にも密かに相談した。

  • 同年11月、ペリーが乗った蒸気船がアメリカを出航。

  • 1953年(嘉永6年)、ペリーの艦隊がマカオ、香港、上海などを経て5月に琉球王国(当時は清国と薩摩藩の両方に従っていた)に上陸。その後、小笠原を経て7月に浦賀沖に到達。

  • 浦賀奉行・戸田氏栄うじよしは米艦隊旗艦サスケハナに浦賀奉行所与力の中島三郎助を「副奉行」と詐称させて派遣し、内偵させる。中島は船内の装備などを調べ、来港目的がアメリカ合衆国大統領親書を将軍に渡すことであると知らされるが、ペリーは副奉行では階級が低すぎるとして新書を渡すことは拒否。

  • 老中首座・阿部正弘は一行の久里浜上陸を許可し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見。ペリーはフィルモア大統領からの親書を手渡し開港を迫ったが、幕府は「将軍が病気で返答できないため1年待ってくれ」と返答。ペリーの艦隊はその後、イギリス領香港に戻った。

  • ペリーが引き上げた10日後に将軍・家慶が死去。

中島三郎助(1821-1869)
江戸幕府浦賀奉行所与力。嘉永6(1853)年、最初のペリー来航のとき、副奉行と称して通詞の堀達之助を連れてアメリカの旗艦「サスケハナ」に乗り込み、怪しまれながらも船体構造や搭載している武器などを調査。老中・阿部正弘に国産軍艦の建造、蒸気船を含む艦隊の設置を進言。阿部はすぐに受け入れ、従来の武家諸法度による大名の大型船建造禁止を解き、浦賀で西洋式の船の建造を開始させる。中島はそれを指揮し、わずか8か月後には日本初の洋式大型帆船「鳳凰丸」を完成させた。 戊辰戦争では病身をおして海軍副総裁・榎本武揚らと共にして箱館戦争まで戦い抜き、戦死。満48歳没。


凡太: ペリーがやって来たときの日本のキーマンは、将軍ではなく、老中の阿部正弘だったんですね。

イシ: そうだね。阿部正弘は相当悩んだと思うよ。
 実際、譜代大名だけでなく、外様も含めて各大名、さらには旗本や幕政に関係のない民間人にまで広く外交に対する意見を求めたという。マンハッタン号のときと同じで、自分でバシッと決められない人なんだねえ。
 これが幕府の権威を下げる結果となったと分析する人たちもいるけれど、見方を変えれば、幕府の専制政治から、身分の違いなく様々な意見に耳を貸し、よい提案は取り入れていこうという合議制政治への最初の転換点を作ったともいえるよね。ただの旗本だった岩瀬忠震ただなりを外国奉行に抜擢したことなどは、高く評価されていいね。
 阿部正弘という人は優柔不断で多くの失敗もしているけれど、ゴリゴリの武闘派とかではなかったと思う。大政奉還後の小御所会議で、徳川がいない場での議論はおかしいと言った山内容堂らに対して、「短刀一本あれば片が付く」と言った西郷隆盛なんかよりは、ずっとまともではあると思うよ。

ペリーは日本の開国に失敗していた

 で、日本側の「1年待ってくれ」という返答で一旦は引き上げたペリーだったが、1年も経たない半年後に再びやってきた。今度は9隻の大艦隊。なんだかんだの押し問答の末、横浜に急遽作られた応接所で日米会談が行われた。
 このとき阿部正弘からの依頼で日本側の代表として論陣を張ったのが林復斎はやしふくさいという儒学者。蛮社の獄の黒幕といわれる鳥居耀蔵の弟だ。
 林は当時の国際情勢もかなり理解していたため、今まで通りの鎖国を続けることは不可能だとは分かっていた。そこで、前回の来航時にアメリカ側から示された薪水食料などの給与と漂流民の救助は承諾するが、交易については国法で禁じられているので応じられないと断固拒否した。
 ペリーとの議論は漢文を通して行われた。ペリーは交易を認めるように食い下がったが、林に「あなたは人命第一というが、人命と交易は直接関係がない」と論破されてしまい、最後は諦めた。
 そこで、ペリーは「では、薪水給与のため長崎以外に港を開港せよ」と要求したが、これも林は、前回の来航時にそのような要求はなかった」と突っぱねた。  最終的には下田と函館を追加で開港することになったが、それもアメリカ船に薪水等を与えるための港で、貿易はしない。外国人の行動範囲も港から7里(28km)以内に限るとした。

凡太: 林さんは江戸の論破王ですね。

イシ: うん。思想的には融通が効かないガチガチの保守派だったのかもしれないけれど、肝っ玉は大したものだよね。異国の大男たちを前に一歩も引かなかったんだから。
 ペリーは「これは祝砲だ」と言って、大砲から空砲を何発もぶっ放して自分たちの武力を誇示したんだけれど、そういう脅しにもまったく動じなかった。
 結局、ペリーは二度の来航をして、横浜でようやく結んだ「日米和親条約(横浜条約)」は、単なるアメリカ船への物資補給と船員の人命救助に関する協定であって、当初の目的であった交易は果たせなかった。完全な失敗だね。
 私たちは学校で、ペリーの来航で日本がビビって開国した、みたいな印象を植えつけられているけれど、事実はだいぶ違うんだよ。

 ペリーは横浜から引き上げた帰国の途上で琉球王国に再度立ち寄り、琉球とは通商条約を結んでいる。
 ペリーは帰国後の1858年に63歳で死去。その後、アメリカは南北戦争に突入して、日本との交易どころではなくなってしまった。

 アメリカが苦労して門をこじ開けた日本に、その後、イギリス、フランス、ロシアがうまく入り込んできたわけで、なんとも皮肉だね。



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