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戊申クーデターまでの経緯(1)生麦事件と薩英戦争が大きな転換点だった

イシコフ: ではいよいよ戊申クーデターがどのようにして起きたかを順を追って見ていこう。

久光も孝明天皇も倒幕など考えていなかった

 最初に知っておきたいことは、当初、幕府をなきものにしたいなどと考えていたのは長州藩の若い藩士くらいで、他はみんな、広い意味で公武合体、つまり天皇を今まで通り国をまとめるシンボルとしていただき、政治は徳川を中心にした諸藩の連合政権で行いながら諸外国に対抗しよう、というものだった。
 孝明天皇は世界情勢を知らないから攘夷攘夷と言っていたけれど、徳川を潰そうなどとはまったく考えていなかった。
 その天皇を守るために派遣された京都守護職の松平容保、京都所司代の松平定敬、薩摩藩の最高権力者である島津久光、土佐藩主の山内容堂……みんな徳川幕府を排除するという考えはなかった。

凡太: 島津久光は薩摩だから倒幕派じゃないんですか?

イシ: 最終的にはそうなってしまうんだけど、当初は全然違った。
 久光こそが、単細胞な攘夷論者たちを排斥して、朝廷・幕府・雄藩が連携して政治を行うという「公武合体」を実現しようという運動の先頭を切っていたんだよ。
 それを実現するために文久2(1862)年には兵を率いて上京する。そこでまず、孝明天皇から「京都で尊皇攘夷を叫んで暴れている連中を片付けよ」と命じられた。
 これを知った薩摩藩の有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮介といった過激派たちは、関白・九条尚忠と京都所司代・酒井忠義を殺して首を久光に届ければ、久光にも自分たちの思いが届くのではないか、などとトンデモな発想で動き出した。
 久光は、側近の大久保一蔵(利通)らに説得を命じたが、失敗。ついには寺田屋で薩摩藩の藩士同士が斬り合うという事件(寺田屋事件)が起きた。
 自分の藩の過激派を力尽くで抑え込もうとしたくらいだから、この頃の久光には倒幕の意思などなかったことは明白だね。
 これによって、孝明天皇の信任を得て、朝廷に建白書を提出した。内容は安政の大獄の処分者の赦免と復権、前越前藩主・松平慶永を大老に、徳川慶喜を将軍後見にした新体制で、尊皇攘夷を叫ぶ過激派浪士たちを粛清するというもの。
 孝明天皇はこの建白書を受け入れて、勅使を江戸に派遣することにした。久光はそこに薩摩の兵1000人と共に随行して、江戸で幕府に要求を突きつけた。幕府がそれを渋々呑んで体制を入れ替えたのが「文久の改革」と呼ばれているものだね。

凡太: 幕府が自ら改革したわけではなく、他藩の圧力で実施したわけですか? 久光という人は藩主ではなく藩主の父親なんですよね? それなのにそんな力を持っていたんですか?

イシ: クセが強いけれど、実行力のある人だったんだねえ。
 まあ、ここまではまだいいんだよ。そのまま幕府と諸侯が合議制で政治をしていけていれば、明治新政府のようなお粗末な政府にはならなかったかもしれない。
 しかし、そうはならなかった。
 せっかく将軍後見職についた徳川慶喜が、なんというのかねえ、屈折しているというか根性なしというか、変なところで臍を曲げたり、いじけたり、責任逃れをしたりする困った性格。いくら教養があったとしても、あの混乱の時代をまとめあげるだけの器ではなかったんだね。
 慶喜の知力に久光の決断力、実行力が加わっていれば、理想的なタイクーン(将軍)だったんだろうけれどね。ないものねだりをしてもしょうがないな。

 で、この江戸行きの帰りに、久光の一行は生麦事件を起こしてしまう。
 久光の行列を馬に乗ったまま突っ切ろうとしたイギリス商人ら4人を無礼討ちだとして斬りつけた、あの事件だね。
 これが原因となって薩英戦争が起きる。
 生麦事件に対しては幕府が賠償金を払った。イギリスとしては、あとは実行犯を逮捕して処罰できればOKというつもりだったんだけれど、これが薩摩には「藩主父子の首を差し出せ」と間違って伝わったらしい。
 冗談じゃないと追い詰められた薩摩とイギリス艦隊の間で撃ち合いが始まった。
 これによって薩摩側は市中の10分の1くらいを消失し、砲台で死傷者10名、市街地で死傷者9名が出た。
 イギリス側にも船舶の大破1隻・中破2隻、死傷者63人というかなりの被害が出た。

凡太: 薩摩は薩英戦争で攘夷の無謀さを知ったと習いましたが、死傷者数ではイギリス側のほうが多いんですね。

イシ: まぁ、痛み分けみたいな感じかな。
 そもそも、薩摩藩は薩英戦争を経験する前、島津斉彬が藩主のときから、攘夷は無謀だということをちゃんと分かっていたよ。弟の久光ももちろん分かっていた。
 だからイギリスの戦艦と砲火を交えることは完全に計算外だったんだけど、皮肉なことに、これがきっかけで薩摩とイギリスの関係が仲よくなってしまうんだな。

倒幕のキーマンはパークス?

凡太: 戦争がきっかけで仲よくなったんですか?

イシ: そう。薩英戦争はものすごく大きなターニングポイントになったんだ。
 イギリスと薩摩藩は幕府の仲裁で和睦協議に入るんだけど、なかなかまとまらない。最終的には、薩摩はイギリスから軍艦を購入する条件で6万両あまりを支払うことになった。この金は幕府から借用したんだけど、その後、幕府がつぶれてしまったので、薩摩藩は借金を踏み倒した形だね。

薩英戦争の賠償金を支払う薩摩藩の図(London News 1863)Wikiより

凡太: イギリスは戦争した相手に軍艦を売るんですか?

イシ: そのへんがなんとも面白いというか皮肉だよね。
 イギリスとしては、薩英戦争で割に合わない被害が出たことで、薩摩の力を見直した。同時に、終始弱腰の幕府の統率力に疑問を持った。そこで、いっそ交渉が面倒な幕府を、薩摩藩を利用して倒してしまえば日本を利用しやすくなると考えるようになったんだろうね。
 薩摩としては、それまでも琉球との貿易や異国との密貿易をしてきているから、世界の最強国イギリスから軍艦や武器を買って力をつければ、今まで以上に朝廷や幕府を動かしやすくなる。
 久光の政治センスは大したものだよ。尊皇攘夷を叫んで暴れているだけの長州藩とは大違いだな。

 薩摩とイギリスの関係が劇的に変化したのは、薩英戦争後の慶応2(1866)年、一時日本を離れていたパークスが復帰して薩摩を訪れてからだ。
 パークスはこのときすでに薩摩藩を利用することを決めていたから、出迎えた久光父子に握手を求めた。久光側も慣れないことで面食らったようだけれど、3万両をかけてごちそうやら狩猟の接待やらで最上級のもてなしをした。
 この二人が幕末の日本史を決定的に変えていくキーパースンになる。

西郷らにも影響を与えたサトウの「英国策論」

凡太: 島津久光とパークスが重要人物なんですね。

イシ: パークス一人というよりは「パークス組」かな。パークスは凄腕だったけど、部下たちも超優秀だった。
 代表格がアーネスト・サトウだ。

アーネスト・メイソン・サトウ
(1843-1929/日本滞在:1862-1883年、1895-1900)
 ……イギリスの駐日公使館の通訳として着任後、生麦事件の賠償交渉など様々な局面で活躍。

 彼は倒幕までの動きだけでなく、明治政府成立後も、日露戦争あたりまでの日本をつぶさに見ている。
 倒幕前の慶応2(1866)年に『ジャパン・タイムズ』に掲載した英語の論文が日本語に翻訳され『英国策論』として出版された。

  •  将軍は日本という国の主権者ではなく、諸大名の調停者・代表者である。

  •  将軍には諸外国と締結している条約を実行し、遵守する力がない。

  •  しかし、諸大名は外国との貿易に大きな関心をもっている。

  •  幕府にこれ以上期待しても無駄だから、新たに天皇および諸大名と新しく条約を結び直して、政権を将軍から大名連合に移行すべきである。

 ……といった内容で、西郷隆盛あたりも読んで、影響を受けていたようだよ。
 サトウはあくまでも秘書・通訳として、イギリス公使のブレーン的立場で私見を述べたにすぎないんだけれど、『英国策論』という邦題がつけられて出版されたことで、これがイギリス本国の意図であるかのように受け取られた。
 パークスは、部下であるサトウがそういうものを書いて発表することを放置した。いや、もしかしたらパークスの指示だったのかもしれない。「英国策論」は幕府を倒すために有効なプロパガンダの道具になると判断したんだろうね。
 あの時点ではイギリス本国よりもパークスをトップとするイギリス外交団こそが日本を動かしつつあったと思うよ。

凡太: イギリス以外の外国はどうしていたんですか? イギリスよりもオランダやロシアのほうが日本とは関係が深かったですよね。通商条約を最初に結ぶことに成功したのはアメリカだし……。彼らはイギリスがうまくやるのを黙って見ていたんでしょうか?

イシ: いい質問だねえ。
 まずオランダは、日本との交易では唯一公認されていた国として幕府に世界情勢を教えるなどしていた。でも、なにせヨーロッパの中では弱小国だからね。他の列強の動きを警戒しながら幕府を援護する立場にあったけれど、国力として英仏にはかなわない。
 ロシアはプチャーチンの活躍で幕府とはいい関係を築けそうだったけれど、フランス・オスマン帝国・イギリス・サルデーニャ王国(現在のフランスとイタリアにまたがった領土を持つ王国で首都はトリノ)を相手にクリミア戦争が勃発していた。プチャーチンは親日家と言ってもいい人物だったけれど、ロシア本国としては、ヨーロッパでの権益が危機的状況になってきて、アジア方面への南下政策をとり始めていた。当然、日本としては警戒するしかない。
 アメリカも南北戦争が勃発して、日本との貿易どころではなくなっていた。

 そんな状況で、ロッシュを公使として送り込んだフランスが、出遅れはしたものの、幕府と深い関係を結んでいった

ミシェル・ジュール・マリー・レオン・ロッシュ
(1809-1900/駐日公使:1863-1868)
二代目駐日フランス公使。製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼されるなど、幕府との関係を深め、薩長側についたイギリスと対抗したが、徳川幕府消滅で最後は罷免された。

 当時のフランスは、あらゆる面でライバルであるイギリスに後れをとっていた。
 イギリスに比べて、フランスは国土は広いし、肥沃な農地もある。一年中雨が降ってどんよりしたイギリスと違って気候も温暖で、国民はバカンスや芸術も大好きな明るい性格。なにより人口が多い。それなのになぜ陰気くさい島国イギリスなんかに負けるんだ、という思いがある。

 当時のフランスは、フランス革命やナポレオン戦争なんかがあって、庶民はくたびれていた。産業革命や貿易などで後れをとった上、銀や錫といった天然資源の獲得を目指したメキシコとの交易も失敗。
 フランスとしてはなんとしてでも日本との貿易で国力の回復を目指したかった。
 その使命を帯びて派遣されたロッシュは、実質的な国王である徳川の将軍に取り入ることでイギリスより優位に立とうとしたわけだね。
 ただ、イギリスもフランスも、日本をいきなり武力で征服し、植民地にしようとは思っていない。そういう強引な手法が失敗すると被害も大きい。それよりも他国の未熟な政権をコントロールして傀儡政権にしたほうがずっと効率的だと分かっていた。
 その傀儡政権の担い手として、フランスは幕府を選んだのに対して、イギリスは薩長を動かすことを選んだ。賭ける馬が違ったというだけのことなんだ。

凡太: フランスは賭けに負けたわけですか。

イシ: そういうことかな。
 結果として、幕末政変レースはイギリスの思い通りに進んだわけだね。

 イギリスは調教師のサトウが倒幕を思想的に加速させ、陰の馬主であるパークスが実際に薩長を動かして倒幕に突き進めさせたわけだけど、薩長という馬に最新式の兵器という餌というかドーピング薬みたいなものを与えたのが、商人であるトーマス・グラバーだね。

トーマス・ブレイク・グラバー
(1838-1911/初来日は1859年)
ジャーディン・マセソン商会の長崎代理店としてグラバー商会を設立し、
相手かまわず武器を売った。

凡太: 長崎のグラバー邸は修学旅行で行きました。坂本龍馬を匿った隠し部屋というのもありましたよ。

イシ: ああ、「隠し部屋」ね。あれは明治に入ってから増設された屋根裏収納庫で、幕末にはなかったらしいよ。だからまあ、話を面白くしてしまった一例かな。
 ちなみにグラバー邸の門柱にフリーメイソンのマークが刻まれているというのも有名だけど、あの門柱も明治22年に造られたもので、少し離れた場所にあったフリーメイソンロッジから移築したものなんだよね。
 今のグラバー園は「観光施設」として、史実を無視した説明がいろいろくっついてしまっている。温室にある「狛犬」が麒麟麦酒のラベルロゴの元になっているなんて説明もデタラメもいいところで、そもそもあれは狛犬でも麒麟でもない「中国獅子」だ。
 歴史を学ぶ際には、そういう「後付けの捏造話」みたいなのがいっぱい混じってくるからやっかいだね。

 グラバーに関しては、フリーメイソンだったとか、いろんな話がついてまわるけれど、そういうのはどうでもいい。はっきりしているのは、商売として武器を売りまくったということ、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則、長澤鼎ら、長州藩の井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)らの留学というか、密航の手引きをしたことなどだね。
 グラバーは単純に商売に励んでいただけで、当時の政局を操ろうという理念などはなかったんじゃないかな。政治的に立ち回ったのはパークスで、グラバーはそこに乗っかってひたすら武器を売りまくっただけだと思う。
 坂本龍馬は、グラバー商会の優秀なセールスマンみたいな役割を果たした。

凡太: ええ~?! そんなこと言うと、龍馬ファンから総攻撃を受けますよ。大丈夫ですか?

イシ: そんなのは覚悟の上さ。
 龍馬が日本をどうこうしようという高邁な思想を持っていたのかどうかは分からない。龍馬に関しては一次資料が少ないから、実際にやったことや書いた手紙などから想像するしかない。
 とにかく、司馬遼太郎をはじめとして、龍馬を悲劇の英雄のように祭り上げた小説やドラマがあまりに多すぎて、史実が見えにくくなっているんだよね。
 ただ、もし龍馬があそこで殺されずに生き延びていて、なおかつ、小説やドラマで描かれるような理想を持って行動していたとしても、明治政府からは嫌われて冷遇されるか、暗殺されていた可能性が高いように思うよ。

凡太: 明治政府が龍馬を潰すんですか?

イシ: そういう政権だからね。最初からずっと「邪魔者は殺す」という徹底したテロを遂行してきた連中が中心となった政府。
 まあ、それはここから先、めまぐるしく動いていく幕末史の中ではっきりしてくるよ。



用務員・杜用治さんのノート 森水学園第三分校事務局・編
カタカムナ、量子論、霊肉二元論、旧約聖書の創世記やエゼキエル書の解釈などをゆるく楽しんだ後は、近現代史の怖さを学び直し、フェイク情報と情報操作に操られ、末世的状況に突き進む現代社会の真相にまで迫る。どこまでがバーチャルでどこからがリアルか? 21世紀型の新しい文章エンターテインメント!

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歴史の見直しは気が遠くなるような作業です。マガジン購入者が一人でも二人でもいらっしゃれば、執筆の励みになります。

現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…

こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。