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薩長閥 vs 大隈・板垣の権力闘争

イシ: 前回、詳しい検証は別の機会に、としておいた、開拓使官有物払下げ事件明治14年の政変について、改めて見ていこうか。

凡太: 開拓使官有物払下げ事件って、森友事件みたいなことですよね。国の資産をお友達に馬鹿安で売ってあげようとしたという。

イシ: そう。薩摩閥の北海道開拓使長官だった黒田清隆が、工場、土地、船舶、牧場、農場、山林などの官有物を、安価、無利子で払下げようとした事件。
 まず、この事件が起きるまでの北海道でどんなことが行われていたかをざっとまとめてみよう。

  • 明治2(1869)年、北海道開拓のために開拓使が設置される。開拓次官(後に長官)となった黒田清隆は、ロシアに対抗するために北海道開拓に注力すべきと主張

  • 明治4(1871)年、黒田の建議に応える形で、10年間で1000万両を注ぎ込むという大規模予算計画を決定。同時に開拓使は明治15(1882)年に廃止することも決定。黒田はお雇い外国人を招いて計画を進めたが、なかなか進まなかった

  • 明治8(1875)年5月、樺太・千島交換条約制定。日本は樺太の領有権を断念し、代わりにロシアから得撫(ウルップ)島以北の千島18島を譲り受けるという内容。これは「樺太を放棄して北海道の開拓に集中すべき」という黒田の意見に従った形だが、背後にはロシアを牽制したいイギリスの意向に沿ったパークスのごり押しもあった


凡太: このときに樺太を手放したのは正解だったんですか?

イシ: それはよく分からないね。
 樺太は当時は北蝦夷と呼ばれていたんだが、樺太と千島列島はどの国の領有とも決まっていない、一種「空白の地」だった。
 とにかく自然環境が厳しいから、簡単に手は出せない。寒いというだけでなく、熊もいるしね。
 ただ、そうした厳しい地でも、アイヌは暮らしていた。樺太のアイヌにとっては、ロシアだろうが日本だろうが関係ない。ここは自分たちの生活の場だという意識があるだけだ。

 樺太にしても千島にしても、日本よりはロシアにとって大きな魅力があった。
 ロシア側から北海道と樺太を見ると、冬は凍ってしまうオホーツク海と太平洋の間に横たわっている蓋のような感じになる。さらには、樺太の一部は冬でも凍らない不凍港が建設できる。

↑地図を左に90度傾けるとよく分かる。北海道と樺太はロシア側から太平洋に出ていくときの「蓋」のように横たわっている

 ロシアはなんとしてでも樺太と北海道を手に入れたいが、北海道はすでに日本が実質統治しているから、樺太を完全に支配下におきたい。だけれど、ロシア国内では政情が不安定で、不毛の地である樺太に力を入れている余裕がない。
 日本は、幕末にはすでに幕府の命を受けて、岡本堅輔、西村伝九郎らが樺太一周探険に成功していて、幕府は蝦夷地(北海道)同様、樺太の領有を視野に入れていた。戊申クーデターが起きるまでは、幕府のほうがロシアよりも樺太に関しての熱意が高かったといえるだろうね。蝦夷地や樺太で暮らしていたアイヌとの共存共栄も視野に入れていた。
 ところが戊辰戦争で東北にまで西軍が攻め入ってきたため、幕府の指示で蝦夷地や樺太を管理していた東北雄藩はそれどころではなくなってしまった。
 明治に入ってからも、西南戦争が起きて、北の守りはお留守になっていった。
 一方、ロシアのヨーロッパでの南進を警戒するイギリスは、樺太をロシア領にすることでロシアの勢力をそちらに向かせておきたい。パークスの横やりもあって、明治政府は樺太をロシアに手渡してしまうことを決めてしまった。
 これによって、樺太で暮らしていたアイヌは行き場所をなくし、大変な苦労をすることになる。
 しかし、明治政府はとにかく北方のことには冷淡というか、関心が低かったように思うね。

官有物払下げ事件と明治14年の政変

 話を開拓使官有物払下げ事件に戻そう。

  • 明治13(1880)年11月、大隈重信の主導により、北海道内の工場などの官有物を払い下げる「工場払下概則」を制定。これを事前に知った五代友厚は貿易会社設立を構想し、大隈の同意を得て計画を進めた

  • 明治14(1881)年、伊藤博文、井上馨、大隈重信、黒田清隆、西郷従道、松方正義らに加えて政商・五代友厚らが熱海に集まって国会開設や国内財政問題について会議を開いた(熱海会議)。この会議では開拓使の廃止とその後の処理問題も論じられ、開拓使継続を主張する黒田と継続は財政的に無理と主張する大隈が対立。大隈の主導で官有物払下げの方針が決まる

  • 同年6月、官有物払下げの引き受け手として、五代が総監となって大阪に関西貿易社が設立される。

  • 岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社も引き受け手として手を上げたが、黒田がこれを拒否。三菱が大隈とつながっていたためと言われる。最終的には黒田と同じ薩摩閥の開拓使官僚だった安田定則が設立した北海社に船舶、土地、建物、農園、醸造所など、およそ1500万円を投じた事業財産を、38万7082円、無利息30年払いの提示で払い下げることに決める。設立したばかりの北海社には資産がないため、五代の関西貿易社が後ろ盾としてついていた。

  • この払い下げに大隈は反対したが、結局は閣議決定された。

  • しかし、複数の新聞社がこの払い下げを政府と五代の癒着として報じたため、自由民権運動とも連動して、庶民から反対の声が強まった。当初から黒田と対立していた大隈も歩調を合わせて反対した。

  • 大隈が民衆からの支持を得て政府内での発言力も増していくことを怖れた伊藤博文は、大隈が天皇の北海道を含む行幸に同行している留守を狙い、井上馨、山縣有朋、山田顕義らとも謀って、大隈を政界から追放した(明治14年の政変


凡太: 北海道の話かと思ったら、いきなり大隈さんが政府から追放されてしまうんですね。大隈さんが薩長閥ではなかったからですか?

イシ: それもあるだろうけれど、伊藤と大隈の関係がどんどん険悪になっていたところに官有物払下げ問題が起きて、伊藤がそれをうまく利用したといえるね。

 当時の政府は、憲法制定と国会開設という2大課題を抱えていたわけだけれど、伊藤と大隈は考え方が合わなかった
 伊藤はあくまでも国家権力のトップは天皇であるべきで、国会に大きな権限を持たせることには反対だった。国会開設も急ぐ必要はないと考えていた。
 これに対して、大隈は、イギリスを手本にして、天皇の権限はイギリス国王のように「君臨すれども統治せず」とし、国会の権限を強めるべきだと考えていた。
 憲法の草案については明治9(1876)年から元老院においてゆっくりと作業が進められていたんだが、太政大臣の三条実美と岩倉具視が、各参議からも立憲政体に関する意見書を求めた。それに先がけてすでに提出していた山縣有朋に続いて、黒田清隆、井上馨、伊藤博文が提出したんだけれど、大隈はなかなか出さなかった。
 明治14(1881)年3月に、左大臣・有栖川宮熾仁親王から意見書提出の督促を受けた大隈は、意見書提出を求めていた右大臣の岩倉をすっ飛ばして、その上にいる左大臣の有栖川に直接意見書を提出し、他の参議や大臣には秘密にしてくれと頼んだ。
 その内容は、「イギリス流の立憲政治を目指し、早急に憲法を制定し、2年以内に国会を開き、政党内閣を作る」というもの。内容に驚いた有栖川は、三条と岩倉に相談。岩倉も驚いて、伊藤に知られる前に大隈との話し合いを求めたが、大隈がこれを拒否。
 そうこうしているうちに、これが伊藤の耳に入り、伊藤は大激怒。自分を無視してそういうことをするなら辞めてやると、岩倉に辞意を伝えた。
 しかしこれは伊藤のパフォーマンスでね。自分なしで政府が成り立つわけはないと確信していた。実際、大隈自身が、その後、伊藤のもとを訪ねて謝っている。

 伊藤は大隈の意見書は、福沢諭吉の影響を受けていると読んでいた。実際、大隈の意見書は、福沢門下生で、太政官の大書記官だった矢野文雄が下書きしているともいわれている。

 考え方の違いだけでなく、派閥や政財界人脈でも伊藤と大隈の対立は鮮明になっていた。
 大隈は経済界の新興勢力である岩崎弥太郎の三菱と結びつき、思想的には福沢諭吉の影響が強い。福沢諭吉は自由民権派の運動家たちには冷淡だったけれど、自由主義の基本理念には理解がある。明治政府内では、薩長閥以外の最後の実力者として、異端の色を増していた。伊藤にとっては邪魔な存在になっていたんだね。
 大隈を政府から追い出した伊藤は、完全独裁体制を築いたといっていい。

凡太: 結局は権力闘争なんですね。

イシ: そういうことだね。
 伊藤らの大隈追い出し作戦は成功したものの、民衆から大隈に支持と同情が集まり、自由民権運動もかえって盛り上がりを見せてしまったので、沈静化させるために、明治14(1881)年10月、10年後に帝国議会を開設するという「国会開設の詔」が出た。これに合わせて、板垣らは自由党を結成。下野した大隈も翌明治15(1882)年に立憲改進党を結成して、それぞれ党首になった。

大日本帝国憲法は「伊藤憲法」だった

凡太: いろいろあったけれど、とにかく国会開設と憲法制定を約束するまでになったんですね。

イシ: そうだね。で、「国会開設の詔」が出た翌年の明治15(1882)年3月、伊藤らは憲法を学ぶためにヨーロッパに渡った。
 そこでウィーン大学のローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein 1815-1890)の自宅で2か月間、国家学を学んだ。
 シュタインはパリで社会主義・共産主義者と交わり、1842年に『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』という論文を上梓している。プロレタリアート(資本主義社会における賃金労働者、無産階級)という概念をドイツにおいて紹介したともされている学者だ。

凡太: え? なんだか伊藤さんの帝国主義的な思想とは相容れない人のようにも思えますけど。

イシ: うん。そのへんが面白いよね。シュタイン自身はドイツ流の帝国主義的な憲法には批判的だったんだが、日本の歴史や国情を考えると、ドイツのビスマルク憲法が向いているんじゃないかと、敢えて伊藤にアドバイスしたらしい。これは、天皇を権力機構の最上位に置く帝国制の憲法でなければならないと考えていた伊藤にとっても好都合だった。

凡太: 大日本帝国憲法が発布されるのはそこからさらに7年後ですね。

イシ: うん。約束の「10年後」よりは早いけれど、ずいぶん時間がかかったともいえるね。

板垣は死せずとも自由は死んだ?

 興味深いのは、伊藤が渡欧した明治15(1882)年3月に合わせたかのように、板垣が『自由党の尊王論』というものを出したことだね。
 そこには、この板垣こそ、そして板垣が率いる自由党こそが最上の尊皇家であり、正義であると長々と主張している。
 自分が自由や民権を主張するのは、皇帝陛下(天皇)が五箇条の御誓文や明治8(1875)年の立憲政体樹立の詔で「広く会議を興し万機公論に決すべし」と命じられたからだ。天皇のお言葉に従って立憲政体の設立を目指しているのであって、私心は一切ない。自由党は民衆に自由を与えた上で、その上に君臨する皇帝陛下の無上の栄光と尊厳を目指す」というわけだ。

凡太: でも、それなら、天皇が国会は認めない、憲法も認めない、政治は自分が指名した者がするのであって、民衆は参加させないといえば、板垣さんはそれに従うんでしょうか。

イシ: そういうことだよね。天皇や国王が絶対権力を持つという思想と自由主義や民主主義は相反するものだ。

 板垣はこの『自由党の尊王論』を発表した翌月、岐阜で演説中に小学校教員・相原尚褧に襲われて負傷した。

凡太: 有名な「板垣死すとも自由は死せず」ですね。

イシ: そう。あの言葉だけが、その後、一人歩きしてしまったようなところがあるね。
 板垣はその後、相原に対する除名嘆願書を出して死刑を免れさせ、大日本帝国憲法制定時の恩赦にも含まれるように働きかけたという。
 板垣の伝記などには、憲法発布の恩赦で出てきた相原が河野広中らの仲介で板垣のもとへ謝罪しに行ったところ、板垣は「君は国家のためを思って私を殺そうとしたのだから、謝ることはない。男子たるもの、そのくらいの覚悟を持たなければ何事も成し遂げられない。かつて、中岡慎太郎先生も私を殺そうとしたことがあったが(文久3年乾退助暗殺未遂事件)、後日、そのことを私に謝罪した。君も同じだ。ただ、残念なのは私の真意が伝わっていなかったことだ。今はその誤解も解けたことだろう。もし、今後、私が天下国家の行方を誤った方向に向かわせるようなことをしようとしたら、そのときはまた私を殺そうとせよ」というようなことを言って、相原が恐縮したといった記述もある。
 伝記作家がかなり「盛った」話のように思えるが、もし実際にそのようなことを言ったのであれば、板垣は憲法が発布された明治21(1888)年においてもまだ、「信念を持って行うテロは正義だ」と肯定していることになる。
 時を遡ること四半世紀の文久2(1862)年、土佐勤王党が前藩主・山内容堂が重用していた吉田東洋を暗殺したことで壊滅させられたとき、江戸にいた板垣はそのことを片岡健吉からの手紙で知ったんだが、「賊徒(東洋)の首を斬って人々に示すことで、かえって国が安定することもある」と書いて返信している。
 土佐藩が大政奉還による公武合体策を進めているときも、「戦争によって作られた社会秩序(徳川政権)は、再び戦争を起し勝利をすることによってでなければ覆すことはできない」と訴えて、土佐藩の藩論に反して戊辰戦争に突き進んだ。
 三つ子の魂百までじゃないけど、板垣の本質は何も変わっていないんじゃないかな。
 板垣が叫んでいた「自由」とは何だったのか。国を変えていくためには暗殺や戦争をする権利があるという「自由」なのか、と言いたくもなるよ。
 ちなみに板垣は明治17(1884)年、明治24(1891)年、明治25(1892)年にも暗殺されかけている。

凡太: 強運の人なんですね。同じ土佐の中岡慎太郎さんや坂本龍馬さんは、京都の近江屋で若くして暗殺されていますものね。

イシ: まったくだね。吉田東洋暗殺事件のときも、板垣は江戸にいたことで武市瑞山のように処罰されずに済んだわけだし。

 板垣暗殺の話が長くなったけれど、話を明治15(1882)年に戻そう。
 伊藤が憲法と議会制のことを学ぶために渡欧した8か月後の11月、板垣退助も渡欧している。
 板垣は「国会開設の詔」が出た3月頃から、ヨーロッパの議会制を視察するために渡欧したいと考えていたようだけれど、その費用をどうするか、留守中の自由党をどうするかといった問題があった。
 板垣は渡欧計画を秘密にしていたんだが、自由党幹部や新聞社にバレてしまい、渡欧は自由党を党首不在にして弱らせようとする政府の陰謀だからやめてくれと説得されている。
 結局、板垣は翌年の6月まで渡欧し、伊藤博文側近の西園寺公望らの仲介で、フランスを中心に政治家や作家(ビクトル・ユーゴー)らと会談する機会を得たが、帰国後は「フランスは自由と平等を標榜しているが、世界中に植民地を作って有色人種を奴隷のように使っている野蛮な国だ。彼らにとっての自由と平等は、白人だけのためのものであり、私が目指すものとは違う。私が目指す自由主義は尊皇主義に徹した思想だ」というようなことをさらに主張するようになる。
 しかし、ヨーロッパで初めて目にした近代文明のショックは大きかったようで、これからは徒に政府と対立するのではなく、協力し合うところは協力して欧米列強に対抗していくべきだという論調に変わっていった。
 自由党の急進派からは「板垣は政府に懐柔された」と攻撃され、自由党はバラバラになり、帰国後2か月で早くも板垣自身が自由党解党をほのめかすようになった。
 翌明治17(1884)年9月、自由党員の一部が宇都宮庁舎落成式に集まる福島県令・三島通庸県や大臣たちを爆殺しようとしたテロが未遂に終わるという加波山事件が発生。これが駄目押しとなって、翌10月に自由党は解党した。

凡太: 自由民権運動の最後はテロ未遂事件での自由党解党ですか。

イシ: いや、これが「最後」ではないんだよ。その後も憲法発布と議会発足に備えて、旧自由党系の活動家たちは様々な動きを見せながら伊藤独裁のようになっている政府と対立したりくっついたりするんだが、長くなってきたので、それはまた次回にしよう。


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