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江戸時代の特異性を世界史視点で考える

イシコフ: 江戸の徳川政権は1603年から1867年まで260年あまり続いた。1637年に起きた島原の乱の後は、200年以上、外国との戦争はおろか、国内でも大きな内乱が起きなかったことがいかに特別なことか、改めて考えてみよう。
 世界史、特にヨーロッパ史をざっと振り返れば、紀元前、古代ギリシアの時代から現代に至るまで、ず~っと戦争をし続けている
 紀元後になってローマ帝国の時代になっても戦争ばかり。ローマ帝国が衰退しても、キリスト教圏とイスラム圏の対立とかが続いて、11世紀には十字軍という、とんでもない蛮行も始まる。ローマ教皇が戦争を命じて始まり、なんだかんだで200年も続けるんだから、もう、なにをやってんだって言いたくなるよね。
 「聖地」とされるエルサレムを巡る抗争は21世紀の今も続いているわけだけど、第一次十字軍がエルサレムに攻め入ったときには、逃げ惑う一般市民も含めて7万人以上の大虐殺を行ったと記録されている。
 異教徒だというだけの理由で、アラブ人・トルコ人・エジプト人・エチオピア人などが皆殺しみたいなことにされただけでなく、このときはユダヤ人や、東方教会の信者も殺されている。
 これは宗教戦争と見なされることもあるけれど、単純な侵略・略奪だね。
 イスラム教徒は金貨を飲み込んで隠しているという噂が伝わり、十字軍兵士たちは捕らえたイスラム教徒たちの腹を生きたまま割いて金貨を探したり、殺した上で死体を積み上げて燃やし、灰の中から金貨を探そうとしたという。
 そうしてエルサレムを占領した十字軍は、軍の上層部を領主としてエルサレム周辺にどんどん封建諸国家を作っていった。

凡太: 世界史は日本史の何倍も怖ろしいんですね。

イシ: 日本史では信長の比叡山焼き討ちなどが大量殺戮として非難されるけれど、十字軍の虐殺・略奪はレベルが違う感じだね。
 また、この時代で注目すべきこととしては、今で言うプロパガンダによって民衆が自ら殺人者集団へと変わっていったことだね。
 正規の十字軍とは別に、一般民衆が自主的に十字軍を真似て戦闘部隊を組織していくんだけれど、その過程で、トルコ人は残虐でとんでもない人種だという根も葉もない話がでっち上げられて、大々的に宣伝された。「トルコ人を殺せ」と扇動された民衆が民間十字軍を結成してエルサレムを目指した。
 こうしたフェイクニュースによる民衆の洗脳は、その後の戦争において重要なセオリーとして定着していく
 太平洋戦争前の日本でも、「鬼畜米英」プロパガンダがすごかったし、メディアが発達した現代ではこうした「情報戦」「認知戦」は常識になっている。
 最近ではウクライナの人権監察官リュドミラ・デニソワが、ロシア軍による虐殺やレイプなどをでっちあげて西側メディアに流していたことが発覚してウクライナ政府から解任されたことなどがすぐに思い浮かぶね。
 そうしたフェイクニュースを何の検証もせずに流し続けていた西側や日本のマスメディアは、嘘がはっきりした後も訂正しない
 こうした「情報戦」「認知戦」がすでに十字軍の時代からずっと続いているということも、しっかり頭に入れておかなければいけないね。

凡太: ただ瞞されるだけでなく、それによって自分が殺人者に変わってしまう怖さですね。
 民間十字軍も正規の十字軍みたいに虐殺・略奪を行ったんですか?

イシ: 民間十字軍は大きく5つのグループを形成していたらしいんだけど、そのうち2つはハンガリーへ向かった。
 ハンガリーには、ウラル山脈の西側をルーツにしたマジャール人という人たちが入ってきていて、キリスト教に改宗していたんだけれど、民間十字軍はマジャール人の風貌が自分たちと違うということで殺害し始めた。
 当然、マジャール人側も反撃した結果、民間十字軍はほぼ全滅してしまった。
 コンスタンチノープルに到達した2つのグループも、トルコ軍によって殲滅させられた。残る1つのグループも同じような結末に至った。
 民間十字軍は所詮戦争においてはアマチュアだったから、プロ兵士であるトルコ軍などには歯が立たなかったんだね。

 それにしても、宗教の力というのはものすごいのだなと改めて思い知らされるね。
 中世ヨーロッパにおける教会権力の大きさ、キリスト教の民間への浸透力の強さ。それも、同じキリスト教でもカトリック系と正教会系で戦ったり、なんかもう、救いがないよ。

凡太: 救いを求めて宗教にすがるのに、宗教を理由にして虐殺や略奪にまでエスカレートしてしまうんですから、確かに救いがないですね。

インカ帝国殲滅のようなことが日本で起きていたら?

イシ: 話を戻せば、日本で江戸の徳川政権が確立した17世紀前に、ヨーロッパではものすごく血なまぐさい戦争の歴史が綴られていたわけだね。
 16世紀に入ると南北アメリカ大陸がヨーロッパ人に見つかってしまい、ことごとく征服されてしまう
 メキシコと中央アメリカにあったアステカ、タラスカ、マヤといった文明や王国はスペインによって全滅させられた。
 南米のインカ帝国などもことごとく滅ぼされ、大陸規模で世界が一変してしまった。

 フランシスコ・ピサロ(1470?-1541)が率いたスペイン軍がペルーのインカ帝国を殲滅させたときのことを、随行した何人かが詳しく記録として書き残して国王に報告しているんだけれど、その内容は凄まじいよ。
 ピサロはペルーという黄金ザクザクの国があるという情報を得て1524年と1526年に南アメリカ大陸を調査。1528年にスペイン国王のカルロス1世(後の神聖ローマ皇帝カール5世)から「ペルーを支配してよい」という許可を取り、軍総司令官に任命され、4人の兄弟と志願兵を連れてペルーに向かう。
 当時のインカ帝国を支配していたのは皇帝・アタワルパで、ピサロはアタワルパを捕らえて服従させる作戦をとる。
 そこで、原住民を捕らえて拷問し、アタワルパはカハマルカの地でピサロらを迎えようとしているという情報を得る。
 ピサロは60人の騎兵と106人の歩兵を連れてカハマルカへ向かった。そこにはアタワルパと8万の兵がいたが、彼らは馬も鉄製の武器も持っておらず、石、青銅、木を組み合わせた棍棒くらいしか装備していなかった。
 ピサロはアタワルパからの使者に「いつでもご都合のいいときにおいでください。我々はあなたがたを友人として、兄弟としてお迎えし、侮辱や危害を加えるようなことは一切ありません」と伝えさせた。
 そして中央広場の周囲に騎兵と歩兵を分散して隠れさせ、アタワルパが来るのを待ち構えた。
 アタワルパは大勢の付き人に担がせた輿こしに乗って現れた。その輿は金銀で装飾され、カラフルなオウムの羽が敷き詰められた豪華なものだった。
 先導役がおよそ2000人。それに続いて2つの隊列がアタワルパの輿を挟むようにして進んできたが、武装はしていない。
 それぞれが色とりどりの衣装で着飾り、金銀の宝飾品を身につけていた。先導役の隊列は、歌い、踊りながら進んできた。
 アタワルパをのせた輿が広場の中央まで来ると、ピサロはまず、随行していたビセンテ・デ・バルベルデ神父をアタワルパの前に行かせた。
 神父は片手に十字架、片手に聖書を持ち「私はあなたに神の教えを授けるためにやって来た」と告げた。
 アタワルパが聖書を見せるようにと言ったので、神父は聖書を渡したが、アタワルパは本というものを見たことがなかったので、それを開くことができなかった。そこで神父が開こうと手を出すと、馬鹿にされたと思ったアタワルパは激怒して神父の手を振り払った。ようやく自分で聖書を開いたが、中を一瞥しただけで、それを投げ捨てた。
 それを見た神父はピサロのもとに戻り「さあ、みんな出てこい。聖なる教えの本を地面に投げ捨てたあの犬どもと戦え!」と叫んだ。それを合図に、ラッパが吹き鳴らされ、周囲に隠れていたピサロの部隊が一斉に銃を撃ち、広場にいた武装していない者たちに襲いかかった。
 銃声もラッパの音も聞いたことのないインカの人々はパニック状態に陥り、あっという間に数千人が殺された。逃げ惑う際に重なり合って窒息死した者もいた。
 報告書にはそのときのことがこう書かれている。
「我々クリスチャンは何の危険もなく簡単に彼らを殺せた。騎兵は彼らを踏みつぶし、逃げ惑う彼らを追いかけては殺した。歩兵たちは巧みにその間を抜けて、逃げようとする者たちを刺し殺した。
 将軍ピサロは勇敢にもアタワルパの輿に突撃したが、輿を支える者たちがアタワルパをできるだけ高く支えようとしていたので、なかなか引きずり下ろせない。両手を高く上げて輿を支える者たちを次々に殺したが、すぐに代わりの従者が現れて輿を支え続ける。最後は7、8人の騎兵が輿めがけて突っ込んでいき、輿を引き倒し、ようやくアタワルパを捕らえることができた」

 アタワルパの輿を支えていた者たちや、周辺を囲んでいた着飾った者たちはみなインカ帝国の高官や首長クラスの者たちで、武装もしていなかったから、一方的に殺されるがままになった。棍棒で武装した兵士たちはその外側や、離れた町に待機していたため、全員が逃げ出した。
 報告書の最後には、アタワルパに向かってこう告げたと書かれている。

「我々は、神と聖なるカトリックの信仰の教えるところによって、皇帝陛下の命によりこの地を征服しに来た。天と地とすべての創造主である神は、我々にこれを許され、あなたに野蛮な獣のような生活を改めさせ、神を知らせたもうたのだ。これまで犯してきた自分の過ちが分かれば、スペイン王陛下の命によって我々がこの地へやって来たことの幸せが分かるだろう」
(参考:ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』

ピサロは今でもスペインでは英雄として扱われている。ユーロ導入前まで使われていた1000ペセタ紙幣の裏側にもピサロの肖像が刷り込まれている(↑)。ちなみに表面はキューバ、メキシコ方面で現地人を大規模虐殺したエルナン・コルテスの肖像画

 ピサロは皇帝アタワルパを人質としたことで莫大な貴金属を身代金としてせしめたが、インカの征服がほぼ完了すると、アタワルパが生きている限り、いつ反乱が起こるか分からないと判断して、1532年11月のカハマルカの虐殺から8か月後の1533年7月にアタワルパを殺してしまう。

 こうした騙し討ちや、圧倒的な武器の性能の差による大量虐殺というのは、日本でも大和王権が東北蝦夷を殺しながら北上していったときにも行われている。東北で大和朝廷軍と最後まで戦っていた蝦夷の英雄・アテルイとモレは、それ以上の戦いを避けるために坂上田村麻呂からの申し入れを受け入れて出ていったところを捕らえられ、京都に連れて行かれて首をはねられた。田村麻呂は瞞すつもりはなく、朝廷に「二人を東北の地に戻して、統治に利用したほうがいい」と申し入れたが聞き入れられなかったとも言われているけれど、もちろん真相はよく分からない。原住民側が残した記録がないからね。

 だからまあ、ヨーロッパのキリスト教圏の人たちだけが残忍だったというわけではないけれど、やっぱりレベルが違うという気はするよね。皆殺しにすることに何の躊躇いもなく、むしろ「神のご意志に従った」と、誇らしげに語っているんだから。

凡太: なんか気持ちが悪くなってきました。

イシ: 南北アメリカ大陸が征服されたのは、日本では戦国時代あたりのことだから、もしこの時期、日本がヨーロッパ人に侵略されていたらどうなっていたことか。

凡太: 日本語はなくなって、スペイン語が公用語になっていたりしたかもしれませんね。

イシ: うん……ちょっと、想像がつかないよね。
 こうした世界史的な視点で日本史を振り返ると、日本がいかに幸運だったかが分かる。
 その幸運は、日本が島国だったという地理的な要因が大きいとされているけれど、それだけではないだろうね。だって、南北アメリカ大陸だってヨーロッパとは海で隔てられているわけだから。
 江戸徳川政権が実行した鎖国やキリスト教の禁止といった政策を、極端に保守的で、日本が欧米列強に後れをとる原因となったと批判する人もいるけれど、むしろ260年の長きにわたって、アフリカや南北アメリカ大陸のような悲惨なことにならなかったことを評価してもいいんじゃないかな。


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