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馬鹿が作った明治(3)グダグダだった岩倉使節団

イシ:  不意打ちクーデターのように廃藩置県を決行したわずか4か月後、政府は総勢107人に及ぶ海外視察団を派遣する。俗にいう「岩倉使節団」だね。
 特命全権大使として岩倉具視。長州の木戸孝允、伊藤博文ら、薩摩からは大久保利通、村田新八ら。福井から由利公正(東京府知事)、土佐から中江兆民(後にジャーナリスト)といった面々も加わっていた。
 留学目的の若者も43人含まれていて、うち5人が女子。津田梅子山川捨松もいた。

岩倉使節団の主要メンバー。岩倉はアメリカ入国後に息子から「ちょんまげ姿は未開人のようで恥ずかしい」とたしなめられ、断髪し、洋装に着替えたという

 明治4(1871)年12月に出発して、予定が延び延びになり、主要メンバーが戻ってきたのは翌翌年の明治6(1873)年9月。なんと1年10か月、木戸、大久保、伊藤らが日本を留守にしていたことになる。

凡太: 廃藩置県というぎりぎりの勝負に出た直後、いつ内乱が起きてもおかしくないのに2年近く留守にしてたんですか?

イシ: 大胆というか呑気というか無邪気というか、驚くよね。
 廃藩置県までのゴタゴタで疲れきってしまって、日本から逃げ出したかったのかもしれないね。あとは、自分たちの無知を実感して、とにかく一度欧米を見ておかなければならないと思ったんだろう。
 しかし、外遊組と留守組の間で、異様な緊張感がただよっていたようだよ。
 木戸は山縣有朋や井上毅に、大久保は西郷に留守役を託しつつ、自分たちが留守の間は決して大きな政治変革は起こさないようにと約束させていた。
 逆に、視察団のほうも、出先で政治的な決定事項に絡むような行動はとらないと約束していた。
 ところがこれがどちらも守られなかったんだねえ。

凡太: どういうことですか?

イシ: まず、使節団はアメリカに向かった。簡単に渡米というけれど、当時はサンフランシスコまでの船旅で1か月。さらに大陸横断鉄道5000kmに乗ってワシントンへ、という長旅。その間、慣れない西洋式の服装、食事、トイレ、入浴などでさんざん恥をかいたり呆れられたりもしたようだね。
 ワシントンでは日米修好通商条約に含まれる治外法権や不平等な関税率といった条項を改定させるための予備交渉という目的もあったんだが、ここでまずやらかす。駐米日本代表の森有礼ありのりと、駐日公使のデ・ロングにそそのかされて、予備交渉ではなく、本交渉をしてしまおうとなった。
 使節団は出国前に、出先では重要な決めごとに関するようなことは行わないと留守役たちに約束しているので、本来これはアウトだね。しかも、アメリカ側は、日本国の元首は天皇なのだから、天皇の委任状なしで交渉はできないと突っぱねた。
 そこで、はいそうですかと引っ込めばいいものを、じゃあ、委任状を持って来ればいいんだろうと、伊藤と大久保が天皇の委任状をもらうために帰国してしまう。

凡太: え? また1か月以上かかりますよね。往復すれば2か月以上。

イシ: そういうこと。しかも、ようやく日本に着いて天皇の委任状をもらおうとしたら、外務卿の副島種臣そえじまたねおみ(佐賀)、寺島宗則(薩摩)らが、「何を勝手なことを言っている、準備が不十分だ」と猛反対。
 大久保が「認めてもらえないなら腹を切る」と迫ると、副島は「どうぞお好きなように」と突き放す始末。すったもんだの末に、なんとか委任状を取り付けてアメリカに戻ったんだが、結局条約改定の本交渉はできなかった。
 日本の司法は前近代的かつ野蛮すぎてとても任せられないとか、同じ条約を他の国も結んでいるのにアメリカだけが先に帰るわけにはいかないとか、いろいろいわれて拒否されたんだね。

副島種臣(1828-1905)
佐賀藩士の次男として出生。32歳で副島家の養子となり、明治新政府で参与、制度事務局判事に就任。明治天皇の信任厚く、侍講や宮中顧問官、枢密顧問官、内務大臣を歴任(第4代)、外務卿(第3代)などを歴任。

凡太: すぐに腹を切るとか斬首とか、そういうのが続いているんですから、司法が野蛮すぎるというのはその通りのような気もします。

イシ: まあね。とにかく、こういう無駄なことで時間も金も余計に使ってしまった。
 アメリカの次はイギリスに行くんだけれど、アメリカでさんざん時間を無駄にしたため、エリザベス女王はスコットランドでの休暇に入っていて謁見できず。さらには旅費を預けていた銀行が計画倒産みたいなことになって、大金を騙し取られるという体たらく。
 当然、国民は呆れ果て、「条約は結び損い金は捨て 世間へ大使何と岩倉(世間に対してなんといいわけできるのか)」という狂歌までできた。
 イギリスの後、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイス……と回って、大幅に日程オーバーで帰国したときは1年10か月経っていた、と。
 浦島太郎じゃないけれど、その間、日本でも色々問題が持ち上がって大変なことになっていたんだな。

明治5(1872)年

  • 2月 田畑永代売買禁止令を廃止

  • 8月 学制公布(6歳以上の子どもに義務教育)

  • 9月 新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通

  • 9月 沖縄を琉球藩として日本に編入

  • 10月 群馬県に富岡製糸工場を開設

明治6(1873)年

  • 太陽暦の採用(旧 明治5年12月3日を、新 明治6年1月1日に)

  • 1月 徴兵令公布

  • 2月 1612年から禁止されていたキリスト教を解禁

  • 7月 地租改正(土地所有者に納税義務)

  • 10月 明治六年の政変(征韓論に端を発し、西郷隆盛らが一斉に辞職)



凡太: 岩倉派遣団が戻るまでの間は大きな変革はしないんじゃなかったでしたっけ。それにしては義務教育とか徴兵令とかキリスト教解禁とか地租改正とか、大きなことがいっぱい起きてますね。

地租改正、徴兵令への反発

イシ: 特に地租改正徴兵令は大きいね。

 地租改正というのは、簡単にいうと、それまで米で納めていた税金を現金で払え、と。その金額は土地が持っている価値に対して決める、というもの。
 土地の価値、つまり「地価」を一度決めてしまえば、その後は天候不順などで不作となっても関係なく一定の税金を取れるから政府にとっては有利だ。一方、農民にしてみれば、不作なのに一定額で現金を払わなければいけないということで大問題。これがきっかけで伊勢暴動などの暴動や一揆も起きている。

 徴兵令は、満17歳~満40歳の男子は全員「国民軍」の兵として登録。満20歳で徴兵検査を受けさせ、合格者の中から常備兵が選ばれるというもの。
 徴兵令はこの後も明治6(1873)年、明治12(1879)年、明治16(1883)年、明治17(1884)年、明治22(1889)年……と、どんどん改定されていくんだけれど、とにかく法律によって初めて国民の義務とされたのがこの明治6(1873)年の徴兵令だ。
 政府直属の御親兵についてはすでに述べたけれど、あれも含めて、それまではあくまでも傭兵的な志願と募集が中心で、兵隊になりたくないという庶民にまで義務として課すわけじゃなかった。
 しかし、今度はそうじゃない。当然、不安と反発が広がった。

凡太: 国民皆兵というのは大村益次郎が主張していたんですよね?

イシ: そう。大村が暗殺された後は、陸軍大輔の山縣有朋がその意志を引き継いだ形だったんだけれど、山縣は山城屋事件という汚職事件に巻き込まれて排斥運動の矢面に立たされた。

凡太: 山城屋事件って、どんな事件だったんですか?

イシ: 長州出身で、奇兵隊で山縣有朋の部下だった山城屋和助という御用商人がいた。長州閥が主導権を握っていた陸軍省では、大量の軍需品を扱っていた。
 山城屋は多額の公金を借り入れ、それを元手に儲けていたんだけれど、ヨーロッパでの生糸相場の暴落がきっかけで多額の損失を出した。山城屋はそれを取り戻そうと、陸軍省からさらに公金を借り出してフランスに渡り、フランス商人と直接商売をしようとしたんだが、どういう神経か、パリに渡ると、高級ホテルに滞在しながら観劇、競馬、女優とデート、あげくは富豪令嬢と婚約するとかしないとか、トンデモなことをしているという噂が広まった。山城屋への公金貸付は総額約65万円。当時の1円の価値は現在の価値に置き換えると2万円ほどだったともいうから、130億円くらいかな。
 翌年の明治6(1873)年には、三谷三九郎事件という、似たような事件も起きている。
 三谷三九郎は明暦あたりから続いている江戸の両替商で、明治になっても引き続き陸軍省御用商として派手な商売をしていたんだが、投機に失敗して、その穴埋めに官公預金を利用し、30万円の損失を生じさせたというもの。ライバルの三井に陥れられたという説もあるけれど、とにかく当時はこうしたでたらめな癒着政治が横行していたんだね。当時は、というより、その後も今に至るまでずっと変わらないかな。派閥政治、金権政治、政財界の腐敗と癒着……。
 とにかく、陸軍省は何をやっているんだということになり、山縣はその責任を追及されて陸軍大輔辞任に追い込まれた。

凡太: それなのに徴兵令は通ったんですね。

イシ: 西郷の力だね。山縣はそんな風に、完全に消える寸前だったんだけれど、それを政府入りした西郷が庇うような形で、国民皆兵をごり押しした。
 西郷は薩摩、山縣は長州だけれど、西郷としては藩閥よりも気が合うかどうかだった。西洋かぶれの大久保なんかよりも、武闘派の山縣とのほうが考え方が一致したんだろう。西洋かぶれでチャラチャラした連中が欧米に行って留守の間に徴兵令を決めてしまえ、という考えがあったんじゃないかな。

 徴兵令は、基本的に成人男性は全員、兵役の義務があるとするものだ。
 ところが、実際には一部の学生、世帯主、長男などは外されたり、代人料270円(現在では約540万円相当)を払うと免除とか、いくつも抜け穴があったために、徴兵されたくない人たちは必死で戸籍をいじったりして逃れようとした。その方法を説いた『徴兵免役心得ちょうへいのがれのこころえ』なる本まで出た。

徴兵から逃れる方法を説いた『徴兵免役心得』

凡太: 戸籍をいじるというのは、次男三男がどこかの養子に入って長男になる、というようなことですね。それで徴兵逃れができるなら、ぼくもやるかもしれません。

イシ: 一般市民からはそれほど徴兵令は嫌われたわけだけど、逆に、士族たちからは、自分たちの存在意義がなくなるということで猛反発を受けた。
 それもまた西郷が受けとめるような形になって、西南戦争まで行ってしまうんだけれど、それに関してはまた回を改めよう。
 


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