【彼の記録、彼方から。】2018/04/30

2018年のゴールデンウィークのことだった。
エヌは休みが続いていることをいいことに、深夜まで深酒して、昼頃に起きる生活を続けていた。
「こんなにだらけきった生活をするのは大学生の時以来だ。これのためだけにもう一度大学生をやりたいね」
とエヌは言っていた。
エヌはシステムエンジニアという職業柄、夜遅くまで働いたり、土日に仕事をすることも珍しくない。
そんなエヌにとって、ゴールデンウィークと有給を組み合わせて9連休も取れたことは奇跡らしい。
私には、奇跡的な大型連休を酒を飲んで無駄にするのはもったいないように思えた。
バーでエヌの酒に付き合っている私も人のことを言えたものではないが。
「もう少し、有意義に時間を使ったらどうだい。滅多に連休なんて取れないんだろう。旅行にでも行けばいいじゃないか」
そう私が言うと、エヌはニヤッと笑った。
「さすがの僕でも、大型連休を無駄にするような男ではないさ。まあ、無駄は嫌いではないんだがね。今日だって、実は旅行に行ってきたんだぜ」
そう言ってエヌはウイスキーをロックで煽った。
その日に飲んでいたのはアードベッグというスコッチウイスキーで、ピート香の強い癖のある銘柄だった。
余談ではあるが、エヌにとってスコッチウイスキーとそれ以外のウイスキーはコンパイラ言語とスクリプト言語くらい違うらしい。
いまいちピンとこない例えではあったが、彼がスコッチウイスキーをこよなく愛していることだけは伝わった。
「旅行って、いったいどこに行ってきたんだ?」
「小田急線に乗って登戸のあたりまで行ってきたよ。小田急線はいいね。揺れ方が僕の好みだ」
「登戸って、ここから電車で1時間ほどで着いちまうじゃないか。それは旅行とは言わないんじゃないか?」
「各駅停車に乗ったからもう少し時間がかかったよ」
まったく的を射ない回答が返ってくる。
質問の意図を理解していないというより、私を弄んで楽しんでいるようだった。
「まあいいや。この際、旅行の定義なんてどうだっていい。どうしてまた登戸なんかに行ったんだ?」
「大学生の頃、登戸の辺りに住んでいたんだ。特別面白いものがあるわけではないけど、思い出だけはたくさんあるからね。思い出の詰まった土地を久しぶりに訪ねるのはなかなか楽しいんだぜ」
「うむ。それは一理ある気がする。同じ景色を見て、昔とは違う印象を受けることもあるし、同じことを思うこともある。同じ景色に見えて微妙に昔とは異なっていたりするしね」
「そうそう。それがいいんだ。これは僕の持論だけど、旅行は知らない土地に行くのも面白いけど、知っている土地に行くのはもっと面白いんだ。自分の内面の変化がよく見えるからね」
私とエヌは共通点が少なく、対照的な人間だと思うが、たまに吃驚するくらい意見が一致する時がある。
少なくともエヌの旅行に対する持論には全面的に賛同する。
「それで、懐かしの土地を訪ねて、なにか面白いものは発見できたかい?」
「ああ。昔よく行ってたラーメン屋が潰れて、パスタ屋に変わっていたよ。まあ、味は対して美味くない、安さだけが取り柄のラーメン屋だったから不思議ではなかったけどね」
そう語るエヌの表情は少しだけ寂しそうに見えた。
「意外と即物的なんだな。君のことだからもっと哲学的で主観的で曖昧な返答が返ってくると思ったよ」
「もちろん、内面の変化でも面白い発見は色々あったんだよ。ただ、それはまだ言語化するタイミングじゃないように思うんだ」
「それはどういう意味だい?」
「なんて言えばいいのかな、自分の内面って言語化できるほど単純なものじゃないと思うんだ。例えば誰かを好きだと思ったとするだろ? でも一言で好きと言ってもその度合いは様々だし、そもそも好きという感情自体、人によって違うだろ。それなのに好きと言葉にしてしまうと、誰かが作った好きという言葉につられてしまって、本当の自分の気持ちとかけ離れたものになってしまう気がするんだ。だから、大切な感情ほど言語化しないようにしているんだ。感情だって熟成させる必要があるんだよ。ウイスキーと同じようにね」
「なるほどね」
本当はエヌの言いたいことの半分も理解できていなかったと思うが、
私はとりあえず理解したふりをした。
もちろん、エヌは私が理解していないことに気づいていただろうし、それを楽しんでいたに違いない。
それでいいのだ。私とエヌには理解し合うことなんて必要なかった。
理解し合えないことにこそ、私もエヌも価値があると考えていた。
2杯目のウイスキーを飲み干したところでエヌは飄々と店を出た。
私はもう少し余韻に浸りたくて、3杯目のウイスキーを注文した。

#小説 #連続短編 #エッセイ







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