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(小説)異・世界革命Ⅱ 空港反対闘争で死んだ過激派は異世界で革命戦争を始める 05(完)

意外にも王宮貴族の反対は、全くなかった。

 失脚後にレオンは、軍士官学校の校長を務めていたが、付属の軍大学校の学長でもあった。軍大学校は、教育機関であるとともに軍事技術の研究所でもある。優秀な教官や士官大学生を集めたレオンは、一年も前から領主軍との戦争の研究を行っていた。戦術や武器ばかりでなく、既に民衆軍の訓練や動員計画まで策定済みだ。
 正規軍団に民衆軍を加え、数十倍の物量で騎兵隊を主力とする領主軍を圧倒する。これが基本戦略だ。王都の街区ごとの防火組織や村の自警団をそのまま民衆軍の部隊として編成した。もともとそのつもりで防火組織を作ったのだ。それまで行っていた消防団や自警団の訓練は、軍事教練でもあった。
 二十日で武器の扱い方などを叩き込み、攻撃発起点に送り出す。生産が間に合わなかったという口実で、民衆軍の軍旗は、赤旗に部隊番号を書いたものにした。軍服の供給が間に合わなかった部隊には、左腕に赤い腕章をつけさせた。そのため民衆軍は『赤軍』と呼ばれるようになった。

 領主領の総人口は約三百万人。そのうち奴隷が二百五十万人、平民が五十万人、貴族と騎士が三万人。総兵力は騎兵一万五千騎といったところだ。ほとんど歩兵はいない。その敵騎兵部隊に歩兵主体の十万名の正規軍団と三十万名の民衆赤軍が攻勢をかける。人数だけで比較すれば実に二六倍だ。騎兵の戦闘力は、歩兵の十倍と言われている。それでも戦力比は三倍近い。
 レオンは、領主軍のせん滅だけでなく、領主制を支える経済基盤を崩壊させることを目指している。封建制を二度と立ち上がれないように根本から破壊するためだ。
 領主領と奴隷制を根絶させる前に王都の政府が停戦したら、領主制廃絶の目標は達成できない。しかし、領主制と奴隷制を残置したい本心を隠して、「やりすぎだ」「人道に反する」などと主張する奴が必ず現れるだろう。二百五十万人もの奴隷のことは、今までなにも言わなかったくせに!
 そんな裏切りを許さないために、戒厳令の最終日に貴族五十家、使用人も含めて二千人もの一斉検挙という大掃除を行ったのだ。しかし、このやり方は恐怖政治まであと一歩だろう。

 領主貴族どもは、寄り集まって領主連合国をつくり独立宣言をしたかと思うと使節団を送ってくるなど、文字通り右往左往していた。シャルル新国王は、使節団と謁見もせず、レオンが起草した降伏勧告文を発表した。

『国王弑逆者の即時引き渡し。領主軍の解体。王国軍の領主領の無期限駐留。領主領の行政権、司法権、徴税権、警察権の撤廃。奴隷制廃止令の即時実行。解放奴隷への二年分の賃金の即時支払い。過去に奴隷を殺害した者は殺人罪に問われる⋯⋯』

 とても領主貴族が受け入れられるものではない。それが狙いだ。レオン⋯⋯というよりもフランセワ王国政府には、もう領主貴族と交渉を行うつもりなど無かった。国王弑逆の怒りが強い内に開戦し、速やかに敵を打倒する。そのためには圧倒的な兵力を集中させ、迅速に戦端を開く必要がある。だからレオンは、一カ月後に開戦すると新国王に請け負った。
 事実上戦争を主導しているレオンは、多忙を極めた。戦時内閣下のあらゆる政府機関が戦争に向かって動いている。こちらはラヴィラント宰相にまかせればよい。しかし、消防団のたぐいを元にして、レオンはほとんどゼロから民衆軍を創設しなければならない。
 領主貴族がカネとヒマにあかせて育てた騎兵部隊と戦闘になれば、民衆軍は勝負にもならないだろう。それでも良いのだ。平民がその手に武器をとること。そして騎兵が出撃して不在の領主領を蹂躙し、奴隷とされている民衆を自らの手で解放すること。そこに歴史を動かすほど大きな意味がある。

 戦闘開始の十五日前。ひとつ間違えるとレオンが再び失脚しかねない大事件が起きた。
 あと十日で全部隊を攻撃発起点に送り出し、策源地を建設しなければならない。ほとんど寝ていないレオンは、軍総司令部に詰めて作業をしていた。日が暮れた六時過ぎに、息を切らせた伝令カムロが飛び込んできた。
「たっ、大変です! 収容所の前で民衆が暴動を起こしています!」
 民衆に暴動を起こさせるほどクーデター派が王都に浸透していた? あり得ない。最初は誤報かと思った。しかし、次々と報告が入る。
「暴徒は、槍や剣で武装しています!」
「収容所を囲んでいる民衆の数は、数千人。一万人を超えているかもしれません」
「暴徒は、門を破り収容所になだれこみました!」
 一瞬ぼう然としたレオンだが、どうにか立ち直って命令を下す。できる限り王都での戦闘は避けたいが⋯⋯。
「軍総司令官より王宮親衛隊総隊長に伝達。王宮護衛部隊以外の親衛部隊は、完全武装で出動待機せよ。軍士官学校校長に軍総司令官命令を伝達。士官候補生部隊は、完全武装で出動待機せよ」
 王宮親衛隊は、本来は国王の直轄部隊なのだが、今は戦時なので軍総司令官の指揮下に入っている。それでも、これでようやく千人だ。万を超えているらしい暴徒を鎮圧するには、まるで足りない。前世では過激派の『暴徒』だった新東嶺風=レオン・マルクスは、暴徒鎮圧に赤軍の投入を決断した。やはり貧困地域の赤軍が、王国政府⋯⋯というよりレオンに忠誠だ。
「総司令官命令。赤軍二十二兵団、三十五兵団、三十六兵団に非常呼集をかけろ」
 赤軍兵団の定員は三千名だ。これを百兵団も編成し、三十万人で領主領を蚕食する作戦だった。王都の三個兵団九千名で、暴徒と互角の数になる。
 前線司令官に任命したジルベール少将が駆け込んできた。先日、フォングラ侯爵家の当主が隠居させられ、二十五歳ながらジルベールは今や立派な侯爵様になった。もちろんこれにはレオンが絡んでいる。
「敵の攻撃ですか? 王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎっすよ。いったい敵は何者です?」
 レオンにも分からない。⋯⋯またカムロが駆け込んできた。
「ぼっ、暴徒が⋯⋯。収容所から囚人を引きずり出して殺しています!」
 暴徒は、どうやら『敵』でないようだ。しかし⋯⋯。
「総司令官より、王宮親衛隊、士官候補生部隊、赤軍兵団に伝達。別命あるまで、その場で待機。防御以外の戦闘行為を禁ずる」
 レオンは二本の剣を腰に差して立ち上がった。その場にいた数人の親衛隊騎士と十数人のカムロがしたがう。ジルベールもついて行こうとするが⋯⋯。
「司令部に残ってくれ。オレの死亡が確認されたら部隊を出動させて暴徒を粉砕しろ」
「なにが起こるか分からんすよ。すぐ追い散らしたほうが⋯⋯」
「王都で殺し合いの争乱が起きたら、領主貴族の討伐どころじゃなくなるだろ。オレが行って止めてくる」
 敵が貴族だったら、「よーし、包囲して総せん滅するぞぉ。一人たりとも逃がすなっ。皆殺しだ!」くらいは言うだろうに、相手が平民となるとレオンはずいぶん弱腰になる。

 収容所は、貧民街に隣接する空き地に大急ぎで建設された。三メートルもある板塀で原っぱを囲み、雨風をしのぐバラックとテントが建っている。これでは簡単に脱走されてしまいそうだが、収容者は全員手鎖と足枷で拘束されている。
 護衛や伝令カムロが二十人もついてきたので、レオンたちは数台の馬車に分乗した。普段なら夜は人気のない道なのに、途中で大勢の平民たちが収容所の方に歩いていくのに出くわした。子供連れまでいて、なにやら楽しげに見える。まるで祭りに向かう人たちのようだ。
 とうとう密集した人に阻まれて馬車列が進めなくなった。馬車から降り、案内のカムロに連れられて進む。
「おっ、マルクス伯爵様だ」
「バカ。公爵になられたんだよ」
「公爵様。悪い奴をやっつけてくだせえ」
「キャア! 親衛隊よ」
「ステキねぇ」

 暴徒と命のやりとりをする覚悟でやって来たのに、民衆はやけに友好的だった。急いでいるのに民衆が声をかけてくる。愛想を振りまきながら、ようやくレオンたちは、収容所の門前にたどり着いた。
 収容所の門が、ぶち破られている。門番の警備隊兵が血だらけになって転がっている。かがり火の代わりに大きな焚き火が燃えていて周囲を照していた。その横に死体の山があった。死体の数は、優に二百を超えているだろう。地面に血の池ができている。
 レオンたちが唖然として立ちつくしていると、槍や剣で武装した連中が、収容所から手鎖と足枷をされた中年の男を引きずってきた。民衆の罵声が飛び交う。
「来やがった!」
「貴族野郎!」
「ぶっ殺しちまえ!」
 死体の山の前に立たされた手鎖の男は、顔面蒼白になった。
「たっ、助けてくれ。私は、なにも知らない。無実だ!」
 護衛の親衛隊騎士が、レオンに耳打ちする。
「大蔵省のロータス子爵です」
 ロータス子爵を囲んで民衆が罵声を上げる。
「いつも威張りくさりやがって!」
「オレたちが戦いに行ったら、後ろから襲うつもりだろ!」
「裏切り者!」
「国王殺し!」
「こいつも殺せっ!」
 四方から槍が突きだされロータス子爵は、血を噴き出しズタズタになって倒れた。トドメのつもりなのか、肉厚の剣で頭を切り落とされ、死体の山に投げ込まれた。囲んでいる民衆は、躍り上がって拍手喝采している。本当に踊っている奴までいる。
「ざまぁみやがれ!」
「特権に胡座をかきやがって!」
「死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」
 ロータス子爵を殺した槍は、レオンが軍大学校の教官たちと開発した対騎兵用の兵器だった。大量生産して赤軍兵団に配備している。ロータス子爵の頭を切り落とした肉厚の剣は、陣地内に侵入した騎馬の脚に斬りつけ戦闘力を奪うためにレオンたちが開発した兵器『斬馬刀』だ。これも赤軍の下士官に装備させている。⋯⋯こんなことに使われるとは。
 今度は、手鎖された十二~三歳の貴族の少女が引きたてられてきた。死体の山の前で立ちつくし、青くなってふるえている。
 レオンのような男でも、未成年者や貴族家に奉公しているだけの平民が殺されるのは看過できない。しかし、貴族である親衛隊騎士が介入したら、大衆に反発されて戦闘になるかもしれない。⋯⋯ここはカムロに任せよう。
「可能なら、助けてやれ」
 町娘の格好をした少女カムロが、半ば気を失っている貴族娘に飛びつき腰にすがりついた。
「お嬢さま! なんてこと!」
 もちろん二人に面識などない。貴族の少女は呆然としている。
「みんな! お嬢様は、とてもお優しく使用人に良くして下さいました。まだ十三歳なんです。お願い、殺さないで! わあああああん!」
 血の滴った槍を構えていた連中が動揺する。その中のひとりが念を押した。
「こいつ、奴隷使いの貴族じゃねぇんだな?」
 カムロには美少女が多い。かわいい女の子が泣きながら哀願すると説得力も倍増だ。
「違いますっ! お嬢さまは、奴隷はいけないとおっしゃってました。お嬢さまをたすけてっ!」
 群衆にまぎれていたカムロが声を上げた。
「おう、奴隷使いじゃねぇなら、牢屋にもどせよ!」
「まだ子供じゃねーか!」
「女の子だぞ!」
 群衆は、しばらくワイワイ言っていたが、貴族娘は、もとの収容所に引きずられて行った。

 革命家としてレオンは、やはり甘っちょろい。ロシア革命の指導者レーニンと赤軍の創設者トロツキーは、ウクライナで農民暴動が起こると部隊を差し向け、毒ガスまで使用し数万人を殺して鎮圧している。毒ガスには大人も子供もないだろう。そのトロツキーから権力を奪ったスターリンは、富農の絶滅政策を行い数百万人を餓死させた。富農の孤児が都市に流れ込むと、彼らに食料を与えることを禁じる命令を出し、子供まで容赦なく餓死させている。
 収容されている貴族は、ほとんどが保守強硬派の関係者だ。十三歳の少女であっても、平民など虫けら程度にしか見えていないだろう。その虫けら平民が命をたすけてやっても、自分の家や地位を奪った平民をさらに憎むだけだ。セレンティアでは十五歳で成人する。十三歳の少女は、二年後には立派な反革命家に成長するかもしれない。
 革命や戦争は、殺し合いだ。敵を容赦なく打ち倒さなければ、味方が倒される。自分の心を安らかにするために、敵に手心を加えるなど、革命戦争において悪と言える。
 なにも考えずに、単に「カワイソウ」だから助けてやるというならば、まだ良い。レオンは、それが革命に害をなす行為だと理解していながら、自分のために貴族少女らの命をたすけた。つまり革命家として脆く甘いのだ。
 レオンは、この大量虐殺を民衆の革命性の表れとみていた。自然発生的な赤色大衆テロだ。どうせ無実であろうと無かろうと、いずれ貴族は滅びる。ならば死ぬのが早いか遅いかの違いにすぎない。そこまで分かっていながらレオンは、子供や無実の人が殺されるのが嫌だった。
 革命の指導者がそんな有様では、革命は敗北するか無意味に殺し合いが長びいてしまう。レオンは、領主領地域の戦場でも、そんな感傷的な態度がとれるだろうか?

 レオンは、駆けつけてきたカムロリーダーのグロカンとボンタに指示を下した。
「収容所から未成年者や平民が引きずられてきたら、一般人を装って命乞いをしてやれ」
「へえ⋯⋯。大人の貴族は、どうします?」
「⋯⋯ほっとけ。民衆の好きにさせろ。危険を冒すなよ。三十分ごとにレポを送れ」
 カムロリーダーに現場を任せ、レオンと親衛隊騎士は、すぐにその場を離れた。いつまでもこんな所につっ立っていたら、虐殺を見逃し煽ったとみられてしまう。
 お祭り気分でやってくる民衆の群れをかき分けて馬車に向かう。その途中で少し奇妙なことがあった。レオンはすぐに忘れてしまったが、その場に居合わせた者の多くは、この出来事を生涯忘れることができなかった。

 道に沿ったちょっとした広場に、かなりの人だかりができていた。ここでも誰かを殺しているのかとレオンはうんざりし、念のため様子を見ることにした。
 血なまぐさいものは、なにもなかった。しめ縄みたいなものを巻かれた大きな机ほどの岩に古い剣が突き刺さっていた。その古剣を抜こうと男たちが並んでいる。それなりに有名な観光スポットらしいのだが、忙しく飛び回っていたレオンは何なのか知らなかった。
「なんだい、ありゃあ?」
 カムロの一人が説明する。
「女神さまが刺したそうです。あの剣を抜くと、英雄になれるんだとか。ずいぶん昔からあるそうですよ⋯⋯」
 そんなもん刺してねえよ。
「くだらねえな。引きあげるぞ」
 しかし、親衛隊騎士団は目立った。群衆に取り囲まれてしまう。
「親衛隊さんだ!」
「挑戦してくださいよ」
「親衛隊の騎士さんなら抜けるかもしれない」
 騎士の腕をつかんで古剣のほうに引っ張る酔っ払いまでいる。民衆派のレオンとしては、楽しい気分の大衆を威嚇して追い散らしたりしたくない。古剣抜きに挑戦すれば、みんな満足するだろう。⋯⋯早く王宮に戻りたいのだが。
 護衛の四人が挑戦したが、ビクともしない。案内のカムロが大汗をかいても、やはり抜けなかった。最後はレオンだ。親衛隊騎士たちは、「ひょっとしたらこの人なら⋯⋯」とレオンを見た。
 レオンは、古剣を冷笑していた。
「古釘を抜いても英雄になれそうだな。ゴルディアスの結び目かぁ。危ないから離れてな」
 キィィ─────────ン!

 例の居合いで古剣を真ん中から二つに叩き切った。切断された剣は、宙を舞い地面に転がる。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
 我に返った騎士の一人が、剣を拾って切断面をながめた。金属でできた古剣を見事な切り口で両断している。
 これでも剣を抜いたことになるのだろうか⋯⋯?
「なにをしてる。行くぞ。急げ!」
 涜神行為に驚愕し凍りついた人だかりにレオンが向かうと、無言の群衆は、自然に道を開いた。

 王宮に戻ったのは九時ごろだった。現代日本の感覚では十二時前ぐらいだ。親衛隊騎士の門衛に声をかけられる。
「マルクス閣下、国王陛下が五階の執務室でお待ちです」
 ⋯⋯閣下?? ああ、オレのことかと手を挙げて了解し、国王の執務室に向かった。
 分厚い扉の外まで怒鳴り声が響いている。執務室では、シャルル国王、ジュスティーヌ国王補佐、ラヴィラント宰相、保守派の内務大臣と法務大臣に大蔵大臣。ジルベールの代理を任された王都警備隊長官代行らがやり合っていた。
「警備隊部隊を出動させ、暴徒を蹴散らせ!」
 と、平民相手には強気な内務大臣。
「群衆は、一万人以上集まっております。こんな時間では警備隊部隊は五百人も集められない。火に油を注ぎ、騒乱が大きくなるだけです!」
 と、民衆派寄りの王都警備隊長官代行。民衆派ナンバー2のジルベールは、暴動鎮圧準備で総司令部に待機していて不在だ。王都警備隊長官代行が集中砲火を喰らっている。
「王都警備隊は、なんのために多額の予算をつかっているのかね? こんな時のためだろう!」
 と、保守派の大蔵大臣。
 いつもと逆に保守穏健派が軍事行動を要求し、民衆派が抵抗している。
 入室すると、怒鳴りあっていた連中が黙って一斉にレオンを見た。クーデターの影響で王宮情報部と保安部は、組織点検と再編成でまだ機能不全状態だ。レオンが独自の情報網を持っていることは皆知っている。
 内務大臣が、わざと皮肉な口調でレオンに尋ねる。
「ようやくお出ましだ。どこに行っとったのかね? あなたの民衆がなにをしでかしとるのか、教えてくれんかな?」
 レオン特任大臣は、全く悪びれない。
「民衆が国王弑逆者の収容所に押し寄せて門を破り、大逆犯を自ら処刑しています」
 内務大臣が飛び上がった。
「処刑だとっ! 平民が貴族を殺しているのか? なんたることだ。何人殺された?」
 内心はともかくレオンは平然としているように見える。
「今のところ、死者は約三百人ですな」
「⋯⋯この責任をどうとるつもりだ?」
 レオンは、一歩も引かない。
「責任ですと? 奴隷制問題の特任大臣である私に責任があるとおっしゃる? 収容所の管轄は法務省でしょう」
 今度は、法務大臣が飛び上がった。
「マルクス特任大臣。平民どもに対するあなたの影響力は、よく知られているところではないかっ!」
 レオンがせせら笑った。
「私が平民に命令して襲わせたようなおっしゃりようですな。そんなことは、できません。それにどうせ大逆犯は死刑ではありませんか」
 王宮貴族ではあるが実態は法務官僚である法務大臣は、引き下がらない。
「裁判も証拠も無しで貴族を処刑するなど、あってはならんことだ!」
 レオンが親衛隊の高官になり『愚連隊狩り』を始めるまで、貴族が遊び半分で平民を殺してもなんの罪にも問われなかった。「なにを言っていやがる」だ。
「今は戦時です。民衆は手に武器を握り、戦地に向かっている。戦闘部隊が王都を離れた隙に裏切り者が収容所の門を開き、騒乱を起こすことを民衆はおそれて行動したのです」
 ラヴィラント宰相が口を開いた。
「その民衆が握っている武器は、どこから現れたのかね?」
 民衆が握っているのは、レオンが民衆赤軍に供給した例の対騎兵用の槍と斬馬刀だ。どうせバレているが、はぐらかすしかない。
「⋯⋯部隊を送って鎮圧行動をとると、王都警備隊長官代行の意見の通り、武装した民衆と流血の騒乱になるでしょう。私の手の者を送って群衆を慰撫しています。それが最善かと」
 こうしている内にも、収容所から引きずり出された貴族が虐殺されている。だが部隊を介入させると、民衆派同士の戦闘になりかねない。レオンが拒否するだろう。
 開戦直前のこの時期に、民衆派の首領で軍の最高司令官であるレオンを追いつめるのは、得策ではない。
 ラヴィラント宰相が結論を出した。
「王都警備隊長官代行は、非常事態に備えて待機。部隊による鎮圧はしない。暴徒の慰撫をレオン・マルクス特任大臣に任せる。法務大臣は、犯罪行為の調査を行う。⋯⋯陛下、これでよろしいですね」
 今まで沈黙していたシャルル国王は、クーデター派の残党が収容所を襲い反乱分子を解き放って暴動を起こしたのではないかとおそれていた。おそれるだけでなく、父王と兄王太子の仇の大逆犯どもを一族郎党胴切りにしてやりたいほど憎んでもいた。収容されているクーデター・シンパの貴族どもに対する同情心などは、全くない。
「⋯⋯それでよい。マルクス総司令官、戦争計画に変更はあるか?」
 実際は冷や汗をかいているのだが、レオンは自信満々に見える。訊かれてもいないことまで言う。
「ございません。今回の騒ぎは、国王弑逆者に対する民衆の怒りの表れです」
 そういうことにしておけば、新国王と王家忠誠派に受けが良いだろう。実際は、特権階級に対する下層民の憎悪の爆発なのだが。
 ノックがあり、伝令がレオンに紙片を渡して去っていった。紙片を眺めていたレオンが口を開いた。
「部隊を出動させるまでもなく、民衆は解散しつつあります」
 険しい顔をしたラヴィラント宰相が訊ねる。
「犠牲者数と、その身分は?」
「三百人以上四百人以下といったところです。ほとんどが貴族か護衛の騎士階級です」
 ジュスティーヌを含む全ての大臣が、戦時の後顧の憂いを断つためにレオンが虐殺を煽ったのではないかと疑っていた。
 だが、シャルル国王は、満足げに頷いた。レオンに止められるまで、反乱事件に関わりのある一万人を胴切りにしろと命令するほど激怒していたのだ。たった三百人の処刑など手ぬるいぐらいだ。気持ち的には、この大量虐殺でさえ「良くやった」と言ってやりたい。「もっとだ。もうすぐ父上の仇をとれる」。
 今まで青くなって沈黙していた国王に元気が出た。
「以上で臨時閣議を終了する。全閣僚は、非常事態に備えて今夜は王宮で待機するように。⋯⋯続いて王族会議を行う。参加資格のない者は、退室せよ」

 王族会議は、国王、正妃、成人の王位継承権者とその配偶者の男性準王族のみが参加する。閣議室は、シャルル、ジュスティーヌ、そして議決権のない準王族のレオンの三人だけになった。クーデター前には、十一人もいたのに⋯⋯。
 大臣たちが退出し、フランセワ王家の若い身内だけになった。シャルル国王が口火を切る。
「さて⋯⋯。議題は、あの女に関してだ。開戦までに決着をつけたい。罪状は、大逆罪、反逆罪、内乱罪、スパイ罪、尊属殺人などだ。どれひとつとっても死罪は免れない」
 シャルル国王の憎悪に満ちた言葉を聞いただけで、妹のジュリエット第四王女を死刑にする気満々なのが伝わってくる。腹違いの妹とはいえ、父と兄の仇で自分の人生を狂わせた武装反乱の国事犯だ。ジュスティーヌ第三王女の気持ちも同様だ。
「国王陛下の御意見に賛成します」
 レオンは、王族であるジュスティーヌと結婚したことが自分の異常に早い出世に繋がったことを、よく理解している。ジュスティーヌ王女が妻でなければ、良くて失脚。おそらく消されていただろう。王家の権威は、シャルル国王やジュスティーヌ王女が考えているより、はるかに民衆に浸透していた。意識して平民の間に入っていったレオンには、それがよく分かる。
 レオンは、稀少な王族であり美人でもあるジュリエット第四王女には、まだ利用価値があると考えていた。
「王宮保安部の組織点検の結果、数人の内通者を摘発しました。再生させた保安部の最初の仕事が、王族による反乱の関与の調査です」
 ここで言う「王族」とは、ジュリエット第四王女を指す。
「たしかに第三王子と領主貴族どもを引き合わせ、謀議の場を提供しています。しかし、ですが⋯⋯」
「なんだ? はっきり申せ」
 レオンが苦笑を漏らした。
「あの性格ですので、クーデター派も扱いに困ったようです。ジュリエット殿下は、反乱計画には全く関与しておりません」
 今度は、腹違いの妹が大嫌いなジュスティーヌが反論した。
「反乱計画に関与していないなどと⋯⋯。反逆者を引き合わせ、謀議の場所を提供しています」
「それがですね⋯⋯。前王陛下の言いつけに背くのが楽しいという理由で謀議の場を提供したようです。肝心の謀議の内容には関心がなく、国王殺しの衝撃で何日か寝込まれていました」
「それでもだっ。たとえ王族といえども、大逆犯として極刑を適用する!」
 憎々しげにシャルル新国王が吐き捨てる。クーデター事件のおかげで魚類学者になる夢を断たれ、常に反乱やら暗殺やらに怯えて暮らす国王なんぞになる羽目になった。
 ジュスティーヌは、シャルルよりさらにジュリエットへの嫌悪の念が強い。
「父王と兄王太子を弑した一味です。血族であるからこそ最高刑以外あり得ません!」
 兄と姉が揃って十九歳の妹を処刑しようとしている。なかなか凄まじいありさまだ。レオンとて、ジュリエット第四王女に利用価値があるとみているから、命を助けようとしているだけだ。⋯⋯どうやって二人を納得させるか?
「第三王子の死は、戦闘中であり、しかも自殺でした。ですが、無抵抗で拘束されているジュリエット殿下の処刑は、王座争いによる妹殺しととられかねません。既に直系の王位継承権者は、五人しか残っておられません。そのうち二人は未成年で、成年の王族はジュリエット殿下を含めて三人だけです」
 クーデター派と知らずに場所を貸したとか、人を引き合わせたという罪状では、王族を死刑に処することは法的にはできない。国法を越えて行政命令である国王勅令で処刑したら、それこそ王権争いの妹王女殺しに見えてしまう。性格はあんなでもジュリエットは、若く美しい女だ。貴族、民衆を問わず同情が集まるかもしれない。
 シャルル新国王は動揺したが、ジュスティーヌ王女はゆれない。
「どのような言い逃れをしても、ジュリエットが父殺しに手を貸したことに変わりはありません」
 レオンは王族の弱点を突いてみた。
「フランセワ王朝三百年の歴史で、兄と姉が妹王女を処刑したような前例がありますか?」
 無いのだ。ガペー前王家を滅ぼすどころか厚く保護したように、フランセワ王家は穏やかな温情政治を統治の基礎としてきた。貴族に対しては、三百年間ほとんど死刑は行われていない。戦死はあっても王族が死刑にされた例は皆無だ。
 レオンが親衛隊を率いて不良貴族子弟を殺しまわったのは、貴族とブルジョアが率いる大衆の抗争の表れであり、封建制の崩壊という歴史の転換期における例外的な現象だ。
 レオンは、若い国王に対して遠慮なくもの申す。よく言えば直言する。
「血を分けた兄弟である新国王の寵を奪い合い、姉王女が妹王女を殺したと民衆は噂するでしょう。姉王女が弟国王とねんごろになり、邪魔な妹王女を処刑させたとか⋯⋯」
 フランセワ王国で最も育ちの良い二人は、口さがない連中のこの上なく下品なうわさ話にまで考えが及ばなかった。姉弟で愕然としている。
「あなたっ、止めて下さい! 汚らわしい!」
 芥川龍之介は、ロシア革命の指導者・レーニンについてこんな詩を書いている。
「誰よりも民衆を愛した君は 誰よりも民衆を輕蔑した君だ」
 レオンは、そんなレーニンとトロツキーを尊敬している左派共産主義者だ。
「フッ。大衆なんて、そんなもんだよ。根も葉もない噂でも、物好きが書き留めて歴史に残るぞ」
 即位して三週間もたたずに妹殺しをする暴君。姉と妹を相手にした近親相姦の三角関係? いくらジュリエットが憎くても、さすがに外聞が悪すぎる。シャルル新国王は考え込んでしまった。
「⋯⋯だが、どうする?」
 さすがに無罪放免とはいかない。無期限軟禁が穏当なところだが、今は戦時だ。万一にでもジュリエットが反対派の手に渡ったら、大変なことになる。錦旗に持ち上げられるだろう。
「あと十五日で、西方の領主連合と開戦します。領主領の西は、ブロイン帝国との国境です。領主貴族どもは、ブロイン帝国の援助を受け、介入を求めるでしょう」
 殺された先王が領主貴族に弱腰だった理由には、これもあった。領主貴族どもが、国王殺しという大逆をはたらいても、なんとかなるとタカをくくっている理由もここにある。いざとなったら領主貴族は、フランセワ王国から分離してブロイン帝国領になってしまうか、ブロイン帝国を戦争に引き込むつもりだ。シャルル新国王も、それはよく分かっていた。
「売国奴めがっ。ブロイン帝国の介入を防ぐためにも、短期に戦争を終わらせる必要がある」
「最高戦争会議でも申し上げましたが、ブロイン帝国が介入をたじろぐほどの大軍を派遣し、一気に攻勢をかけてせん滅し、抵抗する領主領を徹底的に破壊します」
 だが、ブロイン帝国とジュリエット第四王女の処分が、どう関係するのか? レオンは、しれっと言い放った。
「ブロイン帝国に、フランセワ王族の人質を送りましょう」
 シャルル国王とジュスティーヌ王女が眉をひそめた。敵対国に王族を人質に差し出すなどという屈辱は、フランセワ王家三百年の歴史でそれこそ一度もない。
「ジュリエットをか? だめだ。王族を人質などと⋯⋯」
 さっきまで殺してしまおうと相談していたのに、人質として差し出すのはいけないらしい。
「この場で、ジュリエット殿下の王籍を剥奪すればよろしいでしょう。発表せず公文書にだけ残し、極秘にします。ブロイン帝国は、王族を預かったと思っていても、実態はただの罪人です⋯⋯」
 ジュスティーヌが口を開いた。
「王籍を抜いたとしても、王家の血族が人質として他国に差し出されるなど⋯⋯。フランセワ王国と王家の権威を損ねる暴挙です」
 ジュスティーヌも、ジュリエットのせいで穢れた娼婦の血が王家に入ってしまうとか考えているくせに⋯⋯。
 戦争を指揮する立場のレオンは、少しでもブロイン帝国の介入の可能性を減らしておきたかった。いずれ君主制は滅びる。戦争を有利にはこぶためには、「王家の権威」などなんら問題ではないというのが本音だ。ブロイン帝国が参戦したら、泥沼の長期戦になってしまう。いずれは戦う相手だが、今は両国の戦力は拮抗している。レオンは、常に数倍の戦力で敵を圧倒する戦いを好んだ。
「人質ではなく、婚姻という形をとったらどうでしょうか? 実は十日ほど前に外務大臣を通じて、ブロイン帝国皇室に打診しました。ジュリエット王女を受け入れるとの公式の返答が、数時間前に届きました」
 シャルルとジュスティーヌは、降ってわいたようなジュリエットの結婚話に当惑している。
「なぜだ? ブロイン帝国になんの利がある?」
 レオンは、既に王宮と軍の情報機関を握り、私的な特務機関まで持っている。対外諜報活動は軍情報部の管轄だ。
「ブロイン帝国も、本格戦争に巻き込まれることをおそれているのです。フランセワ王国正規軍の九割にあたる十万名の兵と三十万人の民衆軍を結集させた我々の断固たる決意に、ブロイン帝国首脳部は、軍事介入は両国の全面戦争に発展すると判断しています」
 そうは言っても国境地帯で四十万ものフランセワ軍と領主連合軍が内戦を始めたら、ブロイン帝国にとって脅威でしかない。ブロイン帝国の常備軍は、約十万名だ。
「ブロイン帝国に我が軍の戦争計画の一部を送り、我が国に侵略の意図がないことは説明しています。しかし、やはりおそれているのです。侵略の意図が無いことを示す人質として、ジュリエット殿下を送りましょう。⋯⋯むこうで宮廷をかき回してくれたら、好都合ですし」
 おそろしく急だ。だが殺してしまうより良いかもしれないと、政治家になりつつあるシャルル国王は傾いた。だが、聞いておかなければならないことがある。
「ジュリエットは、だれと婚姻するのだ? 正妃なのか?」
「それが⋯⋯なにぶん急なので不明です。皇帝か皇太子か皇族なのか⋯⋯。フランセワの侍従や侍女も付けられません。身ひとつでブロイン皇室に輿入れすることになります。⋯⋯結婚相手は、むこうが決めてあてがうでしょう。それが誰だろうと問題ではありません。フランセワの王族を、ブロイン帝国に預けることに意味があるのです」
 さっきまでジュリエットを殺す相談をしていたくせに、シャルルが少し気の毒そうな顔をした。
「あのジュリエットが、おとなしく従うだろうか?」
 この三人の中で最も冷酷で人をモノのように見ているのは、レオンだ。だからこそジュリエットを殺さずにブロイン帝国に送ろうとしている。
「ブロイン帝国行きを拒否したら、いずれ殺されることになります。あれで賢い方なので、承諾されるでしょう」
 王族を外国に出すことにジュスティーヌが反発したように、王家忠誠派も強く反対するはずだ。
「王家に忠誠な者たちは、強硬に反対するぞ」
「彼らが騒ぎを起こす前に、早急にジュリエット殿下をブロイン帝国に送るのです。二週間後には戦争が始まり、ジュリエット殿下どころではなくなります」
 シャルル国王が、ジュスティーヌ王女の方を見た。ジュスティーヌの意見は変わらない。
「死罪です。他にあり得ません」
 今、二票の内の一票は死刑だ⋯⋯。王族会議で票が同数に割れた場合は、国王の裁定に従う。シャルル国王は、ジュリエットを殺すことにためらいはなかったが、益がないと考えた。
「ブロイン帝国の介入の可能性を、少しでも減らしたい。ジュリエットの王籍を剥奪したうえでブロイン帝国に送る」
 フランセワ王家には、婚姻外交を行わないという伝統がある。人質同然に王女を外国に嫁入りさせるなど、三百年の歴史で一度も無かった。
 ジュリエット第四王女の命は、首の皮一枚つながった。いや、もう『王女』ではない。

 王家忠誠派などは、フランセワ王家には女神の血が流れており、そのために代々賢君が続いたのだと本気で信じている。その高貴な血を敵対国の皇室に分けるなどとは、狂気の沙汰だという。政府高官でそんな不敬なことをする者は、⋯⋯レオンしかいない。
 数万人の平民を王宮前広場に集め、ヤグラの上で自分を暗殺しようとしたルイワール公爵の首を斬り飛ばし、喝采する民衆の中に投げ込んで高笑いしたという男だ。たぶん天才なのだろうが、半狂人だとも思われている。
 平時に宰相や外務大臣がこんなことを画策したのなら、おそらく王家忠誠派の貴族に暗殺されていただろう。しかし、今は戦時で、レオンは前国王陛下の仇をとるための戦争の総司令官で、三度も王族の命を救った準王族だ。しかも王家忠誠派のラヴィラント伯爵を宰相に推した。フランセワ王家への尊崇の念が不足しているとはいえ、地上に舞い降りた女神のようなジュスティーヌ王女殿下の夫でもある。テロでレオンを排除するのは、どうしてもためらわれる。
 保守派は保守派で、騎兵部隊とはいえたかだか二万名程度の領主連合軍に四十万もの軍を差し向けるレオンに疑念を抱いていた。領主連合軍を倒したら、国境を越えてブロイン帝国に攻め込むつもりではあるまいか? あるいは占領した西方領主領地域に居座って自分の国を立てるつもりではあるまいか? 奴ならやりかねない。そんなことをされたら大戦争になってしまう。「平和を守る」という名目で、いくつかのグループがレオン・マルクス暗殺計画を練り始めた。
 そんな時にジュリエット王女をブロイン帝国に送るという計画が聞こえてきた。それは、対外戦争の可能性を大きく減じさせるように思える。領主貴族の討伐にとどまるなら、その総司令官を殺す意味はない。大半のレオン暗殺計画は、一旦停止された。
 ⋯⋯ほとんどの暗殺計画は、レオンの情報網にキャッチされていた。保守派とはいえ暗殺計画を立てるような連中は血の気が多い。開戦するとレオンは、連中を最も危険な最前線に送り込んだ。彼らは喜んで出征していった。

 王族の犯罪に対する判決は、王族会議に参加した王族が言い渡さなければならない。シャルル国王は、気が進まなかった。
「では、レオンがジュリエットに判決を言い渡し⋯⋯」
 ジュスティーヌが立ち上がった。
「いいえ。王籍を剥奪されたとはいえジュリエットは、フランセワ王家の血族です。わたくしが話しをいたします。陛下。王族会議は、これで終了でよろしいでしょうか?」
 ジュスティーヌ姉上が⋯⋯? 嫌な予感がする。
「⋯⋯ああ、王族会議を終了する」
 ジュスティーヌは、振り返りもせずに閣議室から出て行った。軟禁されているジュリエット元王女のところに向かったのだ。
 シャルルにとっては、物心ついた時から手を引かれてきた二歳上の姉だ。普段は猫をかぶって理想の王女を演じている姉が、自分よりもよほど度胸があって思い切りがよく気性が激しいことを、よく知っている。普段は優しい姉上だが、怒るとおそろしい⋯⋯。⋯⋯怒ってるよな?
「ジュリエットは、大丈夫だろうか?」
 レオンが肩をすくめた。
「本心なのか嫌がらせなのか分かりませんが、ジュリエット殿下は、ジュスティーヌの目の前で何度か私の気を引こうとしました。それがよほど腹に据えかねていたようですね」
 シャルルは、姉であるジュスティーヌへの恋慕の念を隠している。そんな自分の想いに罪悪感を持つ常識人だ。だから、なおさら腹を立てた。
「義兄にか? 下劣なっ! おのれ⋯⋯」
 しかし、たとえ国王といえども王族会議の裁決をひっくり返すことは、もうできない。
 それよりレオンは、ジュスティーヌがジュリエットを殺しちまうんじゃないかと心配していた。訊かれてもいないのにつぶやいた。
「ジュリエットに面会する者には、国王陛下以外は王族といえども徹底した身体検査を行うように厳命しています。たぶん大丈夫でしょう⋯⋯」
 子供の頃からこの姉と妹の気性と関係を知っているシャルルが、再びつぶやいた。
「本当に大丈夫だろうか⋯⋯」

 ジュリエット元王女は、王宮の空き部屋に軟禁されていた。さすがに王女を地下牢にぶち込むわけにはいかない。
 ジュスティーヌは、看守をやらされている親衛隊の騎士に入り口で止められてしまった。もう十一時だ。現代日本の感覚では丑三つ時である。
「ジュスティーヌ・ド・フランセワ第三王女です。ジュリエットの面会にきました。通しなさい」
 第三王女と第四王女の不仲は、王族に最も近いところにいる親衛隊ではよく知られていた。それに「王族といえども徹底した身体検査を~」とレオンに釘を刺されている。レオンの元部下でジュスティーヌにとっても顔見知りの親衛隊騎士なのだが、顔をこわばらせて一歩も引かない。
「失礼ですが、お体をあらためさせていただきます。女性騎士が参じますまで、しばらくお待ち下さい」
 お付きの侍女のアリーヌが色をなして抗議する。しかし、親衛隊騎士は、丁重だが断固として取り合わない。アリーヌの声が高くなったところで、ジュスティーヌが制した。人が集まったら困る。
 夜中にたたき起こされて飛んできた不眠気味のローゼット親衛隊女性騎士団長らに、ジュスティーヌ王女は身体検査を受けた。入室を許可されたのは、ジュスティーヌのみだ。侍女の入室は許可されない。なのに後から監視の騎士がついてくる。
「ジュリエットと二人で話します。下がりなさい」
 普段はうるわしいジュスティーヌ王女の厳しい声に、監視の騎士が動揺する。
「しかし、それは⋯⋯」
「王族会議の裁決を伝えにきました。王家の機密に関わる内容です。何者であろうと同室は許しません」
 フランセワ王家の私兵ともいえる親衛隊に「王家」の名を出したのは、効果絶大だった。頭を下げて監視役は下がっていった。
 ジュリエットは、身体検査騒ぎの際のアリーヌ侍女の抗議の声で目を覚ました。最後に見苦しい姿を晒したくなかったので、寝衣を脱いで質素な普段着に着替えた。もう殺されることを覚悟していた。この女も度胸があった。
 ところが険しい表情のジュスティーヌが、一人で入室してきた。処刑人が同伴している気配はない。どうやら今は死を免れたらしい。
 ジュリエットは、ひとつだけある椅子に座り、入室したジュスティーヌを立ち上がりもせずに迎えた。この期に及んでも作り笑顔で挑発する。
「あら、お姉様でしたの。残念だわ。レオンじゃなくって」
 実際にレオンが来たとしたら、死刑の宣告と執行だったろう。
「ジュリエット・ド・フランセワ。あなたは王籍を剥奪されました。もう、フランセワの王族ではありません」
 王族会議の判決が死罪ではないことに、ジュリエットは内心安堵した。だが、顔色に出さない。それどころかさらに憎まれ口を叩く。
「わたしを殺したいお姉様より、レオンの方が口が達者だったようね。レオンは、わたしを大切に思っているのかしら。フフッ」
 そんなわけないのは、分かっている。なのにジュスティーヌは、いら立ってしまう。見透かしたようにジュリエットが続けた。
「それで? わたしは、どこの田舎に流されるのかしら?」
 険しい表情に見えていたジュスティーヌだが、どこか満足げに宣告した。
「あなたは、ブロイン帝国に嫁ぎます。出立は明後日です。仕度をしておきなさい」
 さすがのジュリエットも、人質として敵対国に差し出されるとは想像していなかった。顔色を変えた。
「なっ⋯⋯。レオンの思いつきね! よっ、よくも⋯⋯。フランセワの王族は、政略結婚で外国に出ることは⋯⋯」
 ジュスティーヌの青い目が、腹違いの妹を見下した。
「あなたは、もうフランセワ王族ではありませんよ。⋯⋯言わなかったかしら」
 王家の血を汚す娼婦の娘でしょう?という意識がジュスティーヌの頭をチラリとよぎり、急いで打ち消した。
 ジュスティーヌ第三王女は、「娼婦や浮浪者、それに貧しい病人などは保護すべき弱者であり、王家にはその責任がある」という、この世界にしては奇跡的なほど開明的な考えの持ち主だった。しかし、妹王女ジュリエットの行状に触れるたびに、「娼婦の娘だから」という醜い感情が鎌首をもたげてくる。ジュリエットという妹は、ジュスティーヌの中の偽善と卑しい差別意識を突きつける存在だった。いくら打ち消そうとしても、ジュリエットにはなんの責任もない『娼婦の娘』と見下す想念がジュスティーヌの内心に黒い泡のように浮かんでくる。
 愚かに見えるジュリエットだが、元々感性が豊かで賢い少女だった。出自のせいで性格が歪んでしまい、感情のままに不合理な言動をするので愚かに見えるだけだ。
 正妃の娘であるジュスティーヌがいくら隠そうとしても、血肉化した心底からの侮蔑の念はどうしても伝わってしまう。姉ジュスティーヌは善良な心の持ち主だ。妹を不潔な存在と見てしまう自分を責め、そんな間違った醜い感情を打ち消そうと努力していた。そんなことまで敏感なジュリエットには伝わるのだから、妹はさらに傷つき歪んだ。
 二人をよく知る者には、美人ではあるが知性や品性などで劣る妹王女が、姉王女に対して攻撃的に嫌がらせをしているように見えた。実際は逆だった。人前で並び立つたびに比較され、言葉を交わすごとに傷つけられていたのは、ジュリエットの方だ。やがてこの異母姉妹は、お互いに深く憎み合うようになった。
 領主貴族との内戦に勝利したらレオンは、いずれブロイン帝国に戦争をしかけると、この二人ともが見ていた。そうなったら人質として差し出されたジュリエットは、どうなるか分からない。しかし、フランセワ王国にとどまっても、国王か王家忠誠派貴族か民衆かに殺されるだけだろう。
 ジュスティーヌが自分のネックレスを外し、にらみつけている異母妹に手渡した。
「わたくしが贈ることのできる最後の品です。使いたければ、お使いなさい」
 フランセワ王家は、もともと軍人の家系だ。女性騎士が捕虜になった時に辱めを受けぬよう自決用の短刀を懐に入れているのと同様に、王女が成人すると自決用の毒が仕込まれたネックレスを国王から渡される。形式的な儀式なので、王女たちは毒ネックレスなど王宮総務に預けて忘れてしまう。ジュスティーヌは、それを持ち出して贈った。「これで自死しなさい」ということだ。それが憎しみからか、それとも憐れみからなのか、ジュスティーヌ本人にも分からなかった。
 厳重な身体検査をくぐり抜けた毒ネックレスを渡し、憎悪に青ざめているジュリエットに一瞥をくれると、ジュスティーヌは、そのまま何も言わず軟禁部屋から出て行った。

 ジュリエットは、そんな毒などで死ななかった。ブロイン帝国に入る時に関所で下着まで脱がさせられ、フランセワ王国の品は、なにひとつ持つことを許されない。
 ところがジュリエットは、上手くごまかして毒ネックレスをブロイン帝国に持ち込んだ。そして、ここぞという時に使い、レオンを唖然とさせることになる。

 王族会議が終わり、執務室からジュスティーヌ王女が出ていった後は、レオンとシャルル国王の二人だけでの話し合いになった。
「つかみ合いになるかもしれません。まぁ、大した怪我をすることはないでしょうが」
 レオンは、ジュスティーヌが毒ネックレスを持ち出したことなど知りはしない。
 一番王族然としたジュスティーヌ王女が部屋から出たので、残った男二人の口調がくだけた。
「戦争の準備はどうなっている?」
「順調ですよ。今日の大衆テロのおかげで後ろから刺される心配も少なくなりました。最後まで戦争を回避したポーズを取るために、改めて奴隷解放宣言と無条件降伏勧告を出して下さい」
「分かった。内容は任せる。そういえば、また領主貴族どもが交渉団を送ってきたぞ⋯⋯」
 レオンが嘲笑する。
「国王陛下を弑しておいて、交渉もなにも無いでしょう。開戦と同時に逮捕して地下牢行きです。それまで交渉を引き伸ばして、甘い夢を見させてやって下さい」
 もともと『奴隷』という階級は、フランセワ王国に存在しない。王家の手の及ばない地域の領主貴族が、法を無視して平民を奴隷として監禁し、強制労働させている犯罪である。⋯⋯こんなレオンのプロパガンダで、奴隷制に対する怒りは、王都から地方の平民にまで広がっていた。万一にでも領主貴族が戦争に勝ったら、平民は奴隷に落とされるのではないか?
 領主貴族の立場を例えれば、畜産農家が突然こんな命令をされたようなものだ。

「今日から牛に人権を与える。畜舎の扉を開いて自由に出入りさせろ。逃げても連れ戻してはならない。数日中に牛に二年分の賃金を支払え。過去に牛を殺したり売買した者は、犯罪者として裁かれる。土地建物その他の資産は、犯罪収益なので没収する。査問するので一族郎党は、直ちに王都の収容所に出頭せよ。収容所の安全は保証できない。民衆に殺されるかもしれないが、命令に従わない場合は、確実に死刑だ」

 それでも「負ける戦争をするよりは」と、いくつかの領主貴族家が命令に従おうとした。だが、殺気立った主戦派領主貴族に阻まれて王都に出発することができない。突破しようとしたら逃亡者として殺されてしまうだろう。
 シャルル新国王には、領主貴族と本気で交渉するつもりなど全く無い。領主貴族どもは、父王の頭痛の種だった。粘り強く交渉して穏便に解決しようとした挙げ句に、父王は奴らに殺されてしまった。穏やかで秀才型の性格のシャルルだったが、親兄弟を惨殺した奴らを許すことなど到底できない。「領主貴族とは殺るか殺られるかだ」と、もう腹を括っていた。
 実際には、約三万人の領主貴族と配下の騎士の中で国王殺しのクーデターに多少なりとも加担したのは、千人にも満たない。なのに王国政府は、彼らが絶対に飲むことのできない領主権の返上と奴隷制の即時廃止を命令してきた。領主貴族たちは連合し、交渉団を派遣した。しかし王国政府は、一切譲歩しない。「滅びたくなければ、命令を即時無条件で受け入れろ」という態度だ。
 領主領という独立王国が国内に存在することが、国の発展を阻害し存続をも危うくする。そう判断した王国政府は、領主貴族を滅ぼして中央集権国家を建設することを既に決断している。それを先導したのがレオンだ。
 奴隷制など論外だった。完全廃絶あるのみだ。奴隷に多少の権利を与えてお茶を濁すなどということは、あってはならない。奴隷制を残したら、いずれ領主制が息を吹き返すだろう。
 奴隷制は文明的とはいえないが、奴隷制の文化は存在する。レオンは、西方領主地域にはびこる奴隷制文化までもを、この世から消し去るつもりでいる。

「宗教、家族、国家、法、道徳、学問、芸術等等は、それぞれが生産活動の特殊な在り方であるから、生産活動の法則に従う」(マルクス)

「生産活動の法則」とは、奴隷制のことだ。領主制の経済的な土台となっている奴隷制を、この戦争で上部構造もろとも跡形もなく破壊するのだ。その結果、自由になった人間による自由な経済活動は、この国を爆発的に発展させるだろう。
 レオンがそこまでやるつもりだと気づいた者は、ほとんどいない。数十万の軍が領主領地域を包囲しつつある。十二時を過ぎた。あと十五日で開戦だ。

 この頃、情報将校を中心とした反レオン派軍人が秘密裏に集まり、この戦争の見通しを討議している。
「フランセワ王国軍が、この戦争に勝利することは確実だ。しかし、ブロイン帝国が介入すると事態は変わってくる」
「領主領とブロイン帝国から輸入した綿花による紡績業で利益を得ているブリタリア王国が、ブロイン帝国を支援するだろう。参戦する事態もありうる」
「我が軍のほとんどが西方に集結している。その隙をついて北のルーシー帝国が、緩衝地帯の小国群に侵攻する可能性は十分に考えられる。その場合は、西部戦線から軍団を引き抜き、東部の防衛にまわさねばならない」
「フランセワ王国の内戦が、世界大戦に発展するというのか?」
「可能性の問題だ。三大国を相手にした二正面戦争では、我が国は必ず敗北する」
「西方領主領戦争を止めることは、もはや不可能だ。しかし、すみやかに終結させる方法はある。レオン・マルクス総司令官を排除し、国王陛下を確保する。軍政をひき、即時停戦を宣言する」
「我々が掌握している部隊を使い総司令部を攻撃すれば、レオンの殺害は十分に可能だ」
 シ──────────────ン⋯⋯

「まて! レオン死後の状況を検討したのか? 王家は瓦解しフランセワ王国は、無政府状態に陥る。王都を中心に暴動が広がり、争乱状態になるだろう。我々は事態を収拾できるのか?」
「レオンが死んだら軍の指揮権はジルベール前線司令官が握る。奴は四十万もの軍団を率いて王都に帰還してくる。レオン以上に過激な男だ」
「争乱は王都だけでは済まない。全土で民衆派と保守派、王家忠誠派、それに領主貴族による内戦になる」
「レオンを排除したとしても、軍政は国王の信任を得られないだろう。第三王女も排除するつもりか?」
 反レオン派将校たちは、手詰まりだ。
 激論を交わしている最中に、ジュリエット王女のブロイン帝国輿入れの報が飛び込んできた。驚愕で室内が静まりかえった。
「⋯⋯宮廷外交で政治や軍事を動かせると考えているのか? レオンは、甘ちゃんだな」
「いや。ブロイン帝国政府は、介入派と不介入派に割れている。フランセワの王族を人質に差し出せば、不介入派の発言力が増す。時間を稼いで内戦を終結させることができる」
「王女に見初められて王室入りした田舎の末席貴族が、たった四年で軍部と治安機関を握り、戦争を始めようとしている。レオン・マルクスを甘く見ては危険だ」
「軍士官学校と王国大学まで影響下において、軍人と官僚を民衆派に入れ替えようとしている」
「そうだ。先日、貴族出身の将官が三十人以上退役させられ、代わって軍大学校出の佐官が将官に進級した。ほとんどがレオンの影響下にある。将校団は、民衆派で固められた」
「あれは無血クーデターではないのか? 将官に召喚状が届き、王宮謁見室に入ると国王・宰相・大臣、それに民衆派の軍人が待っていて、国王勅令で三十人がその場で解任された。自分の部隊に戻ることも許されず、地方の領地に引退だ」
「罷免された将官は、監視下にあるのか?」
「いや。田舎で放置されている。無能だからな⋯⋯。貴族将官でも仕事ができる者は、残している。あの男らしい」
「奴は軍権を握り、なにをするつもりだ?」
「権力を握っただけで満足するような男ではない。軍事力の行使⋯⋯対外戦争だろう。ブロイン帝国が内戦に介入しなくても、いずれレオンが戦争を仕掛けるのではないか?」

『カナリア』というコードネームで呼ばれているリーダー格の将官が結論を出した。
「現在の状況では、合法的にレオン・マルクスを排除することは不可能だ。しかし、奴が今後も戦争政策を続けるなら、フランセワ王国は滅亡する。それを防ぐために我々は、必要なら非常手段を取らざる得ない。今後も極秘裏に会合を持ち、情勢を分析する。時期がきたら部隊による決起も視野に入れる」
 うなずいた反レオン派将校たちは、席を立ち、一人ずつ謀議の部屋から出て行った。

 レオン暗殺計画など、これまでも何件となく企てられていた。今のレオンには、そんなものにかかずらう時間はない。街の消防団や村の自警団を赤軍に再編成する作業に文字通り寝食を忘れて忙殺されていた。
 王族会議の二日後には、ジュリエットがブロイン帝国に出立させられる。もう開戦まで時間がない。
 長く小競り合いをしてきた二大国の和解の象徴として、ジュリエットの嫁入りは、花が舞い歌と踊りのパレードで見送られるのが当然だ。しかし、フランセワ王家は、見送りを拒否した。さすがにそれではブロイン帝国への手前もある。ほとんど寝ずに動いているレオンに、王族代表としてお鉢がまわってきた。
 だが、レオンは準王族にすぎない。ブロイン帝国大使も随行するのに、ジュリエットの血縁者が一人も見送りしないのは、いくらなんでも体裁が悪い。本来なら国王が見送るべきなのだ。

──────────────────

 オレ以外に血縁の王族がいないのはマズい。
 ジュスティーヌに見送りを頼むか⋯⋯。うーん。最後の最後でジュリエットと罵り合いを始めるかもしれないなぁ。⋯⋯大使の目の前でも罵り合うだろうな。ダメだ。
 シャルル国王は、「やはり死刑にすべきだったか」と今も悔やんでいる。手の届かないブロイン帝国に行ってしまうジュリエットを見たら、憎しみにかられてその場で死刑を宣告してしまいそうだ。絶対王政の国では、法よりも国王の意志の方が上だ。その場で処刑ということになりそうだ。たぶんオレが、死刑執行を押し付けられるぞ。⋯⋯嫌だ。義妹殺しの汚名をかぶるのは、避けたい。
 十四歳のジョルジェ第五王子のところに行ってみた。
「私が成人していたら、死刑に投票して父上と兄上の仇を取ったのに!」
 そう言って地団太踏んでいる。⋯⋯これはダメだ。
 最後にシャルロット第五王女の私室を訪ねた。金髪碧眼で明朗快活なのがフランセワ王家の王女の特徴だ。ところがこの第五王女は例外で、亜麻色の髪に灰緑の目をしたおとなしく気の優しい十四歳だ。聖女マリアに容姿と性格が似ている。顔を合わせる機会があると、なぜかポッと頬を染めて侍女の後ろに隠れてしまう。
 義妹とはいえ王女様の私室にズカズカと入り込むわけにはいかない。人を送り、侍女に取り次ぎを頼んだ。応接室に出てきたシャルロット第五王女にジュリエットの見送りを切り出すと、シャルロットちゃんは、小さくふるえてうつむいてしまい、やがて床にポタポタと涙が滴った。そしてそのままなにも言わず、奥に引っ込んでしまった。
 後ろに控えていたちょっとアリーヌに似ている侍女は、性格もアリーヌに似て忠誠心と気が強かった。
「姫様は、お疲れですっ。お引き取り下さい!」
 とんがった声を出すや、外に押し出され目の前でバターンと扉を閉められた。まったく取り付く島もない。やれやれ⋯⋯。

 花嫁のはずのジュリエットの評判は、最悪だ。「父王殺しの手引き者」だと上は高位貴族から下は貧民街の住民まで、「死刑にしろ!」と怒っている。でも、本当に殺しちまうと、民衆は悲劇の王女あつかいするんだよなぁ⋯⋯。勝手なもんだ。
 輿入れの件が漏れるとやっぱり王家忠誠派の貴族には、「フランセワ王家には、女神の血が流れている。この尊い血を敵国に盗まれるくらいなら、いっそ⋯⋯」などと訳の分からないことを言ってジュリエット暗殺を企てる連中まで現れた。
 現政権の実体は、民衆派とラヴィラント宰相がリーダーの王家忠誠派の連立に保守派の一部が協力しているという体制だ。民衆派と王家忠誠派が衝突したら、戦争なんかできっこない。モタモタしていたら王家忠誠派が暴発してしまう。そんな事情もあって出発を急いだ。
 王宮と王族守護が任務の親衛隊が、クーデターでは一番被害が大きく、半数近くが戦死した。当然だがジュリエットに激怒している。親友を殺されていきり立つ親衛隊騎士連中の前に立ちふさがって剣を抜き、「オレを倒してからジュリエット王女を殺せ!」とやって、なんとか鎮めた。なんでオレが⋯⋯。
 王族の輿入れなら、数十台の馬車を連ね、数百人の随員を従えて国境に向かうものだ。ところがジュリエットの車列は、馬車数台に二十人の護衛という寂しさだった。同行するブロイン帝国の大使が、自分の車列とそう変わらない貧弱さに驚き目をむいている。
 仕方がない。大使には苦しい言い訳をした。
「全てを戦争に動員しているのです」
 戦場となる西方領主領の向こうにブロイン帝国がある。領主領を迂回して国王直轄地から国境に達することもできる。だが、その気になれば足の速い領主軍の騎馬隊に捕捉されるだろう。あえて有力な領主領を通る街道を行かせることにした。
 やりたくない仕事だが、護衛隊の隊長と副隊長のローゼット女性騎士に厳命した。
「もし領主軍がジュリエットを奪いにきた場合には、護衛隊が全滅する前に、確実にジュリエット王女とブロイン大使を殺せ!」
 自分の短刀で第三王子が自殺したせいでノイローゼ気味だったローゼットは、顔面蒼白になった。他に有能な女性騎馬指揮官がいないのだから、可哀想だがどうしょうもない。
 ジュリエットを領主軍に渡すわけにはいかない。巻き込まれた大使は、領主軍に殺されたことにしてやろう。領主貴族とブロイン帝国の連携を断つ材料になるだろう。
 ジュリエットが無事にブロイン帝国にたどり着けるかどうか、五分五分ぐらいだろうか。到着したら、仮にも隣国の王女様だ。ブロイン帝国の介入戦争を遅らせることができる⋯⋯かもしれない。
 もし途中で殺されても、「平和の使者として送られた王女と付き添いの大使を、領主貴族どもが殺した」とかなんとかプロパガンダに使える。悔しまぎれみたいに妹王女を処刑するより、よほど戦意高揚の役に立つぞ。

 最後の挨拶くらいはしとこうかね。
 馬車の中でジュリエットは、両脇と前を侍女たちに固められて座っていた。侍女といっても正体は王族警護の女性保安員だ。暗器を隠し持ち、全員が戦闘訓練を受けている。もし車列が襲われたらジュリエットを始末するのは、この女どもになるのだろう。
 オレに気づくとジュリエットは、青く燃えるような眼でにらんできた。
「よくも⋯⋯。レオン、これはあなたのしわざね」
 処刑から救ってやったのに、ひどいことをしたような言い草だよ。
「この国にいたら、いずれ殺されますよ。感謝されてもいいと思いますがね」
 ジュリエットが叫んだ。
「わたしは、なにもしていない!」
 やはりこの元王女は、なにも分かっていない。
「あなたがクーデター派に加わり国王弑逆をしたなら、まだ救いがあった」
「なんですって?」
 思わず笑い声になってしまう。
「あんたの協力がなけりゃあ、クーデターを起こせたかもあやしいもんだろ。敵に利用された挙げ句に、『わたしは、なにもしていない~』ときたもんだ。愚かだねぇ」
「どきなさいっ!」
 ジュリエットは、手荒く侍女をどかし馬車の窓を開けた。
「レオン。もっと近くにきて。⋯⋯どうしてわたしを選ばなかったの?」
 フランセワ王家の女たちに、オレは妙にモテる⋯⋯ような気がする。オレが、フランセワ王朝を立てた初代国王の肖像画に似ているからかな?
 旅先まで追いかけて強引に結婚に持ちこんだジュスティーヌ。既婚者の第一王女と第二王女にも、なにかの行事で会うとチヤホヤされる。シャルロット第五王女も、なんだかオレに好意を持ってるみたいだ。そして、このジュリエット。王家の女たちは、変な電波でも受信しているんだろうか?
「シャルルとジュスティーヌは、フランセワ王国を守ろうとする。わたしは違う。一緒になれば、なにもかも壊せたのに」
 王族の女と革命家の男は、いずれ袂を分かち、殺し合いになるかもしれない。でもね⋯⋯。
「あなたと知り合ったのは、ジュスティーヌと結婚してからですからね。ははは⋯⋯。早いもん勝ちですよ」
 ジュリエットが猫なで声を出した。
「もう二度と会えないかもしれないわね。もっと近くにきなさい」
 そう言うと、窓から思いきり身を乗り出してきた。侍女たちが、あわててジュリエットの腰をつかんで押さえる。
「おいおい、馬車から落ちるぜ」
 落っこちて顔に傷でもつくったら困る。あわてて近寄ると、ジュリエットに両手で髪をつかまれ、ぶつかるような激しいキスをされた! なかなか情熱的だ。舌を入れてくる。お返ししようかと思ったが、まあ、やめておこう。
 気が済むまで好きにさせようと思っていたら、おもいっ切り唇に噛みつかれた。
 いってえ!
 下唇が四センチほどザックリと切れ、派手に出血した。首の辺りが血だらけだ。ジュリエットも口の周りが真っ赤になっている。
「舌を入れてきたら、噛み切ってやったのに!」
 おーおー、危ない危ない。⋯⋯痛えなぁ。
 こんな傷は消してしまおう。人差し指をジュリエットの目の前に突き出した。指先から、銀と金色のピンポン玉のような球を出した。
 ヒイイィィィ──────ン⋯⋯

 この女が、傷治しを見るのは初めてだろう。
「め、女神の光⋯⋯」
「ふん。そう呼ばれているね。皆こんなもんを有り難がるから、仕事がやりやすかったぜ」
 銀と金色のピンポン玉を唇に当てると、瞬時に傷が消えた。
「くっ! ちくしょう⋯⋯」
 ジュリエットは、王女らしくない言葉遣いになった。
「あんたとジュスティーヌは、必ず殺してやるっ!」
 命を助けてやったオレが、なんでそんなに恨まれなきゃならんのだ? 王女みたいに振る舞って隠しているが、フランセワ王家の王女たちは、恋愛には激しく一途だし、情が深い面がある。「愛情と憎しみは紙一重」なのかな?
「ははは⋯⋯。自分のお命を心配するんですな」
 そう言って馬車から離れた。また噛みつかれたらかなわない。
 傷は消えても血は消えない。オレの首周りは、血で真っ赤なままだ。近寄ってきたブロイン帝国大使が、異様な目で見ている。
「えー、ちょっとした事故がありました。もう解決しましたので、ご安心ください」
 人斬りで有名らしいオレが、目の前で血だらけになっているのだから、安心できるわけがないだろうが。
 ラヴィラント宰相が説得しているとはいえ、ぐずぐずして王家忠誠派の過激分子が斬り込んできたら大変なことになる。一刻も早く出発させてしまおう。
「大使閣下。お時間です。ジュリエット殿下が出立なさいます」

 王宮の居候部屋に戻って血だらけの服を着替えていると、オレが怪我をしたと聞いたジュスティーヌが飛んできた。
「ひでえ女だよ。舌を食いちぎられそうになったぜ」
 ジュスティーヌの碧眼がスッと細くなった。
「ジュリエットと接吻なさったのですね」
 いいえ、唇に噛みつかれたんです。なのにジュスティーヌは、きびすを返して部屋から出ていってしまった。怒ってやがる。⋯⋯無理矢理の騙し討ちチューだったのに。
 侍女のキャトゥが、床に散らばっている血のついた服を手早く片づけながら言った。こいつは遠慮がない。
「アハッ、バカですねえ~」
 そんなことねぇぞ。調子に乗って舌を入れ返してたら、食いちぎられていた!
 死なないまでも当分喋れなくなる。喋れなきゃあ、戦争の指揮をとれるわけがない。オレがはじめたような戦争なのに、色仕掛けの女に噛みつかれて最後に脱落とか、とんだ赤っ恥だ!
 最後の最後まで復讐と攻撃を忘れない。まったく、とんでもない女だったぜ!

 三日後、ジュリエットは、無事に国境の関所に到着しブロイン帝国に引き渡された。西方領主連合の指導部は、ジュリエット王女を拉致する決断が出来なかったようだ。
 関所でジュリエットは、騒ぐことなくフランセワ王国の服や持ち物を脱ぎ捨て全裸になり、ブロイン帝国が用意した衣服に着替え、馬車を乗り替えて帝都バルレンに向かった。
 例の毒ペンダントは、油紙に包み飲みこんで持ち込んだ。毒が漏れたらジュリエットは死んでいただろう。この女にも度胸があった。「人質に差し出されるフランセワの王女が、道中で毒殺される。⋯⋯面白いわ」。
 関所までつきそったブロイン帝国大使が、ジュリエットの身柄引き渡しに立ち会った。口数が多く、どこか浮薄な印象を与えたジュリエットだったが、この三日の間に急に無口になり、姉のジュスティーヌに似てきたように感じられた。
 丸一日かかった手続きが終わり、王都に帰ろうと駐車場に戻って驚いた。フランセワ王国の護衛騎士と侍女たちは、とっくに全員騎馬で出発していて一人も残っていない。領主軍に捕捉されたら護衛部隊は全滅すると考えたのだ。
 一刻も早くこの場から離脱するためだろう。馬を外した王家の超高級馬車は、そのまま放置されていた。もちろん大使一行の馬車は残されているが、護衛騎士たちの急ぎぶりを見たブロイン帝国の御者や随員は不安の色を隠せない。
 取り残された大使は確信した。「戦争は、もう覆しようのないフランセワ王国の国策である」。
 開戦まであと十日だ。四十万の部隊が西方領主領地域を包囲しつつあった。

 これから始まる戦争について詳しく述べることは、次作に譲る。だが、レオンが始めるこの戦争では、英雄的な行為とともに、避けることのできた多くの悲惨があったことだけは述べておこう。
 開戦にあたってレオンが発表した文章を転載しよう。レオンとエステルという弱冠十六歳の少女の合作だ。
 レオンに見出され戦争が始まると総司令官の秘書として召集され、作戦参謀以上の働きを見せた。小柄な可愛らしい少女なのに、良くも悪くも猛烈な働き者でレオン以上の極左だった。
 総司令官秘書という職務についていたが、物腰は柔らかくにこやかで少しも偉ぶらない。軍人とはいえそんな少女が、自分の死も、人を死に追いやることも全く怖れなかった。
 レオンは、末席とはいえ貴族の出身だ。なので底辺の民衆の声を反映させるためにも、最底辺から這い上がった天才少女の知恵を借りようとした。
 この二つの宣言を読めば、どのような戦いが行われたのかを概ね知ることができる。

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 赤軍宣言 フランセワ王国軍総司令部
 民衆の軍隊、赤軍が結成された!
 大衆が武器を握り、自らの為に戦う権利を手に入れたのだ。民衆の武装が遠い未来のことではなく、現実のものになったのだ!
 赤軍を創設したフランセワ王国軍総司令部は、全ての平民に呼びかける。民衆の軍団を組織せよ! 全ての平民は、奴隷使いに対する戦争に参加せよ! 武器をとり、武器を使うことに習熟しようとしない者こそが『奴隷』なのだ。
 今まで、民衆が武器を握り武装することが、あたかも夢物語であったり、永遠の未来であったり、とてつもないことであるといった奴隷の精神が植えつけられてきた。「平民が武器を持つことは悪である」などという奴隷の考えによって国中が覆いつくされてきた。
 しかし、奴隷制に対する憤りを梃子にして平民大衆の怒りの声が地鳴りのように沸き上がり、ついに民衆の精神に巣くっていた奴隷根性は打ち砕かれた。そして一部の者の特権であった武装し戦う権利を、民衆がその手にもぎ取ったのだ!
 いたるところで軍団を組織し、赤軍に志願せよ!
 フランセワ王国軍総司令部は、民衆の軍団=赤軍に武器と資材を供給し、戦術を指導し、戦闘を指揮する。奴隷解放のためだけでなく、平民が手にした武力を拠り所にして自らの力を解放するためにも、この戦争に赤軍を動員する。
 ひとたび武器を手にして戦場に立った平民は、もはや無力な『下民』ではない。遊び半分で殺されることもなければ、意味もなく打擲されることもない。自らと自らの愛するものが悪と不正から保護される権利を持つ兵士となり、市民となるのだ。
 赤軍に結集せよ! 
 自らを兵士としてうち鍛えよ!
 奴隷使いとその追随者を打ち倒せ!
 解放戦争万歳!
 民衆の赤軍万歳!

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 戦争宣言 フランセワ王国軍総司令部
 ①奴隷使いとその追随者どもよ
 フランセワ王国正規軍と民衆の赤軍は、お前たち奴隷使いを奴隷解放戦争の場に叩き込んで一掃するために、ここに宣戦を布告するものである。
 貴族を僭称する奴隷使いどもよ!
 お前たちが、たとえどれほどの財貨を抱え込み騎兵軍を養っているとしても、傭兵を雇い入れ裏切り者の平民までをも動員したとしても、フランセワ王国は正規軍と民衆赤軍の下に団結し、必ずやお前たちを絶滅させることを通告する。
 お前らの歴史的罪状は、もうわかりすぎているのだ。
 奴隷使いの歴史は、血塗られた歴史である。二百五十万人もの民衆を奴隷として監禁し、強制労働で酷使し鞭打ち、親子を引き裂いて売り飛ばし、疲労と虐待のために働けなくなると容赦なく虐殺してきた。そのような悪行の果てに、がっぽりともうけて贅沢三昧してきたのだ。
 お前たちは搾取し略奪するために、数百年に渡って民衆を虐げ殺してきた。なのに「平民と奴隷は違う。奴隷は特別だ」などと虚言を弄している。
 民衆は、もうそんな言葉にそそのかされ、だまされはしない。否、そそのかされ、だまされないだけではない。過去のうらみを持ってお前らをのろうとともに、お前たちのやろうとすることに対して、今度は我々の側には用意がある。
 奴隷使いどもよ。いつまでもお前らの思い通りになると思っていたら、大まちがいだ。
 お前たちは、説得で奴隷制を廃止しようとした前国王を騙し討ちに殺した。
 新国王が奴隷解放を宣言すると、最後の機会だとばかりに必死になって我が国の民衆を外国に売り飛ばしている。そうしてかき集めた金で傭兵を雇い入れ、殺人のための武器を買い集めている。
 お前たちの魂胆は見え透いているのだ。
 今や、フランセワ王国とそれを支える民衆は、お前たちの好き勝手にされることをきっぱりと拒否することを宣言する。
 奴隷制の時代は、終りなのだ。奴隷制が廃絶されることは、あまりに当然であり正義である。そのための戦争は、正義のたたかいの貫徹である。
 我々は、この世界から『奴隷』をなくすために、すなわち奴隷解放戦争の勝利のために、お前たちをこの世から抹殺するために、最後まで徹底的に戦い抜く。
 国王を殺し、『奴隷』とされた者たちを今も殺し続けている憎むべき奴隷使いとその追随者どもは、「暴力は人間を堕落させる。どんな戦争も悲惨な悪だ」などとほざいている。自らの殺人と悪行を棚に上げて偽善の言葉を吐き散らしているお前らは、今も『奴隷』を監禁し、殺しているではないか!
 我々の戦争は、カネを稼ぐために『奴隷』を鞭打ち、見せしめになぶり殺すという奴隷使いの腐敗した暴力とは違う。人生を奪われ、今この時も虐待されている『奴隷』を解放するための輝かしい正義なのだ。
 今まで武器を取ることのなかった民衆は、ついに目覚めた。解放戦争の嵐のなかで武器をガッチリと握りしめ、奴隷使いどもを手当たり次第になぎ倒し、自己を実現し自らを高め清めていく。奴隷制廃絶のために赤軍に結集した民衆の志気は、いよいよ高く、その精神は、ますます純潔である。
 この聖なる戦いは、憎むべき人類の敵が絶滅するまで終わることはない。常習的な殺人、拷問、誘拐、監禁、傷害、強姦、人身売買、強制労働。お前たちは、あらゆる法と人道を踏みにじってきた。極悪の犯罪のむくいを受ける時がきたのだ。
 奴隷使いどもよ。解放戦争の前に戦慄するがよい! 赤軍は、お前たちが蔑んできた平民が組織した恐怖となるだろう。悪に対して怒り心頭に発した民衆による無慈悲な戦闘と赤色テロルは、奴隷制を根絶するまで終わることはない。
 各所に点在する奴隷使いの追随者と裏切り者に警告する。我々の奴隷解放の事業を邪魔する奴は、誰
であろうと、何処であろうと、何時であろうと、容赦なく抹殺する。お前らは、奴隷使いと一緒に串刺しにされるのが嫌ならば、奴隷制を擁護する口を閉じ、隠し持っている武器を後ろに向けるのだ。お前たちをそそのかし、後ろであやつっている奴隷使いどもに向けて!
 貴族を僭称する奴隷使いよ。国王弑逆者よ。民衆を殺し続けてきた者どもよ。フランセワ王国国王、王族会議、閣僚会議、元老院、貴族院は、満場一致でお前たち大逆犯に死刑を宣告した。民衆は、奴隷使いに対する死刑という素晴らしい判決に総立ちとなり、歓呼の声を上げて街を練り歩き、熱烈な支持を表明している。我々は決して後退しない。
 我が軍は、奴隷使いとその傭兵どもを圧倒的な戦力で包囲し、せん滅する。これは満天下に死刑を宣言された極悪の犯罪集団に対する討伐作戦である。お前たち全てが地にひれ伏すまで、正規軍と赤軍は間断なく処刑攻撃を続けるだろう。
 お前たちがどこに逃亡したとしても、地の果てまでも追いかけ、文字通り草の根を分け川の底をさらってでも見つけ出して、一人残らず処断する。
 取引や交渉の試みは、無駄である。戦闘開始後の降伏は、一切認めない。戦闘開始前に武器を棄て全面的に我が軍門に下る者に対して、一定の顧慮を加えるのみである。
 団結せよ!
 戦争宣言をここに発する!

 ②『奴隷』とされてきた皆さん
 ようやくこの時がきました。十二月十六日払暁、四十万名のフランセワ王国正規軍と志願した民衆からなる赤軍は、人類に対する犯罪である奴隷制を廃絶するために、満を持して西方領主領地域に突入しました。私たちは、奴隷使いどもからあなたがた『奴隷』を、一人残らず解放します。
 今まで私たち平民は、生きることに精いっぱいで、その生涯を終えてきました。学ぶ時間も、考える余裕さえありませんでした。貧しさ故に無知であり、生きるために悪に染まることさえありました。
 しかし、私たちは目覚めました。あなたがた『奴隷』の解放のために、手に武器を取って立ち上がります。なぜならば『奴隷』とされているあなたがたの今日は、全ての平民の明日の姿でもあるからです。
 フランセワ王国と民衆は、奴隷制という忌まわしい悪習から長いあいだ目をそらしてきました。その意味で私たちには、大きな責任があります。私たちは、あなたがたが流してきた血の債務を負っていると考えます。幾世代もの血債を返すために赤軍に結集したフランセワの民衆は、あらゆる労苦も、死をもおそれず奴隷解放戦争の主力になります。
 近い将来、奴隷小屋の扉は民衆の鉄槌によって打ち砕かれ、あなたがたは解放されます。我が軍は、あなたがたに食料を供給し、病人や怪我人に適切な治療を施します。もう、カネのために人が売られ、母親から赤子が引き離されるようなことを決して許しません。
 あなたがたは、今まで暗く不潔な小屋に押し込められ、字を読むことも許されず、自ら考えることすら禁じられてきました。そのために、まだ戦う準備ができていないかもしれません。しかし、我が軍と共に働くことで、奴隷解放の事業に協力してほしいのです。
 あなたがたは、もう『奴隷』ではありません。労働には、それに見合った対価が支払われます。そして解放戦争の勝利と同時に、あなたがたは完全に自由になります。自由とは、他人を害さない限りあらゆることをなしうる権利です。
 戦争の過程であなたがたは、悲惨な光景を見ることになるかもしれません。しかし、それはどうしても必要なことなのです。
 奴隷使いを貫く槍は、『奴隷』とされてきた人びとの怒りです。奴隷使いに振り下ろされる剣は、目覚めた民衆の鉄槌です。奴隷使いが流す血は、今まで『奴隷』が流してきた血の河です。奴隷使いを吊す縄は、彼らが自ら編んだ縄です。奴隷使いの城を焼く炎は、奴隷制を一掃する業火です。奴隷使いの死体は、滅び去った奴隷制のむくろです。私たちは、決してたじろぎません。わが国から奴隷制を根絶するまで、それらを断行します。
 私たちにとって「過激だ」といわれることは、むしろ誇りです。手に武器を握りしめ、虐げられた民衆、自由を求める民衆の先頭に立ち、解放のために血を流してたたかう。これ以上に気高い行為が、ふたつとあるでしょうか。
 貴族などと自称する奴隷使いどもは、自らの欲望のために数百年も『奴隷』の血と汗の上に寄生してきました。奴隷制を生存の土台としてきた領主貴族は、その支配の道具であった差別と分断を自らの中に持ち込み、腐敗し破滅します。今まで『奴隷』や『下民』に向けて浴びせられてきたありとあらゆる侮蔑の言葉は、奴隷使いにこそふさわしいのです。
 奴隷制が許される時代は、終わりました。私たちは、奪われたものを、尊厳を、この手に奪い返します。
 奴隷解放宣言を突きつけられた奴隷使いどもは、「夜も眠れない」などとほざいています。私たちは言ってやりましょう。
「そうだ、お前たちに眠ることのできる夜は二度とこない。なぜなら、民衆の夜明けが迫っているからだ」
『奴隷』の解放。それは『奴隷』とされている人びとだけの解放ではありません。自らを縛りつけている鎖から、私たちを苦しめている無知と貧困から、あらゆる人びとを解放する事業の一環なのです。
 自由を求める民衆は、死を賭して最後までたたかい抜きます。
 奴隷制に死を!
 友よ。手を携え共に進もう!

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 レオンとエステルが書いたこの宣言は、こう謳っている。
「平民は強くなった。武器を取り、同じ平民である奴隷を解放する戦争に参加する。だから貴族と同じ権利をよこせ」
 明言こそ避けているものの、これは身分制の否定だ。身分制の否定は貴族制の廃止、いずれ王制の廃止につながるだろう。
 読む人が読めば、この宣言で書かれている自由と平等といったブルジョア民主主義は、絶対王政にとって大変な危険思想だとわかる。ところがレオンは、開戦のどさくさにこの宣言を全国にばら撒いて大衆を煽った。

「思想は大衆の心を掴んだ時、力となる」(レーニン)

 赤軍に結集した平民大衆は、武器を取って領主貴族軍と戦うだろう。そして勝利した戦争の経験から、自らの力に強い自信を持つようになる。
 戦争と暴力こそ革命の母胎なのだ。この世界でレオンは、世界革命を起こすつもりだ。

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 三年前の夕方。わたしは、父と母、それに弟たちを殺した貴族愚連隊ブラックデュークの根城に、親衛隊第四中隊が攻め込んだことを知った。
 近所の人たちが、興奮し大声でしゃべっている。寝たきりだったお婆ちゃんに肩を貸して、斬り合いをしている愚連隊のアジトまで行くことにした。
 まだ十三歳だったので力が無く、着くまで一時間もかかってしまった。でも、どうしてもお婆ちゃんに、家族の仇が死んだ姿を見せかった。
 愚連隊の根城になっていたお屋敷は煙につつまれ、大勢の野次馬が囲んでいた。お婆ちゃんを支えてきたわたしを見て事情を察した人たちは、気の毒そうな顔をして道をあけてくれた。おかげで一番前に出ることができた。
 野次馬が、血刀を持った狼のような親衛隊の指揮官を遠巻きに囲み、固唾を飲んで見守っていた。血に染まった男が指揮官の足下に転がっている。
 きっとこの血刀を持った人が、レオン・マルクス隊長だ。王族で伯爵様なのに、平民の味方をしてくださるただ一人の貴族⋯⋯。
 マルクス隊長は、群衆に向き直った。
「さあ、みんな。こいつをどうする?」
 !
 驚いた! 血だらけで転がっている男は、お父さんやお母さん、それに弟たちを殺せと笑いながら命令した奴だ!
 それを訴えたら、きっと仕返しに愚連隊に殺される。わたしは死んでもいい。でも、わたしがいなくなったら、お婆ちゃんはどうなるの? 皆も黙って下を向いてしまった。
 目をギラギラさせたマルクス隊長が、大声を出した。
「どうした? こいつは、おまえたちを虐げていた愚連隊の御輿だぞ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」

 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯

 地面に倒れている仇のお腹のあたりに、小石が落ちた。
 お婆ちゃんがいないっ!
 寝たきりだったお婆ちゃんが、仇のすぐそばにいた。自分で歩くなんて! ヨロヨロと足下の小石を拾っている。あわてて駆けていって支えた。
 お婆ちゃんは、小石を投げた。
「セガレを、かえせぇ~」
 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯
「ヨメを、かえせぇ~」
 ヒョロロ~、ポテ⋯⋯
 支えながら小石を拾ってお婆ちゃんに渡した。
「マゴを、かえせぇぇ~」
 ヒョロロロ~、ポテ⋯⋯

 マルクス隊長は、真っすぐこっちを見て尋ねられた。
「どういうわけだ?」
 言ってやろう。殺されたっていい。家族の仇をとるんだ。
「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました」
「ほう。なぜ?」
 もう怖くなんかない。
「分かりません。気に入らないとか言ってました。笑いながら、お父さんと、お母さんと、ジェイ君と、ケイちゃんを殺して川に投げ込んだんです」
 マルクス隊長は、膝をついて目線を合わせてきた。
「名前は?」
「あの⋯、エステルです」
「いい名前だ。何歳だ?」
「もうじき十四歳になります」
「婆さんの状態は? そろそろ死ぬのか?」
「⋯⋯分かりません。近所の人が親切にしてくれるので⋯まだ⋯」
「危なくなったら王立診療所に連れていけ。満員でもレオン・マルクスの名を出せば受け入れてくれる。⋯⋯さーてと、この野郎は婆さんより先にあの世行きだ⋯」

 マルクス隊長は、仇をとってくれた。
 帰り道で、お婆ちゃんが動けなくなってしまった。わたしもくたびれてお婆ちゃんを支えられない。仕方なく道の端に二人で座り込んだ。
 グッタリしていると、後ろから声をかけられた。
「よう。エステル⋯⋯だよね?」
 愚連隊が仕返しにきたのかな? 予想よりもずっと早い。振り返ると健康そうな黒髪黒目の男の子と、平民の服を着てるけどきれいなお姫さまみたいな金髪で青い目の女の子が立っていた。ニコニコしていて優しそうだ。人殺しの愚連隊には見えない⋯けど⋯。
「⋯⋯殺しにきたの?」
 勝てなくてもいい。マルクス隊長みたいに、たたかってやる。
 二人は驚いて顔を見合わせ、少し笑った。
「違う違う。驚かせてごめん。婆ちゃんをおんぶしてやるよ。帰るんだろ?」
 男の子は、簡単にお婆ちゃんを持ち上げると、おんぶしてしまった。
「軽い軽い。さっ、行こうぜ。ああ、オレはマーロウ・ターミャっていうんだ。今は建設現場で働いてる」
 女の子が、斜めがけしていた麻のザックから土瓶を出した。
「のどが渇いてるでしょ? お水よ。あたしは、ローザ・ノーブル。フォングラ侯爵様のお屋敷で下働きをしてる。二人とも十五歳よ」
「⋯⋯早くわたしから離れて。愚連隊が襲ってきたら、巻き添えになるわ」
 マーロウ君とローザさんが、顔を見合わせた。
「それはないな」
「ないわね」
 ブラックデュークには、後ろに公爵家がついていて、警備隊だって手を出せないのに。
「レオン様が、愚連隊を全滅させたからなぁ。もう、あいつらはお終いだぜ」
 行きは一時間もかかったのに、二人が手伝ってくれたおかげで十五分で家に着いた。家といっても元は物置部屋だ。
 ひとつしかないベッドにお婆ちゃんを寝かせて、外に出た。部屋は明かりがないから真っ暗だ。外は月明かりがある。
「ありがとう。すごくたすかったわ」
 こんな貧しい暮らし向きを見ても、二人は驚いた様子がない。餓死する浮浪児が大勢いるんだ。わたしは、まだ恵まれている。
「エステルは、仕事はなにをしてるんだい?」
「市場で荷運びしたり、事務所で帳簿をつけたりしてる」
 わたしの貧しさには驚かなかったけど、帳簿をつけていると言ったら二人はビックリした。
「へぇ! 字は、どうやって覚えたんだい?」
「自然に覚えたわ」
「⋯⋯帳簿のつけかたはどこで習ったの?」
「係りの人が三十分くらい教えてくれた。足し算とかけ算くらいだし」
「すごいな。オレは、字を覚えるのに二カ月かかったぜ」
「普通は、それくらいかかるわよ⋯⋯」

 愚連隊が、仕返しにくることはなかった。でも、あれから一カ月後にお婆ちゃんが死んだ。きっと思い残すことがなくなったからだ。
 ほとんどおカネがなかったので、お葬式を出せない。無一文で野垂れ死にする人は多い。そんな死体を集めて捨てるお役所がある。でも、お婆ちゃんをそんなふうにするのは、嫌だ。
 マーロウ君とローザさんが、力を貸してくれた。友だちを大勢集めて、みんなでお葬式を出してくれた。感謝してもしきれない。
 お仕事とお婆ちゃんのお世話で忙しくて、今までわたしには友だちがいなかった。お婆ちゃんが死んでしまったのは悲しかったけど、二人のおかげで大勢友だちができた。マーロウとローザ、それに新しい友だちが、よく家に顔を見せてくれた。生活にも少しだけど余裕ができた。
 嫌なこともあった。マルクス隊長が、王様に遠ざけられてしまった。平民の味方をして人殺しの貴族を懲らしめたので、命を狙われて襲われた。そいつらを返り討ちにしたら、ずる賢い貴族に陥れられたんだそうだ。みんな怒ってた。ローザは泣いてた。わたしも、すごくすごく悔しい。
 お婆ちゃんのお葬式を出して半年たったころ、どんどん綺麗になっていくローザが、最近発明された印刷機で書かれた紙を持ってきた。
「女子軍士官学校生徒募集」と書いてあった。
「エステル、受けなよ! 合格したらタダで勉強できて俸給までもらえるんだよ!」
「むっ無理だよう。よく読んでよ。五十人しか受からないんだよ。勉強する時間なんかないし、なにを勉強すればいいかもわからない⋯⋯」
 翌日、ローザがマーロウを連れてきた。
「やあ! ほら、貴族高等学院の教科書だ。こっちは王国大学の受験参考書な!」
 びっくりしてしまった。
「こ、こんな高価いもの、どうしたの?」
 まさか⋯⋯。
「心配ご無用。最近は王立印刷所で働いてるって言ったろ? 試し刷りや印刷ミスのものをもらってきたんだ」
 でも、こんなに良くしてもらったのに、落ちてみんなをガッカリさせるのが、こわい。
 ローザが、貴族高等学院の教科書をパラパラとめくりながら言った。
「エステル。このくらいの本なら一回読んだら全部暗誦できるよね?」
「えっ? う、うん。たぶんできる」
「『三十かける三十』まで暗記してるよね?」
「だって、その方が早く計算できるし⋯⋯」
「習ってもいないのに、どうして方程式や関数が使えるの?」
「どうしてって⋯⋯。その⋯⋯。できるから?」
 マーロウが、カバンからロウソクを出して机に並べた。三十本くらいある。
「仲間たちからだ。みんな応援してるぜ。でも、目を悪くすんなよ」
 こんな高価なものを⋯⋯。みんなだって毎日の生活に精いっぱいなのに!
「お、落ちるのが、こわいよ」
 マーロウが、ため息をついた。
「オレは、今までエステルほど頭の良いやつに会ったことがないね。⋯⋯いや、一人だけいるかぁ」
「ねぇ、エステル。勉強すれば、あなたなら必ず合格できるよ」
「ローザ⋯⋯。でも、試験まで三カ月しかないのに⋯⋯」
「どうしても時間がなければ、仕事を辞めりゃあいいさ。黒パンと売れ残りの野菜くらいなら毎日持ってくるぜ。印刷所は給金がいいからな」
 貴族高等学院の教科書をながめて、簡単なのでちょっと驚いてしまった。「これなら」という気はする。でも、みんなに迷惑をかけるのに、落ちたらどうしよう。そんなのイヤだよ⋯⋯。
「うぅ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
 ローザが真剣な顔をして言った。
「ねえ、エステル。聞いて。女子の士官学校は、平民の女の子に機会を与えようって、保守派貴族の反対を押し切ってレオン様がつくったものなの。もしうまくいかなかったら、レオン様は王都から追い出されるかもしれない。でも、あなたならきっと、レオン様の期待に応えられる」
 レオン様が王都からいなくなる! そんなことになったら、だれが平民を守ってくれるの? また貴族の愚連隊が、はびこるに決まってる。お父さんやお母さんみたいに殺される人が大勢でる。
 雷に撃たれたようになって、弱気が飛んでいった。
「⋯⋯受験する。お願い。必ず合格するから、手伝って」

 五週間で貴族高等学院の五年分の教科書を終えた。ためしに王国大学の入試問題を解いたら七十五点だった。高等学院の教科書だけじゃ足りないみたいだ。
 困っていたら、王国図書館で下働きをしているマーロウの友だちが、裏口からこっそり入れてくれた。図書館が閉まってから下働きの部屋で、毎日勉強させてもらった。
 入学試験は、二日間おこなわれた。初日は筆記試験と運動。二日目が面接だ。
 筆記試験は、解答を全部埋めることができた。運動は、校庭を一時間ひたすら走るというものだった。市場の荷運びの仕事を続けていたので、ずっと全力で走りきることができた。
 二日目の面接の前に、ローザたちがやってきて一番良い服を貸してくれた。わたしの服は、ボロボロだったので、嬉しかった。
 面接会場に着くと、昨日の試験の合格者がもう張り出されていた。五百人は受験していたのに、百人くらいしか残っていなかった。合格したこの百人しか面接を受けられない。面接の順番を待っていると、緊張しすぎて吐きそうになった。
「エステル・ヴァンジェ。入れ」
 面接室に入り、五人の試験官と対面した。貴族のきれいな女性もいる。頬に大きな傷のある金髪の人は、愚連隊を懲らしめる指揮をとっているのを見た。真ん中にいるのは、マルクス隊長だ!
 試験官に「仕事はなにをしているのか?」とか、「どうやって勉強したのか?」などと訊かれた。口頭試問だと考えていたので、普段の生活について質問されたのは意外だった。
 最後にマルクス隊長に訊かれた。立派な方ということは知っているし、口調は優しかった。だけど、凄みがあるというのだろうか。すごい威圧感だ。
「この国には、貴族、平民、それに奴隷がいる。出自によって職業や居住地を分けているわけだ。身分制と呼んでいるが、おまえは、この身分制についてどのように考えるか?」
 ツッ⋯⋯! 身分制は、この国の常識だ。だから、わたしの内心の意見は、非常識になってしまう。でも、落ちてしまうかもしれないけど⋯率直に答えよう。
「⋯⋯間違っていると思います」
「ほう。なぜだ?」
「優秀な人は、平民や奴隷にも大勢います。生まれでその能力が発揮できないのは、その人や社会にとっても大きな損失です」
「平民や奴隷にも、貴族に負けないほど優秀な者がいるというのか? 根拠は?」
「わたしの経験からです」
 一瞬マルクス隊長の目が笑ったように見えた。
「面接を終わる。退室しろ」

 エステルが退室すると、馬術講師をやることになっているローゼット親衛隊女性騎士団長がつぶやいた。
「ずいぶんと過激な思想の持ち主のようね⋯⋯」
 少将の階級を持つ老校長は民衆派寄りだ。
「いやいや。あれぐらい負けん気が強くないと、全教科満点、持久走一位は無理でしょう」
 非常勤講師にとレオンが引っ張ってきたジルベールも試験官にまじっていた。
「愚連隊を退治した時にいた子ですよね。血を見ても顔色も変えなかったな。へへ⋯⋯。いいねぇ、度胸がある」

 エステルは、なにも間違ったことは言っていない。ここで「身分制度は正しい」などと言ったら、出身階級を問わず試験で優秀な者を集めるという軍士官学校の存在意義を否定することになる。身分で軍内の階級や職位を決めるなら、士官学校の試験など不要だ。
 女子軍士官学校は、失脚した時期のレオンが駆け回って創立にこぎつけた。いつもレオンのやることなすこと邪魔してくる保守派貴族どもは、「あの男がまた妙なことを始めた。小娘を集めてなにができる?」とせせら笑っている。おかげで大して邪魔が入らず、設立することができた。
 試験官五人のうち、王家忠誠派のローゼット以外の四人が民衆派。軍の士官学校の試験なのに、三人が王宮親衛隊関係者だ。ここが誰の影響下にあるかは一目瞭然だ。
 前前前世で過激派だった新東嶺風は、知っていた。闘争の中で女性同志は、激しい弾圧にさらされても非転向でたたかい抜く強さがあった。地味な任務を粘り強く献身的に担っていた。それに、しばしば女性同志の方が行動力があった。
 セレンティアでもレオンの暗殺は、もうこの頃には十件くらい計画されていた。だが、実行に移し武器を持って襲ってきたのは、ルイワール公爵家のサフィナ令嬢だけだ。
 女子軍士官学校に合格したのは、本を手に入れて勉強することが可能な、それなりに余裕のある層の娘が中心だ。下級貴族や騎士階級の娘が多かった。エステルのような孤児や貧困層出身者は少ない。だが富裕層出身者でも、大抵の娘は悔しい思いを味わった経験があった。
「女のくせに」「女だから」「女らしく」「女のわりに」⋯⋯。
 家族に隠れて勉強し、親に受験を禁じられたのを振り切って士官学校に飛び込んできた少女も多かった。全寮制の女子軍士官学校が閉鎖されたら、もう帰るところはない。この学校を設立し守っているのは、伯爵ながら民衆派の領袖であるレオン・マルクス大佐だ。
 孤児のエステルを筆頭に五十人の女子士官候補生は、一人残らずゴリゴリの民衆派になった。『人間の意識がその存在を規定するのではない。人間の社会的存在がその意識を規定するのだ』。女子軍士官学校生徒たちは、このマルクスの説の見本のようだった。
 保守派貴族は、「小娘になにができるか」とあざ笑った。だが実は、そんなことは言ってられない。もともと民衆派が強い軍士官学校で、男子生徒は、一学年百五十人だ。それに五十人の女子生徒が加わる。実に三割近くも定員が増えた。その新しい女子生徒は、徹底した民衆派だ。
 軍士官学校で五年間学び、優秀な者はさらに軍大学校で四年間教育を受ける。やはり体力面では女子は劣るので、男は戦闘部隊に、女は王都の総司令部や軍務省に配属されることになる。
 軍部の全てを民衆派で占める必要はない。権力の中枢は王都にある。軍を支配下に置くには、前線の部隊ではなく王都の総司令部を固めればよいのだ。民衆派の女子軍士官学校卒業生は、大いに役に立つだろう。
 エステルたち女子生徒が、軍士官学校を卒業するのが五年後。軍大学校を出るのは九年後だ。ずいぶん気が長いようだが、クーデター事件前のレオンは、民衆を武装させて解放戦争を起こさせるのには、十年以上かかるだろうと予測していた。だが、ひとたび動きはじめた歴史の流れは、レオンの想像を超える速さで進んだ。

 朝一番で友だちが駆けてきて、女子軍士官学校に合格していたことを知らせてくれた。みんな自分のことのように大喜びだ。お菓子を持ち寄ってお祝いのパーティーを開いてくれた。
 入学手続きを終えたら、準貴族あつかいの兵長になった。希望者には俸給を前借りさせてくれる。手助けしてくれるみんなに負担をかけずにすんで良かった。支給された制服を着てみんなに見せるのは、気恥ずかしかったけど嬉しい。
 これからは、寮で暮らすことになる。外出できるのは、月に一日くらいだ。五年もみんなとほとんど会えなくなるので、さびしい。
 入寮の前日にマーロウと二人きりで、他愛のないお話しをした。この人は優しいけど、わたしを好きってわけではない。それにわたしは、汚れているし、ひどい嘘もついている。だから、お礼しか言ってはいけない。
「あのね⋯⋯。今までありがとう」
 マーロウは、ちょっと困ったような顔をしていた。
「エステルがこのまま進んでいけば、いつか一緒に仕事ができるさ⋯⋯」
「エステルは違う世界の人になった」なんて言われなくて良かった。でも、やっぱり、さびしくて泣いてしまった。本当にまた会えるだろうか?
 ローザたちに見送られて軍士官学校の門をくぐった。
 入校式では校長から、わたしが女子士官候補生の生徒隊長に任命された。ビックリした。成績と適性で判断したって言われたけど、わたしに五十人の生徒をまとめられるだろうか? 全力を尽くそう。
 ジュスティーヌ王女殿下が、来賓としていらした。まるで女神セレン様のようで、こんなに気高くて綺麗な方がこの世にいることが信じられなかった。わたしなんかとは、全然違う。
 旦那様のレオン・マルクス大佐が、王家の代表という立場から挨拶された。軍士官学校の講師もされている。貴族なんか大キライだけど、王族の方々は別だ。

「入校おめでとう。ここにくるまで大変な苦労があったと思う。それゆえに君たちの能力の高さには、一点の疑いもない。君たちは女性である。だからこそ期待している。
 なぜ君たちの多くは、家に押し込められ、会ったこともない者と結婚を強制されねばならないのか? それは家と結婚とが、男が女性を支配するための道具と化しているからだ。家制度と結婚制度が、男女間の不平等を助長し、性差別を支えてきた。君たちには、第二の奴隷制というべき女性差別に風穴を開けてもらいたい。
 元始、女性は太陽だった。しかし、今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く月になってしまった。今こそ女性は、太陽を取り戻さなければならない。その先達が、君たちなのだ。君たちの前に道はない。だが、君たちの後ろに道ができる。
 人間の半分は、女性ではないか! 女性が天の半分を支えているのだ! 王家と軍は、女性士官の育成にあらゆる助力を惜しまない。期待している」
 
 いつも「女だから」とか「女のくせに」とか言われ続けていた同期生のみんなは、目を輝かせたり、目を潤ませている。なかには嗚咽している子もいた。目の前を覆っていた霧が一瞬で晴れたような気がした。
 女子軍士官学校が開校した。
 みんなの階級は兵長なのに、わたしだけ伍長にされた。⋯⋯困ってしまう。
 わたしが任命された生徒部隊の隊長は、学級委員長とは違う。学校といっても軍組織なので、同期生からなる部隊を統制する指揮官になる。命令に従わない場合は、同級生でも軍法にもとづき処罰できる。
 騎士階級の子は「なんとしてでも合格しなさい」と猛勉強させられ、逆に貴族家の子は「貴族女学院に行きなさい」と士官学校の受験を禁止され隠れて勉強してきた。商家の子は、変わり者あつかいで勉強するとバカにされる。わたしみたいな孤児は極端だけど、貧乏な家の子も少数いた。みんな、言葉にできないような苦労をしている。そんな出身がバラバラの五十人をうまくまとめられるか心配だった。
 入校して最初に、士官学校生徒部隊の生徒隊長が持つ指揮命令権と司法権の範囲を調べた。もちろん念のためで、実際に同期生に命令することなんかないと思っていた。そう思っていたんだけど、クーデターの時に士官学校女子生徒部隊の隊長として、王宮前広場でみんなを指揮することになってしまった。
 体力では、女子は男子にかなわない。だからって男子生徒に負けっぱなしでいるわけにはいかない。運動も頑張るけど、座学で男子を圧倒しようと同期生に呼びかけた。みんな本当によく勉強した。試験問題は男子と一緒だ。いつも十位以内に女子生徒が七人か八人は入っていた。
 ⋯⋯えっと⋯。一位は、毎回わたしだった。全教科で百点をとれば、必ず一位になれる。
 二年生の終わりには、卒業までの一般科目を全て終えてしまった。軍大学校は、士官学校を卒業して総司令部に配属されないと入校できない。十六歳では、無理らしい。でも、三年も無駄にできない。推薦していただいて、王国大学の聴講生にさせてもらった。本当なら大学一年は十九歳なので、十六歳の聴講生は史上最年少だそう⋯⋯です。
 軍士官学校は、郊外にあるので王国大学まで歩くと四十分くらいかかる。体力をつけるためにいつも走って十五分くらいで着いた。
 今までは王国大学は、男子だけが毎年千人しか入学できなかった。どれだけ優秀でも女子は、大学に入ることができない。でも、レオン様のおかげで、王国大学に百人の女子枠が設けられた。入学を家族に反対された人のために、女子寮まで建てて下さった。なんて優しい立派な方だろう。
 やっぱり大学では、背が小さいのに軍服を着ている女の子は目立っていたみたいだ。女子大生のお姉さんたちが、気にかけて守ってくれた。でも、戦闘訓練を受けているから、ケンカになっても負けなかったと思うけど。

 助け合ってだれも脱落することなく、わたしたち一期生は三年になった。女子軍士官学校がつぶされず、後輩が増えて嬉しい。それに悪い貴族に陥れられていたレオン様が、復権されて少将に進級し軍士官学校の校長に就任された。
 マルクス校長の講義は、絶対に受けたい。生徒部隊長の仕事や軍事実務科目の授業もある。軍士官学校と王国大学を、毎日駆け足で行ったり来たりしていた。
 そして、クーデターが起きた。
 三年生になって一カ月半、十一月十五日の早朝、緊急呼集で全生徒が校庭に集められた。教官たちが青ざめている。王宮で戦闘があり、多数の死者がでているらしい。武器庫が開かれ生徒に槍が配られた。わたしは生徒指揮官なので、槍ではなく剣を佩く。この剣を向けるのは敵にではない。脱走者や抗命者がでたら、この剣で⋯⋯。裏切り者や臆病者に、容赦は無用だ。
 王宮や軍総司令部も混乱状態で、なにが起こっているか分からない。教官に私服の女子生徒を偵察に出すことを進言し、いれられた。できるだけ軍人らしくない容姿の女の子を選んで町娘の服を着せ、二人組で三組偵察に出した。
 偵察隊によると、深夜に反乱軍が王宮に侵入して戦闘になったけど、親衛隊が反撃して撃退したらしい。王宮前広場には千近い死体が並んでいるそうだ。そして反撃を指揮したのは、レオン・マルクス校長とジルベール教官らしい⋯⋯。きっとそうだ! そうに決まってる!
 校長のレオン様が不在なので、副校長に士官候補生部隊の指揮権がある。わたしは生徒指揮官なので、上官に進言する権利がある。
「指揮官! 王宮親衛隊にも相当な被害がでたことが予想されます。防御が薄くなった王宮を防衛するため、士官候補生部隊が王宮前広場に進出することを進言します」
 ダメ、全然ダメ。副校長先生は「命令がないと部隊は動かせない」と言って、動こうとしない。指揮命令系統が混乱状態で、命令が届かないのに! マルクス校長だったら、もう出撃している。今、王宮を守らなくてどうするの? でもダメだ。これ以上『進言』すると、指揮権を剥奪されてしまう。
 王宮が再び戦場になるかもしれないというのに、わたしたち士官候補生部隊は、校庭に座り込んでのんきに朝御飯と昼御飯を食べた。ようやく十八時すぎに、騎馬の伝令が命令を届けてきた。
『士官候補生部隊は、全員が完全武装をもって王宮前広場に進出。王宮を死守せよ』
 ようやくだ。持てるだけの糧食と野戦調理器具を荷車に積んで出発した。運ぶのは、入校してまだ一カ月しかたたず戦力になるとは思えない一年生の男女生徒たち。とっくに準備はできていたので、すぐに出られた。
 残念だけど野戦では、女子は男子に劣る。なので王宮前広場に到着した女子生徒部隊は、後方支援に徹した。特に野戦食を調理して配ったのは、朝からなにも食べてなかった親衛隊騎士や警備隊の兵士に喜ばれた。
 千人の士官候補生の三日分の食糧は、すぐに無くなってしまった。王都は、封鎖されたので食糧が入ってこない。朝になって市場が開いても、食べ物が並ぶかあやしい。でも、糧食を大量に貯蔵している所が目の前にある。
「指揮官! もう食糧がつきました。王宮内に保管されている兵糧を使用する許可を取って下さい」
 士官学校副校長の大佐にそんな権限があるはずないことは、分かりきっている。でも、副校長の腕をつかんで王宮に引っ張った。普通は下士官が指揮官の大佐にそんなことはできない。わたしが十六歳の女の子だから大目に見られることは計算済みだ。
「兵を餓えさせるわけにはいきません。王宮に許可をとりに行きましょう!」
 副校長先生は、越権行為で罰せられるのは避けたいと考えたみたいだ。
「⋯⋯エステル・ヴァンジェ伍長、王宮内の関係部署に食糧の供給を要請し、結果を報告するように。私は、ここで指揮をとる」
 副校長も、女の子だったら大目に見られると計算したのかな。いざとなったらわたしの独断だと切り捨てるつもりだろう。⋯⋯それに「王宮内の関係部署」ってどこにあるのよ?
 とりあえず王宮に向かった。戦闘服姿で階級章と生徒証を見せてニッコリしたら、門衛の親衛隊騎士さんは簡単に王宮内に入れてくれた。
「食いもん、たすかったよ」
 そう言って笑っている。あはっ、食べたんだ。わたしが指揮している姿も見てたのかなあ。未熟なのに恥ずかしい。
 門衛さんに、とりあえず総務部に行くとよいとアドバイスをもらった。まだ血の臭いがただよう薄暗い王宮の一階を、しばらくウロウロした。貴族の侍女様は、ツンツンしていて話しにくい。通りかかったメイドさんに場所をきいて、なんとかたどり着いた。
 ⋯⋯ダメ。全然お話にならない。総務部長が王族の間から出ることを許されず、責任者がいないんだって。王宮は、いざという時に籠城できるように一週間分の兵糧を蓄えている。今が「いざという時」でしょうに。仕方ない。五階の王族の間に行くことにした。
 王族の間の入り口を警備している親衛隊騎士たちは、門衛さんよりずっと殺気立っていた。制服に血の染みがついている人もいる。ううう⋯⋯。
 拳を胸にドンと当てる敬礼をした。若い女の子がこれをやると、滑稽に見える人もいるらしい。笑う人がいるけど、親衛隊騎士たちは、胡散臭そうにわたしを見てニコリともしない。なかには青白い顔で剣の柄に手をかける騎士もいるぅ!
「し、士官候補生部隊女子生徒隊隊長、エステル・ヴァンジェ伍長です。王宮を防衛する部隊に食糧を供給する任務に関して、王宮総務部長殿にお願いがあって参りましたっ」
 頼みの綱の生徒証を差し出すと警備の親衛隊騎士が受け取って、王族の間に入っていった。はあぁ⋯⋯。
 しばらくして出てきたのは、軍士官学校で非常勤講師をしているジルベール教官だった。
「おう! エステルじゃないか。上から見てたぞ。食糧の配給で、大活躍だな。警備隊にも食わしてくれたな。王都警備隊には、補給部隊は無いから助かったぜ」
 再びドンと胸に拳を当てる敬礼をして、事情を説明する。
「ジルベール教官、いっ、いえ、フォングラ中佐殿。士官学校から持ち込んだ食糧は、もう無くなってしまいました。王都が封鎖されているので、市場が開くかも不明です。王宮で貯蔵されている兵糧を使わせていただきたく、総務部長殿にお願いにあがりました」
 なぜかジルベール教官は、面白そうにわたしを見ている。
「今は、戒厳令下の戦時体制だからなぁ。王宮兵糧の供出は、王宮最高指揮官の承認が必要だ。一筆書かせるから、待ってろ。⋯⋯ああ、伍長じゃ相手にされないなぁ。よし! 将官権限でエステル・ヴァンジェを、少尉に非常時進級させる」
 士官がみんな戦死してしまった部隊で下士官が指揮をとるような場合、一時的に下士官の階級を士官に上げることがある。それが非常時進級だ。でも、それができるのは直属の将官だけ。中佐のジルベール様には、そんな権限はない。
「少尉⋯⋯。でも、それは⋯⋯」
「心配すんな。オレもさっき少将に進級した。しかも王都警備隊長官だぜ。はははは! それによ、王宮最高指揮官は、公爵レオン・マルクス大将だ」
 レオン様、偉くなった! 嬉しい。
 ジルベール少将は、軍服のポケットをゴソゴソやって階級章を引っぱり出した。正式には家名のフォングラ少将が本当だけど、お名前のジルベール少将と呼んでも失礼にはならない。
「敵前逃亡しやがって階級を剥奪した総司令部の奴らからはぎ取ったんだけどな⋯⋯。少尉の階級章は無いなぁ。あぁ、中尉の階級章があったぞ。よし! エステルは、しばらく中尉だ」
 ジルベール少将は、階級章をわたしの胸に付けようとして手を引っ込めた。
「おっと。女の子の胸に触るのは、よくねぇな。自分で付けてくれ。よーし! エステル・ヴァンジェ特任中尉には、王宮守備部隊への食糧配給の指揮をとってもらう。正式な辞令を交付するから心配すんな。ちょっと待ってなよ」
 
 王族の間に戻ったジルベールが、レオンに報告した。
「士官学校のエステルが来ましたよ。王宮の備蓄兵糧をよこせって。ちっこいのに度胸のある娘だ」
「ああ。あいつがいなかったら、兵を餓えさせていたな」
 エステル伍長が指揮した炊事部隊は、親衛隊や警備隊にも食糧を供給した。非常時の食い物のことなんか考えていなかったので、大助かりだ。もちろん王宮守備の最高指揮官であるレオンの耳にも入る。五階の王族の間からでも、エステルが駆け回って指揮しているのがよく見えた。
「王都封鎖は三日が限度⋯⋯。それ以上は、王都民が餓えてしまうか」
「士官候補生のエステルに教えられるとはねぇ。そういやレオンさんは、愚連隊退治の時に、この娘は大物になるって言ってたっけ。どうして分かったんすか?」
 レオンはニヤリと笑った。エステルの仕上がりが、予想以上だったらしい。
「ローザ秘書官、筆記しろ。『王宮最高指揮官命令 王宮内に貯蔵している糧秣の王宮外への持ち出しを許可する。糧秣管理課および関係部署は、王宮守備隊への食糧補給の指揮をとるエステル・ヴァンジェ特任中尉の求めに応じ、最大の便宜をはかること』。よーし、持ってけ!」
 レオンが押印と署名をして渡すと、カムロの少年が紙片をつかんで外で待つエステルの所に駆けていった。その後ろ姿を、ローザ・ノーブル秘書官が見送っている。
 エステルが入校してからさらに美しく、貴族令嬢のような容姿と所作に磨きがかかったローザは、エステルと同じくレオンに見出された孤児であり、エステルの恩人であり、親友でもあった。「ここで一緒に働くことになりそうね」。そう考えてローザは小さく微笑んだ。後にローザは王妃になり、エステルは侯爵夫人になる。

 戒厳令下の三日間、敵の攻撃はなく、逆に最終日に反乱分子の一斉摘発が行われた。
 突入部隊には、必ず二人以上の女子生徒が配置された。貴族令嬢さえ容赦なく拘束する予定なので、女性を縛ったり見張るのが任務だ。女子生徒にも「大逆犯に情け容赦は無用である」と厳命されている。
 戒厳令が解除されると同時にフランセワ王国は、戦時体制に移行した 。
 士官学校生徒は、主力は引き続き王宮守備隊として警戒にあたり、優秀者は司令部要員として配置された。使命感に駆られた士官学校生徒は、最前線に行きたがったが、何年も教育した将来の軍の中核を兵として消耗するわけにはいかない。
 エステルの階級が中尉だったのは、三日だけで、戒厳令が解除されると元の伍長に戻った。
 それまで若干十六歳の特任中尉としてクルクル駆け回って三百人の指揮をとり、王宮守備隊の腹を満たしてくれたエステルは、ちょっとした人気者だった。栗色の目と髪をした可愛らしい少女だ。小柄なので、まだ十五歳にもなっていないように見えた。とても軍人には見えない。ところが特任とはいえ、十六歳で中尉の仕事をこなした。普通は、二十三歳で中尉に進級できれば出世頭だ。
 士官学校の五年の課程を二年で終了し王国大学の聴講生になるほど優秀なのに、エステルには秀才特有の尊大さが全くなかった。軍務を離れると、いつもニコニコしていて人当たりが良く愛嬌がある。レオンが熊でジュスティーヌ王女が鶴だとすると、エステルは雀やリスを連想させた。

 戒厳令が解除されてホッとする間もなく、エステルに招集命令書が届いた。「二十日午前七時に総司令官執務室に出頭せよ」。
 もともと総司令部は別にあったのだが、全軍を指揮するには手狭なうえに敵に急襲されたらアッという間に制圧されそうな造りだったので、レオンは王宮の一階大広間を突貫工事で仕切って総司令部に変えてしまった。ジュスティーヌと結婚式をひらいた場所だ。
 一介の伍長と国軍の総司令官が面会するというのは、異例だ。校長のレオン・マルクス少将とは立場が違う。エステルが副校長に招集命令書を持って行くと、なにも言わず当日の任務を解除してくれた。
 遅刻するわけにいかないので、かなり早く王宮に着いた。顔見知りの王宮門衛さんだけど、招集命令書をじっくりと改められた。総司令官が、こんな女の子に一体なんの用だと驚いたらしい。
 総司令官執務室は、入り口のすぐ近くにあった。普通は地位が高い者は奥の方にいるものだが、出入りに便利だという理由で、門衛の詰め所のすぐ近くを執務室に改造した。総司令官がそんな場所に陣取っているものだから、作戦会議室や司令部付き将校の勤務室も入り口あたりにかたまっている。
 民衆派唯一の高位貴族だったレオンは、それまでも殺人的に忙しかった。軍士官学校校長に納まっても、意味のない行事のたぐいは副校長に任せて、レオンは生徒たちの答案や論文を読むことを好んだ。
 エステルが入校したこの二年ちょっとのあいだに、二人が対面して話したことはない。しかし、群を抜いて優れているエステルの答案や論文を、レオンは、よく読んでいた。
 総司令官執務室のすぐ隣で、軍の伝令兵と特務機関員となったカムロたちが待機している。三十分くらい待って、七時になる一分前に急造のベニヤ板みたいな執務室の扉をノックした。
「⋯⋯入れ」
 殺風景な十二畳ほどの部屋の奥に大きな机が据えられ、レオンが一人で書きものをしていた。剣を二本も立てかけた大机に書類が積み上げられ、レオンの向こうには計画書や地図を保管する資料室があるようだ。
 書類仕事をしていてもレオンの姿は、ギラギラしていてあの愚連隊ブラック・デュークをせん滅し、殺された家族の仇をとってくれた時と変わらないように見えた。エステルは、胸をドンする敬礼をした。脚がふるえる。
「軍士官学校女子生徒部隊隊長、エステル・ヴァンジェ伍長。まいりましたっ」
 レオンは、手を止めエステルの顔をながめ、当たり前のように言った。
「ヴァンジェ伍長は、本日をもって士官学校を卒業とする。少尉として任官し、総司令部付き将校となる。今後は総司令官の秘書の任務についてもらう。すぐ辞令を書くから受け取れ。寮から私物を持って、指定された王宮内の個室に搬入後、ただちに仕事にかかれ」
 エステルは、めまいがした。伍長が大将に反論するなど普通はあり得ない。でも、レオン様は民衆派だ。
「おっ、お言葉ですが。わたくしは、まだ勉強が足りておりません。少尉、まして総司令官閣下の秘書など、力不足です」
 普通の将校なら、怒鳴りつけて命令に従わせて終わりだ。ところがレオンは譲歩した。
「⋯⋯士官学校に未練があるのか? お前には、もう学ぶことはないと思うぞ。まぁ、いい。学籍は残しておく。しかし⋯⋯士官学校を卒業しないと士官にできねえな。とりあえず一階級進級して軍曹だ。オレは忙しい。早く荷物を取ってきて仕事を手伝え」
 否も応もない。レオンもエステルのような逸材は、軍大学校まで進ませてじっくり育てたかった。フランセワ王国の人口は、約千五百万人だ。なのに高等教育機関は王国大学と軍大学校しかなく、学生は全部で五千人しかいない。ちなみに現代日本の学生の数は、約三百万人だ。フランセワ王国に限らず封建社会のセレンティアでは、知識層が致命的に不足していた。だが、もう時間がない。
「あと二十五日で開戦だ。そのつもりでいろ」

 エステルは、思い切り働いた。自分にミスがあったら兵隊が死ぬかもしれない。真剣だ。
 総司令部も人手不足だった。有能な働き手はいくらでも欲しい。エステルの働きを見て、レオンは炊事部隊から優秀な女子生徒を二十人ばかり引き抜いて総司令部の細々した雑務を任せた。総司令部要員は、みんなオーバーワークなので、保守派に近い将校からさえ反対の声は出なかった。
 男ばかりの軍に若い女の子を混ぜたら問題が起こるのではないかという懸念は杞憂に終わった。王宮メイドを犯そうとして殺したプイーレ中尉をレオンがその場でぶった斬った事件が知れ渡っていたからだろう。
 レオンの秘書という立場でエステルは、参謀将校を集めた作戦会議に出席した。参謀たちが驚いたことにレオンは、よく後ろを向いて「これはどう思う?」と小柄で可愛らしい若い秘書に意見を求める。少女は、しばしば「うっ」となるような鋭い意見を述べた。
 レオンと少女は、意見が食い違うと居並ぶ参謀将校たちの前で論争をはじめた。エステルは、自分になにが求められているのか理解していた。総司令官に対して全く遠慮がない。少女の方に理があると判断すると、レオンは自分の意見を引っ込めてエステルの対案を取り入れることもしばしばだった。総司令官付き秘書という役職のエステルだが、実態はレオン・マルクス総司令官の首席参謀だった。
 軍事に関してほとんど知識のない若い国王は、戦争問題ではレオンに絶大な信頼を寄せている。レオンは、貴族の名誉職化していた無能将官を三十人も王宮に呼びつけ、国王の前で勅命として即時退役を言い渡し隠居させた。「この者たちは無能です。退役を申し渡して下さい」とレオンが上奏してリストを渡せば、即日その通りになる。悪徳ブラック企業のようだが、クビになった将官たちは本当に無能だったのだから仕方がない。戦場に出なくてすんで、内心ホッとした者も多かった。
 レオンは、軍事に関しては容赦も遠慮も一切しなかった。大勢の兵の命がかかっているのだ。ほとんどいなかったが、抗議してくる者には「抗命罪と不服従罪で拘束する」と恫喝して黙らせた。軍では、両方とも死刑もあり得る重罪だ。レオンだったらやりかねない。
 レオン・マルクス総司令官による軍部の粛清は、将校団を震撼させた。有能ならば中佐くらいでも将官に進級させ正規軍団の指揮をとらせた。だが、能力不足を露呈すると、どんな高位貴族であろうと、それどころか民衆派であっても容赦なく解任する。
 開戦直前に解任されたら自決ものの大恥だ。経験はあるが知識のない年長の将官と、知識はあるが経験不足の若手佐官は、お互い協力し合って不足する部分を補うようになった。レオンも同じだった。思考が大ざっぱで飛躍のある自分が誤った判断を下さないように、エステル軍曹を目付役につけている。
 実際にエステルは、天才だった。日本で例えるならば、十四歳で東大医学部に首席で合格して、三カ月後には高等文官試験と司法試験と外交官試験にも合格してしまうというレベルだ。
 上官になるレオン=新東嶺風は、東大をスベって東北の田舎国立大学に引っかかった程度だから、秘書の方が頭がよい。まぁ、高校生の時に空港反対闘争にハマって受験勉強を放棄したのだから、頑張った方だろう。ところが本物の天才であるエステルは、レオンを天才だと信じて疑わず、心から尊敬している。
 エステルは、秘書であるとともにレオンの身の回りの世話係でもあった。お貴族様の将官なのに、レオンはまったく手が掛からなかった。ひとことで言えば粗衣粗食だ。
 食事は、地下のメイド部屋からもらってきた黒パンと干し肉を、仕事しながら食べる。飲み物は、足元の土瓶に入れた水を飲むだけだ。
 服装にもまるでこだわらない。軍服に勲章を付けても「邪魔だ」と言い、むしってそこらに投げ捨てたりする。エステルや毎日様子を見にくるジュスティーヌ王女の侍女がどうにか格好を整えた。
 なかなか風呂にも入ろうとしなかった。国王の前で臭かったりしたらまずいので、面倒くさがるのをなだめてエステルと侍女たちが身体を拭いた。さすがに美少女秘書と美人侍女に前を拭かせるのは宜しくないという程度のデリカシーはあるらしく、「自分で拭く」と言って手荒く拭いてから、キャトウ侍女に手ぬぐいを放って「ギャッ!」と悲鳴を上げさせたりしていた。念のために書くと、王族が侍女に全身を拭かせるのは当たり前で、ジュスティーヌ王女もそうしている。悲鳴を上げるキャトウ侍女の方が、王宮では非常識ということになる。
 眠らなくても平気な異常体質らしく、寝ているところを見たことがない。エステルもレオンに合わせて仕事をしたが、一週間で気絶して倒れてしまった。何時間か昏睡して目を覚ますと、レオンから「一日に最低五時間は眠ること」と命令された。
 王宮守備部隊の食糧供給を指揮して駆け回っていた少女が、レオン・マルクス総司令官の秘書に出世した。いつもレオンの後についていて、必要な書類を指示される前に既に取り出していたりする。はたから見ても有能だ。一週間もすると総司令部でエステルを知らない者はいなくなった。
 ところが数百人の総司令部要員に顔を見られたために、エステルが心底おそれていたことが起きてしまった。ずっと、女子軍士官学校に入校した時から、エステルが、ずっと恐怖していたことだ。

 セレンティアでは深夜となる九時ごろ、まだエステルは奥の資料室で書類をまとめていた。なのでノックの音に気がつかなかった。
「ジグリー少佐です。入室いたします」
「おぅ。入れ。どうした?」
 王宮親衛隊第四中隊でレオンの元部下だった男だ。親衛隊の騎士たちは、クーデター鎮圧の功によって一階級か二階級進級し、少佐や中佐になって総司令部の参謀将校や赤軍兵団指揮官に任命されている。レオンは、第四中隊の元部下には口調が親しげになった。
 ジグリー少佐は、入室するや執務室を見まわした。エステルが見当たらないことに、なぜかホッとしたようだ。
「エステルという娘について、お耳に入れたいことがあります」
 書類に向かっていたレオンの手が止まった。
「娘⋯⋯? エステル軍曹のことか。なんだ?」
「えぇ⋯⋯。その⋯⋯。あの娘は、街に立っていかがわしい商売をしておりました。そのような者をお側に置くことは軍の名誉を汚す⋯⋯」
 レオンが顔を上げた。
「ほう。根拠は? なぜ、そんなことを知っている?」
 ジグリー少佐は、少々動揺した。
「いえ、その⋯⋯。何度か客として買いましたもので⋯⋯」
 レオンは、「売春は軍の名誉を汚すけど、買春は清らかなのか?」と言ってやりたかったが、グッとこらえた。
「どのぐらい前のことだ?」
「四年ほど前かと記憶します」
 エステルは、今十六歳だ。だが、この世界には十二歳の娼婦などいくらでもいる。
「数年前にエステル軍曹によく似た娼婦を買った。それが根拠か?」
「いえ、それが⋯⋯。先日夜食をとりに居酒屋に入ったのですが、たまたま隣の席にいた男が、「淫売だった姪が士官学校に入った」とクダを巻いておりました。少し酒を与えたところ、名前は『エステル』だと述べたのです」
 レオンは、小さくため息をついた。どうやってごまかしてエステルを守るか考えている。
「エステル・ヴァンジェ軍曹が、オレが校長を務めていた軍士官学校の生徒であることは知っているな? 士官学校の入校に際しては厳重な身辺調査が行われる。オレの秘書につけた際にも、最深度調査を行ったばかりだ」
 嘘が嫌いなレオンは、身辺調査の結果がどんな内容だったかは、なにも言わない。
「お前には、エステル軍曹を告発する権利がある。だが、保安部の調査資料という公文書がある。勝ち目は無いぞ⋯⋯。本当にその娼婦は、エステル軍曹だったのか? 髪や目の色が似ているだけじゃないのか? エステルの叔父とやらを、証言台に立たせられるのか?」
 ジグリー少佐は、動揺しつつも粘った。
「⋯⋯その、娼婦にはヘソの横にホクロがありました。それを見れば⋯⋯」
 レオンがニヤニヤと笑った。あとひと押しだ。
「エステル軍曹に「ヘソを見せろ」とでも命令すんのかよ? とんだことだな。⋯⋯それにな、フフフ⋯⋯エステルのヘソにホクロなんか無いぞ。任務に支障がでる。もうそれくらいにしとけ」
 レオンの顔をポカンと見たジグリー少佐だが、すぐに総司令官の『愛人』にとんでもないことを言ったことに気づき青くなった。本当はレオンは、エステルの裸に興味などない。もちろん身体の関係なんぞない。ヘソなんか見たこともない。
 ジグリー少佐は、我に返り姿勢を正すと胸ドンの敬礼をした。
「もっ、申し訳ありません! 私の思い違いでした。今後このような間違いを犯さぬよう、慎重に調査したうえで進言させていただくよう肝に銘じますっ!」
「いや、気がついたことがあったら、今まで通り進言してくれ。だが、エステルの妙な噂は、流すなよ。オレの秘書で、ヘヘヘ⋯『世話係』なんだからな。⋯⋯それより戦争が終わったら、第四中隊で戦勝祝いの宴会をしたいもんだな」
 王家守護が任務の親衛隊騎士は、口が堅い。こいつはもう大丈夫だ。
 これほどレオンがエステルを引き立てていたら、いずれレオンの愛人だとかいう噂も立つだろう。遅かれ早かれだ。レオンが引き立てているのは、エステルの才能なのだが。

 戦勝祝いの幹事を引き受けた遊び人のジグリー少佐がレオンの執務室から退出すると、入れかわりに奥の資料室からエステルが出てきた。脚がふるえ顔面蒼白だ。フラフラとレオンの横を通り、大机を挟んで相対した。しばらく黙って床を見ていたが、顔を上げた。
「あっ、あの人の言ったことは、本当です。わたしは、売春をしていました」
 そう言うと脚の力が抜け、その場にへたり込んでしまった。息が荒い。過呼吸だ。
「わっわたしは、汚い、汚いんです。身体が汚れて、心も醜い。みっ、みんなを裏切りました。マーロウもローザもレオン様も⋯⋯。だましたんです。どっ、どうか、わたしを裁いてください」
 レオンは、エステルが街娼をしていた過去など、とうに把握していた。エステルの保護・教育係だったマーロウとローザの二人も、知っている。
 売春婦だったなんて不利な過去を隠すことは、レオンには当たり前に思えた。なので、エステルがこれほど強い罪悪感にとらわれていたことに少々驚かされた。そして、まるでデリカシーがなかった。
「⋯⋯戦争が落ち着いたら、ヘソのホクロをとっておけよ」
 エステルは、まだなにかしゃべろうとした。だが、息が詰まり喉を押さえてしばらく悶え苦しみ、とうとう気絶してしまった。
 レオンは、エステルの才能を高く買っていた。だが、総司令官執務室で二度も卒倒したのがバレたら、秘書を解任せざる得ない。過呼吸で死んだ者はいない。外に出さず、資料室にエステルを運んで床に寝かせておくことにした。幸い深夜だ。誰にも見つからないだろう。レオンは、仕事を再開した。

───────────────

 お父さんとお母さん、それにお兄ちゃんと弟が殺されたのは、わたしの十二歳の誕生日だった。腰を痛めて歩くのが不自由だったお婆ちゃんに店番をお願いして、家族でお食事に行く途中だった。
「あっ! あの屋台のお菓子、すごくおいしいんだ。買ってくる」
「エステル。転ぶわよ。気をつけなさい」
 屋台のおじさんとは顔なじみだ。
「このお菓子、五個ちょうだい」
「あいよ。嬢ちゃん、お出かけかい?」
「うん! みんなでねぇ⋯⋯」
 その時、お母さんの悲鳴が響いた。驚いて振り返ると、お父さんとお母さんが真っ赤になって倒れていた。血の滴った剣を持ってるやつらがいる。愚連隊だ! 愚連隊がやったんだ!
「ヘヘヘ⋯⋯。ガキを逃がそうとしやがった。先に殺しちまったぜ」
「親の前でガキをなぶり殺すのが面白いのにな」
「ははは⋯⋯。たかが下民だ。早く殺せ」
 ジェイ君とケイちゃんが捕まってる。
「へへ、苦しむところをもっと見たかったぜ」
 愚連隊が大きな剣を叩きつけると、ジェイ君の首がもげた。ケイちゃんは、思い切り地面に叩きつけられて動かなくなった。上から剣を突かれ、えぐられている。
「ハハハハ! くたばったな。おい、川に捨てるぞ」
「待てよ。女のガキがいねえぞ」
「知るか。分かりゃしねえよ。へっ!」
 わたしは、家族のところに駆けて行こうとした。行こうとしたんだ!
「おかぁ⋯⋯ひっ!」
 大きな手が肩をつかんだ。振り返ると屋台のおじさんだ。
「嬢ちゃん、はやく逃げなっ。母ちゃんたちは、もう無理だ。はやくっ!」
 ⋯⋯わたしは家族を捨てて逃げた。臆病で卑怯だからだ。
 お家にたどり着くと、お店の前でお婆ちゃんが放り出されて尻餅をついていた。知らない人たちが、お家とお店から荷物を運び出している。近所のおばさんが、棒立ちになっているわたしに気づいて教えてくれた。
「あいつら愚連隊の手先の運送屋だよ。ヴァンジェさんはどうしたんだい?」
 家族は、みんな殺されてしまった。ここにいたら、お婆ちゃんも危ない。お婆ちゃんに肩を貸して、必死で家の前から逃げた。

 王都パシテは、浮浪児でいっぱいだ。文無しのわたしとお婆ちゃんが入りこむ余地なんて、ほとんどない。たどり着いたのは、川沿いスラムの橋の下だった。スラムの中でも一番底辺の場所だ。
 パシテ川は、毒の川だ。いつでも汚物や腐った物が浮いている。臭いもひどい。死体だってよく流れてくる。こんな川に落ちたら病気になり、死んでしまうこともある。決壊した時、スラムの人たちは逃げることができる。でも、橋の下のわたしたちは、毒水にのまれてしまう。
 わたしとお婆ちゃんが橋の下にたどり着くと、そこに住みついている人たちは黙って場所を開けてくれた。大怪我をして働けなくなった人、体が腐る伝染病にかかって棄てられた人、目が見えなくなった人、四歳くらいの骸骨のような孤児、頭が変になってしまった人。そんな世間から見捨てられた人たちが寄り集まって、死ぬのを待っていた。
 お婆ちゃんは、殺された家族とずっとお話しするようになった。わたしのことが分からなくなったみたいだった。腰が悪かったのにひどくぶたれたせいで、自分では歩けなくなってしまった。
 夜が明けると、お婆ちゃんを置いて食べ物を探しに出かけた。野菜屑でも落ちていないかと探したけれど、もうとっくに拾われてしまっていた。ゴミ箱をあさろうとしたけど、グループの縄張りが決まってるって浮浪児たちに追い払われてしまった。
 なにも見つからなかった。お家がないと井戸も使わせてもらえない。住んでいたお家やお店のそばの井戸なら使わせてくれるだろうけど、愚連隊に見つかったらきっと殺されてしまう。しかたなく道端の泥水をすすった。
 半日ウロウロして夕方になった。なんにもならなかった。
 わたしに売ることができるものは、ひとつしかない。

 盛り場の隅にある通りに行った。少し前にお母さんと通りかかったことがあった。昼だったのに、女の人が何人も道端に立っていた。お母さんは、「見ちゃいけません」と言ってわたしの目をふさぎ、足早にその場所から離れた。
 夕方なので、その場所に女の人が大勢立っていた。こわかったので、女の人たちから三十メートルくらい離れたところに立つことにした。 
 すごく恥ずかしかった。だからずっと下を向いていた。男の人が近くを通るたびに、体がビクッとなって後ずさりした。そんなことをしているうちに、気がついたらすっかり夜になっていた。わたしは盛り場から逃げ出した。途中、拾ったお皿に道端の泥水を入れて橋の下に帰った。お婆ちゃんは、まだ家族とお話しをしていた。
 翌朝、起きると大怪我をして傷にウジ虫が涌いていた人が、そばで野垂れ死んでいた。すぐに臭くなるので、何人かで毒川に投げ込んで捨てた。ウジ虫を拾って食べている人がいたけど、わたしには無理だった。
 ずっと食べ物を探して歩き回ったけど、あきれるほどなんにも落ちていなかった。三日も食べていないので、フラフラした。なんとかしないとお婆ちゃんが死んでしまう。まだ明るいけど、盛り場に立つことにした。
 もう、恥ずかしがってなんかいられない。女の人たちから十メートルくらい離れた所に立った。女の人たちは、いじわるな人もいれば親切な人もいた。
 夕方になっても、男の人は通り過ぎるだけで、だれも、わたしを買ってくれる人はいなかった。
「新顔だね。あー。あんた、昨日も立ってただろ。ダメだよ。そんなんじゃ、お客はつかないよ」
 胸の開いた黄色い服のお姉さんが話しかけてきた。荒んだ感じはしたけど、本当は親切な人だった。病気の家族を養ってるって言ってた。
「いいかい。あたしたちは身体を売ってるんだよ。肌を見せなくっちゃ」
 そう言ってわたしの上着のボタンを四つくらいはずした。
「下を向いてちゃダメだよ。顔を見せて。お客が見にきたら、笑って誘うんだよ。誰だって愛想のいい店に入るだろ?」
 死にたいほど恥ずかしかったけど、教えてもらったとおりにした。たいていの男の人は、わたしやお姉さんたちに無関心だった。なかには眉をひそめ顔をそむけて通り過ぎる人もいた。
 顔や体をながめまわすのが、お客さんだった。そんなふうに見られるのは初めてだった。でも、お客さんをとらないと、餓死してしまう。教わったとおりに、笑い顔をつくって見せた。きっと顔がこわばっていたんだと思う。お客さんは、他のお姉さんの方へ行ってしまった。
 何十人もお客さんが通って、そのたびに笑い顔をつくった。だけど誰もわたしを買ってくれなかった。もう暗くなってきた。わたしは必死だった。
 通りかかったお客さんが、わたしの顔を見て、ボタンを開いた胸元を見て、少し迷ってから行ってしまいそうになった。
「おねっ⋯⋯お願いです。わたしを、買ってくださいっ」
 お客さんは、ちょっと考えてからわたしの目の前に指を三本つきだした。
「これでいいか?」
 意味が分からなかったけど、わたしは何度もうなずいた。男の人は、歩き出した。
「どうしたんだ? 来いよ」
 おなかが空いてフラフラした。我慢してついて行くと、三分くらい離れた場所に掘っ建て小屋があった。お客さんが番人におカネを払って、いっしょに中に入った。薄暗くてすえた嫌な臭いがした。シミだらけのベッドがあって、そこでわたしは裸にされた。
 すごく痛くて、すごくすごく気持ちが悪かった。笑ってないといけないのに、少し泣いてしまった。
 血が出ているのを見てお客さんは、驚いたようだった。笑いながら四千ニーゼくれた。お客さんが出てってからも、なんだか寒気がしてしばらくベッドの上でふるえていた。おカネを握って外に出ると、もう真っ暗だった。盛り場のお店でお水と黒パンを買って、橋の下のお婆ちゃんのところに帰った。お婆ちゃんにしがみついて泣きながら眠ってしまった。
 つぎの日は、気持ちが悪くてなかなか起きられなかった。お婆ちゃんが家族のみんなと話す言葉を聞きながら、寝たり起きたりしていた。でも、夕方には盛り場に行った。
 指三本は、三千ニーゼという意味だそうだ。⋯⋯わたしが初めてで血が出たので、四千ニーゼくれたみたいだ。お姉さんたちは、「初物だったら、一万ニーゼはとらないとねぇ」と言って笑った。でも、そんなこと、わたしには分からない。
 それからわたしは、毎日盛り場に立って身体を売った。一日立っても売れない日があったし、お客さんが二人つく日もあった。まだ身体が小さいので、二人もお客さんをとると痛くなって苦しかった。赤ちゃんができたらどうしようとお姉さんに相談したら、生理というのがくるまでは妊娠しないと教えてくれた。
 新入りは目こぼししてもらえるけど、毎日立っているとヤクザに場所代を払わなければいけなかった。一日千ニーゼで、払わないとピンク色のランプがついたお客さんのくる場所から追い出されてしまう。何日もお客さんがとれなくておカネが払えず、殴られるお姉さんもいた。
 ヤクザなんかよりこわいのが警備隊だった。突然やってきて取り囲み、警棒でみんなを脅した。カバンや袋の中身を地面にぶちまけて、おカネを取り上げた。服を脱がされポケットも調べられた。なかにはどこかに連れて行かれて犯されたお姉さんもいた。
 おカネを持っていないと大勢の人が観ている中で数珠繋ぎにされ、地区警備隊の牢屋に入れられてしまう。一日で出てくるお姉さんもいれば、一カ月も閉じこめられたお姉さんもいた。なんでこんな差がつくのか、誰にも分からなかった。
 何度も何度も警棒でぶたれて気絶してしまったお姉さんがいた。運ぶのが面倒だったんだと思う。お姉さんを置いて警備隊はどこかに行ってくれた。盛り場にお店や屋台を立てている人は、お姉さんたちに同情していた。好きで売春なんかしてる人なんて一人もいない。みんな事情を抱えていることを知っていたからだ。気の毒そうに見ていた屋台のお兄さんが、お姉さんを抱き起こしてくれた。その時、こう言うのが聞こえた。
「もう、こんな商売やめなよ⋯⋯」
 でも! でもっ! だったら、どうやって生きていけばいいのっ!
 わたしも逃げ遅れて、警備隊に捕まってしまったことがある。蹴飛ばされて転び、背中を警棒でぶたれた。ぶちながら、「きたない」とか「にんげんのくず」とか「はじしらず」とか叫んでた。すごくこわかった。ポケットの奥に隠していた五千ニーゼを出して、ひざまづいて差し出して、「ゆるしてください」って泣きながらたのんだ。おカネをむしり取って警備隊は、どこかに行ってくれた。背中が青く腫れ上がり、何日も痛かった。でも、おカネを取られてしまったので、売春は休めなかった。
 警備隊よりこわいのは、お客さんだった。あの黄色い服のお姉さんが、お客さんをとってどこかに行くのを見かけた。数日後、お姉さんが首を絞められて殺されたって聞いた。やってきた警備隊は、「恥知らずな淫売は、不潔だから、死んだほうが街がきれいになる」って言ってた。犯人を捕まえる気なんて全然なかった。
 黄色い服のお姉さんは、わたしに親切にしてくれた。それに病気の弟たちを養うために売春してたって言ってた。お姉さんが死んだから、きっと弟たちも餓死してしまっただろう。わたしたちは不潔だから、死んだほうがいいんだろうか。
 わたしだって売春の小屋に入ったとたん、お客さんにぶたれたことがあった。床に倒れたら、お腹を蹴られた。殺されるかもしれないと思って、這いつくばってふるえていた。お客さんは、わたしの頭や背中を笑いながら踏んづけた。抵抗しないで泣いていたら、しばらくしておカネを投げて出て行ってくれた。
 お客さんに、耳飾りごと耳たぶを引きちぎられたお姉さんもいる。血が出るくらい乱暴にされることも多い。知らない男の人と密室に入るのは、すごくこわかった。
 親切なお姉さんにこぼすと、少し考えて古着屋さんに連れて行ってくれた。
「アンタの格好は、いいところの嬢ちゃんがお出かけしてるみたいだよ。それじゃあねぇ。淫売のコツはね、たくさんお客をとって、いいなじみをつくるのさ」
 紅色で胸の開いたワンピースを持ってきてくれた。
「ほら。着てごらん」
 着替えるとお姉さんは、満足そうにうなずいている。スカートの丈が短く、なんだかすごく下品で、『売春婦』という感じがする服だ。
「あの⋯⋯。この服は、ちょっと⋯⋯」
「まだ嬢ちゃん気分が抜けないのかい。いいかい? あたしたちは、身体を売ってるんだよ。この服はね、看板なんだ」
 そうだ。わたしは売春婦なんだ。売春をしてるって一目で分かる服を着ないとダメだ。売春婦の制服を着て盛り場に立ち、お客さんを誘わないといけないんだ。
 わたしは、靴を売っておカネをつくり、この服を買った。
 紅色の売春婦の服は、たしかに効果があった。薄暗い街頭でピンク色のランプに照らされ、胸の開いた赤い服を着て娼婦の笑いでお客さんを誘うと、今までよりたくさんお客さんがとれた。いい場所をもらうために、ただでヤクザの相手もした。わたしは、どんどん汚くて卑しくなった。
 どんなに気持ちが悪くても、お客さんの求めることをして娼婦の笑いを浮かべていれば、お客さんは満足して優しくしてくれる。気持ち悪い物を口の中に出された時は、えずいて吐き出しそうになる。でも、必死に我慢して飲みこむ。そうしてお客さんを上目づかいに見て笑うと、お客さんも満足そうに笑って千ニーゼ余計におカネをくれることもあった。でも、お客さんが小屋から出て行くのを待って、口の中に指を差し込んで吐いた。涙がぽろぽろ出た。
 他にもたくさん汚らしいことをしたので、なじみのお客さんができた。なかには親衛隊の騎士様までいた。安くて手軽だって笑ってた。お客さんがとれない日は、ほとんどなくなった。おかげで、少しはお客さんを選ぶことができるようになった。いつも死にたいと思っているのに、ぶたれたり殺されるのがこわいなんて、自分でもおかしいと思う。
 少しずつおカネを貯めて、毒川が増水する秋がくる前に、スラムの橋の下から物置小屋に引っ越すことができた。長雨をしのいでも、やがて冬が来る。引っ越しができなかったら、お婆ちゃんとわたしは、野垂れ死にしていただろう。
 お婆ちゃんは、なんだか小さくなった。あの日からずっと夢の中で家族とお話をしている。お仕事が忙しいお父さんやお母さんに代わってかわいがってくれていたのに、もうわたしのことは分からなくなってしまった。
 わたしを買った人は、五百人を超えると思う。気持ち悪い行為にだんだん慣れてしまい、気持ち悪いと感じられなくなっていく自分が、気味悪くておそろしかった。
 お婆ちゃんが家族のところに行ってしまったら、わたしもついて行こうと決めていた。ケモノみたいになったわたしを見て、お父さんは怒るだろうか? お母さんは泣くだろうか?
 ⋯⋯本当は、本当は、早くお婆ちゃんが死んでくれないかなんて、よく考えた。売春なんかしているから、心まで人間ではなくなったのかもしれない。
 わたしが盛り場に立つようになって一年くらいたった頃だった。その日も夕方から紅色の売春婦の制服を着て、物色にくるお客さんにいやらしい娼婦の笑いを返していた。
 お客さんか通行人か、簡単に分かる。その人は通行人だった。わたしなんかには全然関心を持たず、通りすぎていった。でも、通りすぎてから、ビクッとなって振り返った。足早に戻って来ると、わたしの顔を見て驚いている。
「⋯⋯エステル? エステルじゃないか! なにをしているんだっ!」
 その人は、叔父さんだった。身内にこんな姿を見られたのが恥ずかしくて、わたしは下を向いて泣いてしまった。叔父さんは、わたしの手首をつかむと盛り場から引っ張っていった。
 五分も歩けば盛り場から出る。通りがかった人たちが、ジロジロと見ていた。うす暗くなっていたけど、紅色の売春婦の服は、ものすごく目立つ。こんな服を着ている女がどんな商売をしているか、子供でも分かる。
「おっ、叔父さん。着替えさせて。⋯⋯恥ずかしい」
 板塀の裏に回って、家族が殺された日に着ていた服に着替えた。あれから一年以上たったのに、服は小さくならず、逆に大きくなったような気がする。栄養不良のせいで、身体の成長が止まったんだろう。
「ついてこい」と言うと叔父さんは、怒ったみたいにずんずん歩いていった。わたしは、小走りになって追いかけた。十分ぐらい歩くと青果市場に着いた。門番が立っている。浮浪児が入ろうとすると、棒でぶたれて追い返されてしまう。でも今日は叔父さんの後について行ったので、青果市場に入れてもらうことができた。
 門から少し歩くと事務所の小屋があった。叔父さんが入って、事務の人に声をかけている。わたしも後について入った。
「主任はいないか?」
 背の低い男の人が立ち上がった。
「⋯⋯なんだ。珍しいな?」
 なんだか叔父さんを警戒しているみたいだ。
「おまえ、市場で荷運びを使ってたよな。この子、どうだ?」
 そう言って叔父さんは、わたしの背中を押した。主任さんは、わたしをジロジロ見た。
「おっ、お願いしますっ! いっしょうけんめい働きますっ!」
 もう売春しなくてすむなら、なんだってする。やれといわれれば靴だってなめるし、毒川に飛びこむことだってできる。
「間に合ってるんだが⋯⋯。ずいぶん小さいな。荷運びが務まるか?」
「大丈夫ですっ。もう十三歳です。がんばりますからっ。いっしょうけんめい働きますからっ!」
 叔父さんが口添えをしてくれた。
「なあ、たのむよ。落ち着く前はいっしょにヤンチャした仲じゃないかよ」
 しばらく主任さんは、わたしと叔父さんを見比べていた。「ちっ」と小さく舌打ちした。
「仕事は、朝四時から夕方六時までだ。市場で野菜を運ぶ。日当は千ニーゼだ。雨の日は仕事はない。それでいいなら、明日から来い」
 降って湧いたような幸運! 天に上るみたいだ。
「あっ、ありがとうございますっ。わたし、いっしょうけんめい働きますっ!」

 事務所から出ると、叔父さんはどんどん行ってしまった。ついて行こうとすると、手をあげてパッパッと払うしぐさをした。ついてくるなっていうことだ。
 ⋯⋯それはそうだ。売春婦なんかと歩いているのを誰かに見られたら、叔父さんまで汚いと思われてしまう。叔父さんの後ろ姿が門の向こうに消えるまで、何度も何度もおじぎをした。それから二度と叔父さんとは会っていない。
 孤児がちゃんとしたお仕事をもらえるなんて、奇跡みたいだ。翌日から市場で荷運びの仕事をした。届いた野菜を競り場に運んだり、落札された野菜を八百屋さんの荷車に運んだりする。手にマメができ、マメがつぶれて手のひらが血だらけになった。すごく痛かったけど、売春なんかよりずっとマシだ。もう売春婦に戻りたくない。明け方から暗くなるまで必死で働いた。
 日当は、一日千ニーゼだった。売春すれば、ヤクザや警備隊にとられてしまっても二千ニーゼくらいは残る。収入が半分になってしまったら、やっていけるか心配だった。でも、青果市場には野菜屑がいっぱい落ちていた。それを拾って食べれば、なんとかやっていけた。
 でも、長雨が続くとお仕事がないので困ってしまった。一週間も雨が続いた時は、お腹が空いて我慢できず五日目に市場に行った。
 仕事なんかないことを知っているのに、門番の人はわたしを見逃して入れてくれた。それはわたしが、よごれた人間だからだ。
 売春婦だった時は、いやらしい笑いでお客さんを誘った。今は、『一生懸命働いている明るい健気な女の子』を演じて、市場の人たちにニコニコと愛嬌を振りまいて媚びた。誰かクビになるとしたら、力の無いわたしが最初だって分かっていた。もし市場の偉い人に身体を差し出せと命じられたら、いわれたとおりにしただろう。だって、ヤクザにはその通りにした。
 雨の中、だれもいない市場を歩き回り、隅のほうに落ちていた野菜屑を拾った。二日ぶりになにか食べられると思うと嬉しかった。「おつかれさまでぇす」と、いつも媚びている門番の人に『明るい健気な女の子の笑い』を投げ、びしょぬれになって物置小屋に帰った。
 長雨の時期が終わると、やがて冬になった。お布団なんてない。寒かった。このままでは、お婆ちゃんもわたしも凍死する。だからわたしは、盗みをはたらいた。
 倉庫の隅に野菜を入れる大きな麻袋が積んであった。麻袋の中にパンパンになるまで他の袋を詰めこんだ。麻袋をかつぎ、荷物を運ぶふりをして門を出た。いつものようにニコニコと門番さんに挨拶したけど、本当は全身から冷や汗が出た。お家に着くと、大家さんからハサミを借りて麻袋を切り、お布団にした。ゴワゴワして寝心地は悪いけど、これでもう凍え死ぬことはない。
 わたしは、盗んだ。わたしは、泥棒だ。わたしは、ひどいことをした。仕事を紹介してくれた叔父さんを裏切った。雇ってくれた主任さんを騙した。多くの人の親切を踏みにじった。誰かが一生懸命働いて作った物を盗みだした。恥ずかしい。苦しい。わたしは汚い。こんなに辛いのに、卑怯だから死ぬこともできない。だったらせめて、心を殺そう。心が無くなったら、きっとなにも感じないでいられる⋯⋯。
 
 市場の仕事にありついてから十カ月たった。お家に帰ると近所の人たちが、マルクス隊長の王宮親衛隊が愚連隊の根城に斬り込んで戦闘になっていると大声で話をしていた。
 家族を殺したやつらが死ぬ姿を見たい。お婆ちゃんに肩を貸して、わたしは愚連隊の根城に向かった。

「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました。笑いながら、お父さんと、お母さんと、ジェイ君と、ケイちゃんを殺して川に投げ込んだんです」
 マルクス隊長は、膝をついて目線を合わせてきた。
「名前は?」
「あの⋯、エステルです」
「いい名前だ。何歳だ?」
「もうじき十四歳に⋯⋯⋯⋯」

───────────────

 目を覚ますと、奥の資料室に寝かされていた。総司令官が運んでくださったんだろう。公爵様が平民を運ぶなんて⋯⋯。
 勇気を出して資料室から出た。総司令官はまだ仕事をなさっていた。
「起きたな。三時間休みをやる。自室で寝ろ。五時に総司令官執務室に出務すること」
 レオン様は、わたしを許してくださるつもりだ。でも、いずれまた同じようなことが起きる。だからもう、軍にはいられない。
「わ⋯⋯わたしは、汚れています。心も身体も汚れてるんです。軍の名誉をけがす存在です。閣下にも、大変なご迷惑を⋯⋯」
 レオン様は、うんざりしたように手を振った。
「おまえは、王国大学の聴講生だったな。オレの講義にも出ていた。いったいなにを聴いてたんだ?」

 立ち見がでるほど大盛況のレオンの講義だが、エステルは公務なので最前列で受けられた。エステルの横には、パシテ大神殿の神官や学者貴族が座り、後ろが特待生や軍大学校士官の席だった。小柄で十四歳くらいに見える少女が、軍服を着て特等席で講義を受ける姿は目立った。
 売春婦だった過去の自分を知っている学生がいるのではないかと怖ろしかった。だが、ほとんどの学生は貴族だ。ジグリー少佐のように好んで下等な街娼を買うような物好きは、そうそういなかった。それに軍服を着ると、別人のように見えるものだ。
「講義したはずだぞ。人間が社会をつくるのではない。社会が人間をつくる。おまえが汚れているなら、それは社会の汚れの反映だ。個人の責任ではない」
「で、でもっ、限度があります。わたしのしたことは⋯⋯汚いっ!」
 この世界では、エステルのような悲惨はめずらしくもない。元々エステルは、家と店舗を持つ裕福な両親に育てられた。出身階層は中の上といったところだ。それが婆さんと一緒に、一気に社会の最下層に突き落とされた。エステルの知恵と行動力がなければ、二人とも数日で死んでいただろう。
 社会の最下層にまで突き落とされた平民の少女を、社会の最上層にいる王族のレオンは、噛んで含めるようにオルグした。
「『悪いことをしてまでメシを食ってはいけない』と説教を垂れる奴がいる。だが、そいつが善人でいられるのは、餓えていないからだ。腹が減ったら、どんな人間でも正しくはいられない。弱い者が、餓えにさらされて悪に染り死んでいく現状は、社会の構造がそう仕組まれているからだ。オレは、そんな社会を打ち壊し、つくりかえる。いつまでも続く真綿で首を絞めるような棄民政策を許さない。そのために敵を倒す。邪魔をするやつは殺す」
 王国大学の講義やレオンの普段の言動を知っていれば、この男がそんなことを考えているのは明らかだ。だが、「口だけだろう」という楽観、準王族という地位と権力、そして軍と親衛隊の暴力がレオンを守っていた。
 レオンは本気だ。戦争だけでなく、社会を覆す革命までやるつもりだ。それに気づいているのは、妻のジュスティーヌ王女、ラヴィラント宰相、ジルベール前線司令官、そしてローザなど数人のカムロ幹部くらいだろう。
 レオンはエステルに、人間の精神が社会をつくるのではなく、社会が人間の精神をつくるのだと教えた。

「人間の物質的生活を決めるのは社会の経済的機構である。この土台の上に、法律的政治的上部構造がそびえ立ち、また人々の意識もこの土台に対応する」(マルクス『経済学批判序説』)

 エステル・ヴァンジェは、社会機構の圧力で娼婦に堕されたのだとレオンは、説いた。
 女奴隷が鞭打たれて犯されるのも、平民が餓死か身体を売るかを選ばされるのも同様ではないか。そんな選択を迫ったのは社会なのだから、エステルには、なんの罪もない。そして、自分を売春街に追いこんだ社会を転覆する権利がある。

「財産の差が生じるにつれて (- 略 -) 女子の職業的な売春が、奴隷の強制された肉体提供とならんで現れるようになる」(エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』)

 レオンは、エステルを煽った。レオンは、ただの男ではない。この国の最高権力者のひとりで、軍事学、哲学、医学、数学、それに剣術の天才とも謳われている。空論ではなく、思想を実現できる地位と能力がある。
 なによりプロパガンダやオルグ技術を使って人の心を捉えるのがうまかった。もともとこの世界にはプロパガンダはなかった。アジ・プロにスレていないので、エステルのような高知能の相手でも容易に落とすことができた。
 あの黄色い服のお姉さんを殺したのは、現象的には殺人犯だが、本質は社会機構だ。警備隊は「淫売が死んだら社会がきれいになる」と言ってたじゃないか。社会が底辺者への殺人や餓死を是認しているのだから、殺される側にも、抵抗し、反撃し、殺し、そんな社会を打ち壊す権利がある。
 エステルが、なにを求めているか見抜いたレオンは、パズルをはめ込むように報復のイデオロギーを注入した。レオンのカムロ組織の導きで、エステルは、軍人になった。軍人は、人を殺すのが仕事だ。
「おまえは、やられっぱなしで引っ込むような人間じゃないだろう。おまえの力が必要だ。オレと革命戦争をやるんだ」
 泣きそうになってうつむいていたエステルの顔に、やがて笑みが広がった。それは娼婦が客を誘う笑いでもなければ、野菜屑を拾うため青果市場のチビ権力者に媚びる笑いでもなかった。腹の底、心の奥から浮かんだ本物の笑いだ。
 エステルは、十六歳になっても生理がなかった。十二歳から一年も売春を続けていたせいで、子供を産めない身体になったのだと考えていた。そして身体だけでなく心まで壊されていた。上手に隠していたが、エステルの心に熱があるとすれば、それは憎悪だった。「復讐⋯⋯できる。わたしを踏みにじったあらゆるものに、大切なものを壊した奴らに、復讐できる。死んだっていい。なんだってする。どんなことでもやってやる!」。
 のちに西方領主領戦争と呼ばれることになるこの戦争は、『明』のレオン・マルクスと『暗』のエステル・ヴァンジェの二人が主役といえる戦いになった。
 レオンは、革命の第一歩として奴隷解放を名分に領主貴族を根絶やしに滅ぼすと公言し、その通りに実行した。ところが、子供を殺すことだけは避けようとした。子供が好きだったし、子供は罪のない白紙であり未来であると考えていたからだ。
 エステルには、レオンのようなセンチメンタルな道徳性はなかった。相手が何者であろうと敵と認識したなら、あらゆる手段を使って死に追いやろうとした。敵の死は、全ての問題を解決するからだ。自分は救いようがなく汚れているのだから、レオンさえ嫌がる最も汚い仕事に手を染めようと考えた。

 エステルは、憑き物が落ちたような本物の笑顔を見せて胸ドンの敬礼をした。
「五時に軍務に復帰します。二度と任務を放棄するようなことは致しません」
 エステルは、執務室のドアを開けて出ようとしたが、立ち止まって少し迷い、レオンを振り返った。
「⋯⋯どうしてわたくしを、これほど助けて下さったのですか?」
 もうレオンは、書類にあれこれ書き込んでいて顔も上げない。
「親衛隊や軍は、慈善団体じゃないぞ。早く休め」
 エステルは、レオンの方に数歩戻ってきた。
「愚連隊を倒した時に、祖母を抱えて動けなくなったわたしを、マーロウとローザは『エステル』と呼びかけて手助けしてくれました。あの時、あの場所で、わたしの名前を知っていた人は、レオン様だけです」
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「名前は?」
「あの⋯、エステルです」
「いい名前だ。何歳だ?」
「もうじき十四歳に⋯⋯⋯⋯」
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 今度は顔を上げたレオンは、苦笑していた。
「よく覚えているなぁ。助けたのは、おまえに育てる価値があると判断したからだよ。だがな、マーロウやローザの親切は、任務の枠を越えた本心だぞ」
 マーロウやローザが声をかけてきた最初から、どうして自分の名前を知っているのか不思議だった。でも、これを訊いたらみんなとの関係が切れてしまいそうで、怖かったのだ。
「⋯⋯ありがとうございました。ご期待に応えるよう最善を尽くします」

 エステルがレオンの執務室から退室してから一時間後、カムロの暗殺部隊『SY』のリーダー、ハサマが呼び出された。
 日常的に餓死者がでるほどの悲惨の極にあった浮浪児を救済するとともに、街の噂を集めていたカムロ組織は、わずか四年で製紙工場や印刷所を擁する数千人規模の企業体となった。カムロの裏の顔は、特務機関でありレオンが育てた私兵団だ。任務は情報収集と政治宣伝が中心だが、破壊工作・テロ・暗殺に特化した非公然部隊を持っている。
 ハサマは、レオンの前に立って右手で握りこぶしを作り頭の横に置くカムロ式の敬礼をした。
「オレの秘書のエステル・ヴァンジェは知っているな? やつの係累図だ。持ち出しは許可しない。暗記しろ」
 レオンは、大机ごしに書類を渡した。ハサマは、黙って受け取った。非合法活動家は、余計なことを言わないし訊かない。
「エステルの叔父がいるな?」
「はい。母親の弟ですね」
「殺せ」
 ハサマは少々驚いた。
 保守派貴族には殺人鬼のように思われているレオンだが、襲われたのを返り討ちにしたり、民衆を好き放題に殺していた愚連隊を倒したりはした。しかし、悪事を働いたわけではない非武装の人を殺したことはない。
 失脚させられた時でさえ、非合法・非公然組織を持っているのに、政敵の暗殺に手を染めていない。政治的な主張が異なるからといって、そいつらを個人テロで殺しても、きりがなく無意味だからだ。
 この殺人は、SYの初仕事になる。なぜ?どうして?という質問はしてはならない。ただ任務を果たすだけだ。
「静かにやりますか? それとも見せしめで派手に殺しますか?」
「静かにだ。時間はかかってもかまわない。絶対にSYの関与を疑われる痕跡を残すな。目撃者は最小にしろ。ターゲット以外を殺してはならない。命令は口頭で行え。文書に残すな」
 ハサマは、握りこぶしを頭の横に置くカムロの敬礼をして執務室を出た。

 レオンは、エステルの叔父のような小物は見逃すつもりだった。しかし、居酒屋でエステルが街娼だったことをベチャクチャしゃべくるようでは、話しは違ってくる。
 エステル軍曹を育てるのに、三年という時間と相当な労力と資金がかかった。それに、もう手放せないほど有能だ。
 愛人疑惑のある女性秘書が売春婦だったということが知られたら、必ず軍の名誉がどうとか騒ぐやつがでるだろう。これから戦争をしようという軍の総司令官としては、打撃になる。
 軍部の粛清を断行したために、軍内にもレオンの敵は多い。こんなことを口実に肝心な時に総司令官を解任されたら、戦争が中途半端に終わってしまう。今までの苦労が水の泡だ。
 エステル・ヴァンジェは、三回も身辺調査をされている。カムロ組織が保護・育成を始めた時、女子軍士官学校を受験した時、そして総司令官秘書に抜擢された時だ。
 調査で一番注目されたのは、エステルが売春をしていたことではない。愚連隊に親兄弟が殺された事件だ。
 ヴァンジェ一家は、明らかに狙い撃ちに殺されている。エステルが殺されなかったのは、たまたま菓子を買いに離れていたからだ。祖母は、腰を痛めて残ったために命拾いした。
 調査してもヴァンジェ一家には、愚連隊との繋がりはなかった。愚連隊は、雇われてヴァンジェ一家を皆殺しにしようとしたのだ。だれが依頼したのか? カネの流れをたどれば簡単に割れた。
 エステルが自宅に逃げ帰った時、すでに家財の運び出しがされていた。ヴァンジェ一家が皆殺しになることを知っていた者が、遺産を相続したテイで早々に売り飛ばしたのだ。買い主は、ルイワール公爵家がバックにいるヤクザ不動産屋。売り主は、エステルの叔父だ。
 死んだはずのエステルが街娼をしているのを見て、さぞやたまげただろう。無力なエステルの姿に、罪悪感をなごませようと職を世話したのが、文字通りの命とりになった。
 殺人教唆は、殺人と同罪になる。財産目当てで一家四人を殺したら、まず死刑だ。だが、裁判に引き出すと、どうしても娼婦だったエステルの過去が明るみにでてしまう。カネを与えて口をふさぐのは⋯⋯、カネだけ受け取って酒場でいい気分でしゃべるだろう。
 これから戦争で大量殺人をしようというレオンに、こんな程度の殺しをためらう理由はない。
 エステルをこれ以上の人間不信にしないため、叔父の件は教えないことにした。だが、エステルは、そんなに甘い人間ではなかった。
 エステルは、レオンとはまた違う種類の怪物だった。自分の心を守るため、他者への同情心や共感性を圧殺していたのだ。天才だったエステルは、そのために創造性や独創性を失い、教条主義者になった。エステルにとってほとんどの人間は、モノだった。そうしなければ、エステルは、狂うか自殺していただろう。
 十二歳のエステルにとって『死』は救いだった。ピンク色に染まった街頭に毎日立ちながら、ずっと死にたいと思いつめていた。一年以上もそんな境遇にあったために、エステルは、死を怖れなくなっていた。
 エステルにとっては、人間も石コロも同じだ。だから、どんなむごたらしいことでも石を転がすように淡々とこなせた。石のはずなのに、敵を殺すと強いカタルシスを感じた。
 もしも、クーデターの時に脱走した同期生がいたら、逃亡を企てた敵として顔色も変えずに背中から斬り殺したはずだ。周囲は、普段のにこやかで物柔らかなエステルとの落差に恐怖しただろう。

 この世界に四十万人もの民衆軍を動員する戦争は、かつて無かった。
 最大の問題は、四十万人を支える補給だった。それまでの補給は、せいぜい荷車に食料を乗せて運び、無くなったら戦地から引き上げるというものだった。レオンは、継続して食糧と武器と兵員を前線に送り続ける兵站という考えを持ち込んだ。
 兵站を構築し時刻表のような補給計画を立てる能力があるのは、子供の頃から現代日本の勉強をしてきたレオン=新東嶺風と、天才であるエステルしかいない。もしエステルがいなくなったら、レオンひとりでは膨大な補給計画を支えきれない。兵站は崩壊し、四十万人の部隊は立ち枯れてしまう。
 エステルのような悲惨は、他にいくらでもあった。当時のレオンには、全ての浮浪児を救う力はなかった。役に立ちそうかどうかで、選別するしかない。レオンが非合法のテロまで行使してエステルを助けるのは、慈善や同情ではない。戦争にエステルが必要だったからだ。

 これまでの戦争は、いうなれば陣取り合戦だった。戦争は短期で、民衆と切り離された封建領主軍同士がぶつかった。勝った側は、領土を奪ったり敵国に譲歩させたりした。
 レオンと、その教えを受けたエステルの戦争は、次元が違った。敵を倒すだけでは済ませない。
 レオンとエステルの戦争は、千年も続いてきた社会の土台を打ち砕き転覆しようという革命戦争だった。その手段は、国力の全てを戦争に動員する総力戦と、可能な最大限の暴力を行使し敵を完全に打倒するまで戦う絶対戦争だ。
 総力戦と絶対戦争の思想をレオンは、隠そうともせずに軍大学校で士官学生に公言していた。
 ⋯⋯ほとんど全員が、思考実験だと受けとめていた。だが、レオンは本気で革命戦争をやるつもりだ。

「共産主義者は、自らの意図や信条を隠すことを軽蔑する。共産主義者は、いっさいの社会秩序を暴力的に転覆することによってのみ自己の目的が達成されることを公然と宣言する。支配階級よ、共産主義革命の前に戦慄するがよい」(マルクス / エンゲルス『共産党宣言』)

 どの国でも政府や軍部にはスパイが潜入している。大国の軍事高官であるレオンの発言は、諸外国にも伝わった。本気でそんなことを実行するつもりなのか半信半疑だった世界は、現実となったレオンの戦争を目の当たりにして戦慄するだろう。
 それまでセレンティアは、中世的な静止した平和が保たれていた。しかし、レオンのあけた蟻の一穴が堤を決壊させた。歴史が動きだしたのだ。その最初の段階が、奴隷解放戦争だ。

 女神歴二十七年十二月十六日。フランセワ王国王都パシテ。パシテ王宮『王族の間』。
 深夜三時に国家の中枢ともいえるこの場所で、儀式が行われた。実質的な意味はない形式的な儀式なので、参加は強制されない。しかし、歴史的瞬間を見ようと、深夜にもかかわらず王宮にいるほとんどの貴族が王族の間につめかけた。
 王座に国王シャルル一世。王妃座に姉王女のジュスティーヌ国王補佐が非常時正装で着席している。簡素な服なのに美しかった。王妃座の横には、夫のレオン・マルクス公爵が軍服に帯剣して立った。勲章を廃し、略章を付けている。国王の斜め後ろに王位継承順位二位のジョルジェ第五王子、ジュスティーヌ第三王女の斜め後ろに王位継承順位四位のシャルロット第五王女が着席している。
 フランセワ王家直系の王族は、四人だけだ。たった一カ月前には、九人いたのに。三人殺され、一人自殺し、一人は敵対国に追放された。
 王家といっても父王の賢明で温厚な性格もあって、それなりに仲が良く円満な家族ではあった。そんな父と兄たちを惨殺されたフランセワ王家の、領主貴族に対する憎悪は深い。
 時間がきた。国王の斜め後ろに立っていたローザ・ノーブル秘書官が澄んだ声を上げた。
「公爵レオン・ド・マルクス総司令官。国王陛下がお召しです」
 以前のレオンだったら王座の間から飛び降りたかもしれない。しかし、四年も王宮暮らしをしているうちに、横に回って階段を降りる程度の常識は身についていた。
 国王の前に立ち、軍司令官として呼ばれたので、軍隊式の胸ドンの敬礼をする。
「レオン・マルクス。お召しにより参じました」
 シャルル一世国王が、小さくうなずいた。
「総司令官、我が軍の準備は完了したか?」
「全軍、準備が完了しております」
 再びシャルル一世が、うなずいた。数秒間目を閉じる。やがて口を開いた。
「フランセワ王国軍総司令官に命ずる。フランセワ王国軍は、予定の行動を開始せよ」
 レオンは再び胸ドンの敬礼をした。「とうとうやった⋯⋯。やってやった。戦争だ」。
「フランセワ王国軍は、本日四時より西方領主領地域において作戦行動を開始します」
 いつの間にかレオンの斜め後ろにエステル・ヴァンジェ軍曹が立ち、公文書用の用紙を広げている。
「総司令官命令⋯⋯⋯⋯⋯⋯えぇっと⋯⋯」
 レオンは、数千の書類の山に埋もれている。いい加減訳が分からなくなってきた。エステルが、秘書の仕事をした。
「⋯⋯第二百九十二号です」
「総司令官命令第二百九十二号 西方方面軍は本日四時より所定の作戦行動を開始せよ」
 もうひとつ。念押しを忘れない。
「総司令官布告 この戦争は奴隷制の根絶を目的に行われる。我が軍は解放軍として行動しなければならない」
 開戦命令と布告をエステルが筆記し、レオンに捧げ渡す。受け取ったレオンは、指輪になっている総司令官の印章をこの紙に押印する。この瞬間、戦争が始まった。もうだれにも、国王にさえ止めることはできない。
 三百年ぶりの本格戦争だ。予定の儀式なのだが王族の間は、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 内務大臣
「フランセワ王国は、戦争状態に入った。総督、代官、街区長、村長等の自治体首長に、軍にあらゆる便宜をはかるよう通達しろ。赤軍の編成に協力を惜しむな」
 外務大臣
「フランセワ王国軍は、西方地域を占拠している武装集団に対し戦闘を開始した。我が国は戦争状態にあると各国大使館に通告しろ。ブロイン帝国大使を呼べ」
 大蔵大臣
「大蔵省徴税徴発部隊は、軍部隊に追随し、領主貴族が隠匿した財貨・物資を没収、後送する。金銀貨のみでなく絵画や宝石類も没収せよ」
 法務大臣
「武装法務部隊は、西方地域において奴隷とされていた者に対する犯罪の証拠を収集し、犯人の身柄を確保。抵抗する者は処刑せよ。軍人は軍法務部に引き渡し、民間人の容疑者のみを後送する」
 文部大臣
「全ての貴族高等学院は、午前の授業で、この戦争の意義について特別講義を行うこと。本日以降、体育は軍事科目とする。健康な四、五年生の男子には、放課後二時間の軍事教練を義務づける」
 この文部大臣は、失脚したレオンが文部政務次官をしていた時の上役だ。気のいい爺さんだが、アッという間にレオンに実権を奪われた。穏健保守だったのに、戦争になったら張り切った。
 儀式を終えたレオンとエステルは、さっさと総司令官執務室に引き上げた。
 熱に浮かされたような狂騒の王族の間で、宰相のラヴィラント伯爵だけが唯一冷静だった。
「宰相官邸において、関係省庁の戦争政策調整会議を行う。各省事務次官は八時に集合のこと」
 たった今、レオンに開戦を命じた国王シャルル一世は、この騒ぎを目の当たりにして内心激しく動揺した。本当に内戦を避けることはできなかったのか? 無理だ。個人の力ではなく、なにか大きな流れが、この国を戦争に引きずっ ていった。

 カラン! カラン! カラン! カラン!

 王宮の外で、振り鐘を鳴らしている音がする。新聞屋をまかせられたレオンの手の者が、号外を出したのだ。一緒に『赤軍宣言』と『戦争宣言』を配っている。
「開戦! 開戦! 戦争だよ! 国王陛下とレオン総司令官が、奴隷使いどもを退治するよ~! 開戦っ! 奴隷解放戦争だーっ!」
 目を覚ました群衆が王宮前広場に集まってきた。なにか叫んだり手を振ったりしている。日が昇るにつれてどんどん人が増え、群衆は数十万人にふくれ上がった。
 ギリギリまで訓練していた後衛の赤軍部隊が、赤い軍旗を掲げ革命歌『同志よ固く結べ』を高唱しながら王宮前を通って戦場に向かう。人々が花を投げ、喝采を送る。
 この曲は、奴隷解放の歌としてレオンが作詞したことになっている。『プロレタリア』とはなんなのか、この世界で知っているのはレオンしかいないのだが。

 同志よ固く結べ 生死を共にせん   
 いかなる迫害にも あくまで屈せず
 われらは若き兵士 プロレタリアの

 固き敵の守りを 身もて打ち砕け
 血潮に赤く輝く 旗をわが前に
 われらは若き兵士 プロレタリアの

 朝焼けの空仰げ 勝利近づけり
 搾取なき自由の国 たたかいとらん
 われらは若き兵士 プロレタリアの

 暴虐の敵すべて 地にひれ伏すまで
 真紅の旗を前に たたかい進まん
 われらは若き兵士 プロレタリアの

 歴史を前進させようとする『正』の流れと、それを止めようとする『反』の流れの衝突。個人の思惑を越えたこの対立・闘争から、どのような『合』が導かれるだろうか。
 しかし、紙幅がつきた。それらを書くのは、次巻以降にしよう。

『異・世界革命Ⅲ』に続く

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