コーチ物語 〜明日は晴れ〜 クライアント1 舞い降りたコーチ
あらすじ
コーチングのコーチ、羽賀純一。以前は地方都市にある大企業、四星商事のエリート営業マンであった。数々の功績を残しつつも、とあることがきっかけで会社を辞め、東京でコーチングの修行を行い、元住んでいた地方都市へと舞い戻ってきた。そこでさまざまなクライアントと出会い、周りの人の力も借りてコーチングで問題を解決していく。それが四星商事時代の後輩である軽部、そしてかつての上司である畑田専務の目論見を意図せず邪魔をすることに。その結果、羽賀コーチと四星商事の対立となってしまった。この対立を羽賀はどのようなコーチングで切り抜け、みんなを笑顔に導くことができるのかを、クライアント目線で描いた物語である。
見上げると青い空。まばらに見える雲。もうこれが最後の見納めなのかな。そんな気持ちで、まだ少し冷たい風を頬に受けながらビルの屋上に立っていた。
「もう疲れたな。ここを乗り越えれば……」
そう思って鉄柵に手をかける。普通の女の子だったらこんなところを乗り越えるのは一苦労なんだろうけれど、私にとってはなんてことはない。ささっと鉄柵によじ登り、てっぺんで腰掛ける。頬に当たる風がいっそう強く感じる。油断をすると落ちてしまいそう。
あ、私ここから飛び降りるんだった。だったら別にいいじゃない。なんてことを思いつつも、どうせだったら自分の意志で飛び降りないと意味ないよね、なんてことも考えた。
ここは十五階建てのビルの屋上。このくらいの高さがあれば、十分死ねるよね。どうせこれ以上生きていたって意味がないんだから。たった十九年の人生だったけど、もういいや。
下を見る。意外にも人って小さいんだ。私がいなくなっても、世の中は勝手に動いていくんだろうな。そう思うと少し寂しい気がしてきた。
「ミク、もうこの世には未練はないよね」
そう自分に言い聞かせて、いよいよ飛び降りる決心をした。が、思うように体が前に出ない。
「えぇい、もういいんだって。早く飛び降りろって、このばかミクっ!」
自分にそう言い聞かせても、いざというと体が前に出ない。一気に飛び降りれるものだとばかり思っていたのに。
そうしているうちに、だんだんと下のほうが騒がしくなってきた。私の姿を見つけて人が寄ってきたみたい。やばいな、このままだと目立っちゃうじゃない。さっさと飛び降りなきゃ。それに、警察が来たら面倒な事になっちゃう。
そう思った矢先、パトカーのサイレンの音が耳に入った。もう来ちゃったのか。まったくもう、早くここから……そう思って今度こそ身を乗り出そうと思った瞬間、屋上の扉がバタンと開く音が聞こえた。
「あなた、なにやってんのっ!」
聞こえてきたのは女性の声。息を切らしながら私にそう叫ぶ。
「何やってるって、見ればわかるでしょ。今から飛び降りるんだから、邪魔しないでよっ!」
振り向いてそう叫ぶ私。見るとそこには私より少し年上と思える、気の強そうな女性がすごい形相で立っていた。そして私の方に近寄ってくる。
「何よあなた、邪魔しないでっ」
私の声にもかかわらず、その女性はだんだんと近寄ってくる。
「き、きたら飛び降りるわよっ」
「あなたね、今から何をやろうとしているのかわかってるのっ」
「わかってるわよ、そのくらい。今から死のうとしているんだから。あなたには関係ないことでしょ」
「関係なくないわよ。あなたがここで死なれたら、私が迷惑するの。私はこのビルの前で花屋をやっているの。あなたが飛び降りでもしたら、私のお店にも迷惑がかかるの。まったく、どんな事情があるのかわからないけど、いいかげんにしなさいっ」
「ふん、私より少し年上だからってお姉さんぶらないでよ」
「あなた、どれだけ人に迷惑かけるかって考えたことないの? 今日だって私はこれから引っ越してくる人のために、部屋の片付けをしていたところなのに。あなたの姿を見て、すぐにここまで駆けつけたのよ」
そうしていると、今度はさえない中年の男性がよれよれになって現れた。
「ま、舞衣、はぁはぁ。お、お前、そんな説得の仕方はねぇだろう。はぁはぁ」
「お父さんは黙ってて。なんだかだんだん腹がたってきちゃった」
どうやらこの二人は親子みたい。私の姿を見て、いの一番に駆けつけたって感じだな。
「とにかく、私は今から飛び降りまーす。さよならっ」
そう言ってポンと跳び出そうと足に力を入れた。が、両手がしっかりと鉄柵を握って離さない。えぇい、弱虫ミク、いいかげんにしなさいっ。
すると今度は屋上の入り口がにぎやかになってきた。どうやらさっき到着した警察官が来たみたい。やっかいになってきたなぁ。
「き、きみ、飛び降り自殺なんてやめなさいっ」
警官の一人が私に向かってそう言う。でもなんか説得力ないなぁ。人生の最後に見た光景がこんなだなんて、なんか私浮かばれないわよね。
ここでさらに私を落胆させるような人物が登場した。
「ったく、このオレにこんなところまで上らせて走らせるんじゃねーよ。で、どこにいるんだ、その人騒がせな自殺やろうは?」
ぶっきらぼうにしゃべり出したのはブルドッグのような顔をした中年の私服の男性。どうやら刑事さんらしい。
「竹井警部、そんな言い方をすると刺激してしまいますって」
制服を着た警官の一人がそう言う。本人は小声で言っているつもりなんだろうけれど、私の耳にはしっかりと聞こえている。
「ったく、こんな騒ぎ起こしやがって。おい、そこの小娘」
「小娘だなんて失礼な。私にはミクっていう名前があるんだからね」
ブルドッグ顔の刑事にそう言い返す。まったく、人を何だと思っているのよ。
「あぁわかったわかった。じゃぁミクちゃんよ」
「ちゃんづけなんてしないでよ。ミクでいいわよ」
私にはちょっとしたプライドがある。小馬鹿にみられたくないから、ちゃんづけされるのが嫌いなんだ。だからみんなにはミクって呼び捨てにしてもらうようにしている。
「わかった、ミクでいいんだな。だから早く降りてこい。ほら、こっちに来るんだ」
そう言いながら、なんだかいやらしい手つきでブルドッグの刑事はこっちに近寄ってくる。
「いや、来ないで、近寄らないで。来たら飛び降りるわよ」
「竹井警部、そんなに刺激しないで。ただでさえ怖い顔なんだから」
「あ、てめぇは。あのときのお騒がせ男だなっ」
「その節はお世話になりました」
竹井警部とかいうブルドック顔の刑事と、さっきあがってきたおじさん、なんだか知り合いみたいね。
「お父さん、この刑事さんと知り合いなの?」
「ま、まぁな。ほら、オレがちょっと騒がせたあの事件のときの……」
「あぁ、お父さんが自殺騒ぎを起こしたあのときの」
「ったく、また同じような騒ぎで刈り出されちまったな。そういや、あのときお前を説得した、ほれあの背の高いやつ……」
「羽賀さん、ですね。実はその羽賀さんなんですけどねぇ……」
「何そこでごちゃごちゃ言ってんの。私のわからない会話なんかするんじゃないわよ。まったくもうっ」
なんだか私、会話から取り残されたみたいで急に寂しくなっちゃった。だからつい、そんなこと言っちゃった。
「あなたね、自分からこんな騒ぎを起こしておいてその言い方はないじゃないの。会話に混ざりたかったらこっちに来なさいっ!」
「ま、舞衣、そんなに興奮させるんじゃないっ」
「お父さん、何言ってんの。こんなにわからずやの小娘を相手にしているほど暇じゃないんだから。それに今日うちにくる羽賀さん、いつになったら現れるのよ。予定の時間を大幅に過ぎてるじゃない」
「そういやあいつ、遅いなぁ。時間には正確なやつなんだけど」
「だからぁ、私のわからない話をするんじゃないの」
あー、イライラする。もうこうなったら本気で飛び降りちゃうから。そう思って下を見る。あらためてその高さにちょっと目がくらんだ。そのとき、なぜか地上にいるたくさんの野次馬の中から一人の男性が目に入った。どうしてその男性だけが私の目に飛び込んできたのかわからない。けれどその男性と間違いなく目が合った。十五階建てのビルの屋上からだから、そんなことわかるはずないのに。
その男性、私と目が合った瞬間にこくりとうなずいてこのビルに駆け込んできた。あの人は一体?
「おい、あの羽賀がおまえのところに来るってどういうことだ? あいつ、東京に行ったんじゃなかったのか?」
ブルドッグの竹井警部がおじさんに言い寄っている。
「今はそれどころじゃないでしょう。あの子をどうにかしなきゃ」
「警部、こちらの方が言われる通り、今はそれどころじゃないですよ」
制服を着た若い警官がブルドックの竹井警部にそう言っている。私も心の中では、そうよそうよと賛同。
「こんなとき、ドラマに出てくるような落としのプロみたいな人がいるといいんですけどね」
もう一人の警官がそんなことをつぶやいた。
「落としのプロねぇ、ありゃドラマだけの話しだよ。そんないい具合に人の気持ちを変えられるもんか。それよりも、レスキューの準備はどうだ?」
「はい、今確認します」
レスキュー? そう思ってたら、下のほうが騒がしくなってきた。どうやらそのレスキューとやらが来て、私の下にマットを用意しだした。万が一ってときのためなんだろうな。
「ちっ、落としのプロか。こんなときにあいつの顔が浮かんでくるなんて」
「あいつって、羽賀さんのことですか?」
おじさんが竹井警部にそう尋ねている。
「うるさいっ。おい、小娘っ!」
「ミクって言ってるでしょ」
竹井警部、そこでじっと黙って、今度は急ににこやかな顔つきになった。なんだか気持ち悪い。そして私に向かってこんなことを言い出した。
「ミク、みんな君のことを心配しているんだよ。どうだい、何があったのかぜひ話してくれないか? きっと君の力になることができると思うんだが」
「急に手のひらを返したような言い方しても無駄だっちゅーの。私はそんなに単純じゃありませーん」
「ったく、こっちが下手に出れば……あぁ、誰かどうにかしてくれぇ!」
そのとき、屋上の入り口がバタッと開いた。
「ボクがどうにかしましょうか?」
突然現れた男性。長身でメガネを掛けて、なんだかさわやかな感じ。ちょっといい男だな。でも私よりかなり年上みたい。でもこの人、どっかで見たことあるような気がするんだけど。
「おっ、おまえは……」
竹井警部が絶句している。
「は、はがぁぁっ」
おじさんがその男性に思わず抱きついている。
「この人が羽賀さん、なの?」
花屋の女性は初めて見る人みたい。
「ひろしさん、痛いですよ。にしても迷子になってやっとたどり着いたと思ったら、騒ぎが起きてたからびっくりしましたよ」
「おい、てめぇよくもまぁこの街に戻ってきたな」
「竹井警部、ご無沙汰しています」
また私の知らないところで勝手に話が進んでる。今の主役は私じゃないの?
「もう、いいかげんにしてよ。そろそろ飛び降りるわよ!」
みんなの気を引こうとして、大声でそう叫んだ。でもどうしてみんなの気を引きたいのかな? 言いながら自分でも疑問に思っちゃった。
「羽賀ぁ、恥を偲んでおめぇにお願いする。あの小娘を説得してくれ」
「竹井警部、説得じゃ人は動きませんよ。納得しないとね」
「説得でも納得でもいいから、もうこうなりゃおめぇに頼むしかねぇっ」
「わかりました。そのためにここに来たようなものですからね」
そう言って羽賀と呼ばれた男性はゆっくりと近づいてきた。
「警部、あの人に任せて大丈夫なんですか?」
「あぁ、前にも同じようなことがあってな。そのときにあいつのおかげで命が助かったやつがいてな」
竹井警部と警官のそんな会話が風に流れて聞こえてきた。でも、私を説得させるだなんて、そんなこと無駄だわ。私はここから飛び降りるんだから。
羽賀さん、私の前にどんどん近づいてくる……かと思ったら、にこりと笑って立ち止まった。そして誰もが思わなかった意外な行動をとりだした。なんと急に仰向けになって大の字で屋上の床に寝転んだ。これにはびっくり。そして大きく伸びをして、空を見上げて一言。
「あぁ、今日はいい天気だな。空が高いや。ね、そう思わないかい?」
な、何、この人?
「え、えぇ、そうねぇ」
思わず釣られて上を向いてそう返事をしてしまった。
「そっか、君もやっぱりそう思うよね。こんな日は縁側でゆっくりお茶でも飲みながら、ぼーっとしていたいよな」
なんかおじいさんみたい。でも言われたことをイメージしたら、私もそんな感じになってきた。
「そうね。ぼーっとするのもいいかもね」
「君はそんなとき、どうやって過ごすの?」
「私? 私だったらもっと体を動かすかな」
「へぇ、どんなことをするんだい?」
「そうね、自転車で思いっきりかっ飛ばすのが趣味なの。ちょっといいマウンテンバイクを買ったから、それで野山を駆け回るのもいいかもね」
「そっか、マウンテンバイクか。そういうのもいいな。ところで君って呼ぶのもなんだから、名前を教えてくれるかな?」
羽賀さんは寝そべったまま、私の方に視線を向けてそう尋ねてきた。
「私の名前? 私はミクっていうの」
「ミクちゃんか」
「ミクって呼び捨てにしてくれたほうがいいな。ちゃんづけはイヤ」
「わかったよ、ミク。ところでミクは今は学生さんかな?」
「えぇ、コンピュータグラフィックの専門学校に通っているわ」
「そっか、ミクは何か夢があってその学校に通ってるのかな?」
そう言われて、思わず黙りこんでしまった。夢、確かにあった。けれど、けれど……
頭の中は、ある人物の姿がグルグルと巡っていた。そして思わず叫んでしまった。
「だって、だって、誰も私のことを見てくれないじゃないの! あの店長が、私を見てくれないのがいけないのよ!」
そして涙が勝手にあふれてきた。もう、どうにも止まらない。
「そうか、ミクは店長に見てくれて欲しかったんだね」
気がつくと羽賀さんはいつのまにかそばに近寄ってくれていた。そして優しいほほ笑みで私を見つめてそう言ってくれる。
そのとき、なんだかすごく安心感を覚えた。気がついたらこんなことを話し始めていた。
「私ね、グラフィックデザイナーになりたくてあの学校に入ったの。でも私の能力なんて井の中の蛙。高校の時にちょっともてはやされて自信を持っていたけど、簡単に打ち砕かれたの」
「そっか、ミクはグラフィックデザイナーになりたかったんだ」
「そんな自信をなくしていた時に、バイト先の店長が優しくしてくれたの」
「店長さん、優しくしてくれたんだね」
「うん。でもそれは最初だけだった。店長、私からだんだん離れて行って。でも私、寂しくて。だから店長が気に入るようなこんな格好をしてみたんだけど」
羽賀さんは黙ったまま大きくうなずいて私の話を聞いてくれる。話せば話すほど、心の中の重たいものがだんだんと消えて行くのを感じる。
「でも店長、『何だ、その格好は?』なんて言うの。私、今までは活発な格好しかしなかったから。もうイヤ、私のこと、誰もちゃんと見てくれていないんだからっ!」
「だからもっと見てもらいたかったんだね。今ボクはミクを見ているよ。ミクのそのピンクのワンピース、すごく可愛いと思うけどな」
「そう?」
「うん、ただ気を付けないと、パンツ丸見えになっちゃうぞ」
「へーんだ、ちゃんとアンダーウエア履いてますよー」
私はそう言ってスカートをちらっとめくってみせた。
「ははは、思わずドキッとしちゃったじゃない。ところでミクは何か得意なことってあるかな?」
「得意なこと?」
「そう、わかりやすく言うと必殺技」
「ははっ、なんかウルトラマンみたい。私、初代のウルトラマンが好きだな。あの『シュワッチ』ってやって腕を十字に構えてスペシウム光線を出すの。あれがいいのよね」
「ウルトラマンかぁ。ボクはどっちかというと仮面ライダーだな。ライダーキックに憧れたなぁ」
笑いながらそう言う羽賀さん。なんかこの人とは気が合いそう。
「で、ミクの必殺技って何?」
「そうねぇ、コンピュータを操作する腕前は誰にも負けないわよ。あとはマウンテンバイクの操作なら、同年代の男の子より上手よ」
「そっか、どっちも見せてほしいな。特にコンピュータ操作はボクにとってはありがたいな。実はボク、あまり詳しくないんだよね。今からの仕事を手伝ってくれるとうれしいな」
「私を必要としてくれるの?」
「あぁ、もちろんだよ。そんな必殺技を持った人を欲しがっているところって、結構あるんじゃないかな」
「私を必要としてくれるところ……」
「そう、ミクを必要としてくれるところ」
羽賀さんからそう言われて、私は自分がパソコンを操作してさっそうと仕事をしている姿をイメージした。うん、なんだかいいな。
「じゃぁさ、これからボクと一緒にミクを必要としてくれているところを探しに行かないか?」
羽賀さんの言葉になんだかじんわりときた。そして羽賀さんの方を向いてゆっくりと黙って首を立てに振った。
「じゃぁ、ゆっくりと降りておいで」
羽賀さんはそう言って手を差し伸べてくれる。が、このときに体に異変が起きていることに気づいた。
「だ、だめなの……」
「ミク、どうしたんだい?」
「そ、それが……体の力が急に抜けちゃって……わたし、ここから降りれなくなっちゃった。羽賀さん、助けてっ!」
羽賀さんの言葉でホッとした途端、緊張感が抜けて急に恐ろしくなってしまった。私、動けなくなっちゃった。
「警部、やばいですよ。今度は降りようと思っても降りられなくなっていますよ」
「わかってる。おい、レスキューマットは準備できたか?」
「はい、でも風が強くて下手をすると落下の軌道がそれる可能性もあるということです」
「ちくしょう。おい、ミク、とにかく今は動くなよっ!」
竹井警部と警官の会話で私は下にあるレスキューマットを確認した。そしたらいっそう怖くなって、余計に体に力が入ってしまった。
「大丈夫、ちょっと待ってて」
そう言うと羽賀さんは軽いステップを踏んであっという間に私が登っている柵に登ってきた。
「おい、羽賀っ、ここからは慎重にな。オレの時みたいになるなよ!」
「ひろしさん、大丈夫ですよ。さ、手を出して」
羽賀さんは私に手を差し伸べてくれる。私はゆっくりと羽賀さんの手に触れる。その途端、体の力が急に抜けていくのがわかった。
「もう安心だ。さ、降りようか」
「うん、ありがとう。でも、ここから降りれるかな? ここって意外に高いな」
「大丈夫だよ。あ、そのペンダントかわいいね」
羽賀さんはお気に入りのペンダントを見てそう言ってくれた。
「これ、私のおばあちゃんの形見なの。もう死んじゃったけど、ここに大好きだったおばあちゃんの写真が入っているの」
そう言ってペンダントを外して羽賀さんに開いてみせた。
「そっか、ミクはおばあちゃんが大好きだったんだね」
「ちょっと前までは、バイト先の店長の写真に入れ替えようかと思ったんだけど。でもそんなのもういいの」
にこりと微笑んで、もうバイト先の店長には未練が無いことをしっかりと感じることができた。
そのとき、私たちの身にとんでもないことが起きてしまった。
「うわぁぁっ」
突然の突風。風にあおられてバランスを失いそうになった。私は羽賀さんに支えられて無事。けれど……
「あっ!」
その拍子に私の手からするりとペンダントがこぼれ落ちた。
「えっ!」
その光景を見たみんなは、目を疑ってしまった。
手からこぼれたペンダントを、とっさに羽賀さんがキャッチしようとして手を大きく柵の外に伸ばした。
と同時に羽賀さんは大きくバランスを崩す。けれどそれは起きてしまった。
私が最後に羽賀さんの姿を目にしたのは、自らジャンプしてビルの屋上から飛び降りようとしているかのような格好であった。
おそらく羽賀さん自身も自分の目を疑っただろう。まさか、こんな事態になるとは……
「うわぁぁぁぁっ」
「きゃぁぁぁっ」
「はがぁぁぁっ」
私たちの目の前から、羽賀さんは突然姿を消してしまった。
竹井警部や他の人達もあわてて柵の方に近寄ってきて、下を見る。羽賀さん、まさかこんな……。
それはとても長い時間に感じた。けれど実際にはほんの数秒なのだろう。
ドスン
レスキューマットの上に大の字になって落ちた羽賀さんを確認できた。
「おい、ミク、羽賀は、羽賀はどうなったっ!?」
竹井警部たちから羽賀さんの姿は見えないようだ。
「マットの、マットの上に落ちました」
そう言うとすぐにひろしさんと竹井警部、警官は駈け出していった。
「さぁ、もう降りましょう」
唯一残ったお花屋さんの舞衣さんが私に手を差し伸べてくれた。今度は降りることができる。
「さぁ、行きましょう」
舞衣さんと私は駆け足で屋上から羽賀さんの元へと向かっていった。
エレベーターで降りるときに、舞衣さんは私に向かってこんなことを言ってくれた。
「もうあんなことしちゃダメだよ。人に迷惑をかける生き方って私は好きじゃないな」
「はぁい、わかりました」
もっとこっぴどく怒られるかと思ったけれど、今の言い方のほうが私の心にはズッシリときたな。舞衣さんって、最初は気の強い人に見えたけど、今は心強く私を支えてくれるお姉さんに見えるな。
一階に降りてすぐに羽賀さんが落ちた場所へと向かった。そこで私は羽賀さんの姿を見た。
「羽賀さんっ」
思わず抱きついちゃった。
「羽賀さん、無事だったのね。ケガはないの?」
「ミク、大丈夫だよ。いやぁ、それにしてもさすがに焦ったな。まさか屋上から落ちるなんてね。ハハハ」
「羽賀ぁ、おめぇこれじゃオレの時と同じじゃねぇか。心配かけさせやがって」
「ひろしさん、そんなに涙ぐまなくても」
「まったく、前と同じになっちまうとはな。まぁ無事だったからよかったけどよ。ヒヤヒヤさせるんじゃねぇよ」
「あれ、羽賀さんメガネは?」
舞衣さんが羽賀さんの変化に気づいた。
「あちゃっ、落ちた時にどこかに落としたみたい。あれがないとよく見えないんだよなぁ。あ、それよりほら、これ」
羽賀さんの手には、私が大事にしていたペンダントが握られていた。それを羽賀さんから受け取った。
「あ、ありがとう。羽賀さん、こんなもののために危険な目にあわせちゃって」
それから私は警察でこっぴどく叱られる羽目に。まぁこれは仕方ないかな。そう思いながらも気になるのは羽賀さん。念のため病院で検査をしてもらうことになっているらしい。
「とにかく、これからは人に迷惑をかける様な生き方をするんじゃねぇぞ」
ブルドッグ顔の竹井警部にそう言われたものの、その顔はどことなく怖いと言うよりも愛嬌を感じるものがあった。
「はぁい、わかりました。ところで、羽賀さんってもう大丈夫なのかな?」
「多分あいつのことだからな。ったく、前と同じ事やりやがって」
「そうそう、それが気になってたの。確かあのときにいたひろしさんも同じ事を言っていたわよね。何があったの?」
「別に、おめぇが知ることじゃねぇ」
「あー、またおまえなんて言って。ミクっていう名前があるんだから」
「ほんと、おまえは名前にはうるせぇんだな」
「またおまえって言う。ね、羽賀さんとひろしさんに何があったの? 教えてよ、ねっ、ねっ」
「ったく、ミクはしつこいな。仕方ねぇ、そっちに座れ」
そう言って自動販売機の横にあるベンチに腰掛ける。竹井警部は販売機からミルクティーを買ってくれて私に渡してくれた。
「あのひろしって男がいたろう。あいつ、前に自殺騒ぎを起こしたことがあってな。今回のおめぇ……じゃなかった、ミクと同じだ」
「ひろしさんが自殺を? どうしてなの?」
「あいつ、三年くらい前に女房を病気で亡くしてな。それで自暴自棄になっちまって。そのときたまたま現場に居合わせたのがあいつ、羽賀なんだよ。あのときは廃屋になったビルの五階だったな。で、羽賀が今日みたいにひろしを説得に言って……」
「で、どうなったの?」
「それでな、あのときもいい具合にいって、自殺は止められたと思ったんだ。あんときゃ羽賀とあの男性、二人して手すりに腰掛けてたんだよな。しかしそれが間違いのもとだったんだ。男性が自殺をやめる決心をして、腰掛けてた手すりから降りようと思った瞬間……」
竹井警部は無言で手を下から上に落とすような形をとった。つまり落ちてしまったってことなんだ。
「えっ、そ、それでどうなったの?」
「まぁあのときは偶然に木の上に落ちたから、それがクッションとなって命には別状なかったけどよ。あのとき羽賀は足を骨折。ひろしは羽賀がさらにクッションとなってかすり傷ですんだけどよ」
「そうだったんだ。で、それから羽賀さんはどうなったの?」
「なんでも、東京の先生のところに修行に行くとかですぐにこの地を去ったけどよ。ったく、騒がせるだけ騒がせといてふらりといなくなって、そしてまた戻ってくるとはな」
「そうなんだ」
私は羽賀さんにすごく興味を持ち始めた。なにより羽賀さんが私に言ってくれた言葉、私を必要としてくれる人を見つけに行こうっていうの。あれが強烈に印象に残っている。
「ところで、羽賀さんって何をする人なの? お仕事は?」
「それがな、オレもよくわかんねぇんだよ。コーチとかなんとか言ってたけど、スポーツのコーチとは違うっていうことらしいんだけどよ」
「コーチねぇ……」
なんだかよくわからないけど。でも羽賀さんはコンピュータが苦手だって言ってたわよね。そこで一つのアイデアが閃いた。
「警部、消防の方からこれを預かってきました」
割りこんできたのは制服の警官。その手には羽賀さんがなくすと困ると言っていたあれの姿が。
「まぁあいさつがてら、あいつに届けてやるか」
チャンス! 私は早速ひらめいた行動を起こすことに。
「竹井警部、私も行っていい? 羽賀さんにお礼を言いたいから」
「あぁ、そうだな。じゃぁ一緒にいくか」
そう言って向かったのは、私が自殺をしようとして登ったビルの真向かいにある小さな四階建てのビル。一階がお花屋さんだ。
「フラワーショップ・フルール。この二階とか言ってたな」
竹井警部は横の階段を上がっていく。私も後ろからそれについていく。
「おい、いるか?」
竹井警部、ノックもせずにいきなりドアを開けて中にはいる。まったく、ぶっきらぼうな人だな。
私も竹井警部の後ろに隠れて横から中を覗く。まだ何もない殺風景な部屋に、少量のダンボール。そして唯一家具らしいものとしてソファが置いてあり、そこにお目当ての人物、羽賀さんが座ってそばをすすっていた。
「あ、竹井警部。先程はどうも」
「どうもじゃねぇよ。ったく、ヒヤヒヤさせやがって。ほれ、おめぇもちゃんとお礼を言えっ」
そう言われて竹井警部の横からちょこんと顔を出す。
「羽賀さん、先程はありがとうございました。私、お礼が言いたくて。それとこれ、大事なものでしょ」
私は手にしたあれを羽賀さんに手渡した。
「あぁ、これこれ、これがないと見えないんだよなぁ」
私が手渡したもの、それはビルから落ちた時に無くしてしまった羽賀さんのメガネ。羽賀さん、それを手にするとまるでウルトラセブンの変身みたいにして顔にかける。すると、ホント変身したかのように堂々とした態度に変化した。
「まぁ、座って座って。舞衣さん、お茶追加してもらっていいかな?」
「はぁい」
よく見ると、奥のキッチンスペースになっているところに舞衣さんがいた。なんだか舞衣さん、ウキウキしながらお茶を入れている。まるで羽賀さんと新婚気取りだ。ひょっとして……
「羽賀さん、舞衣さんとはどういう関係なんですか?」
私はズバリ、本質を尋ねた。すると羽賀さん、口にしたそばを思わず吹き出しそうになっている。
「ぼ、ボクと舞衣さんは別に関係なんかないですよ。このビルのオーナーが舞衣さんのお父さんのひろしさんで、舞衣さんは一階のお花屋さんを営んでいるっていうだけですから。これからボクはここの二階を借りて事務所兼住まいにしようと思っているところなんです」
「なぁんだ、ってことは単にオーナーの娘さんと住居人って形ね。それなら安心した」
「安心したって、おめぇどういうことだよ? もしかしたら羽賀を狙ってるのか? やめとけやめとけ、こんなトラブルメーカー」
「竹井警部、トラブルメーカーはひどいなぁ」
「はい、お茶が入りました。どうぞ」
割りこむように舞衣さんがお茶を運んできてくれた。羽賀さんと竹井警部にはにこやかに、そして私にはちょっと睨むような感じで。その視線は明らかに私をライバル視しているわね。
よし、ここで閃いたことを切り出してみるとするか。
「羽賀さん、屋上でパソコンが苦手って言ってたでしょ。だから役に立てないかと思って。パソコンだけじゃなくて、電話番でもお茶くみでも事務仕事でもなんでもします。だから、羽賀さんのところでアルバイトさせてください。お願いします」
このとき、私は意識をして舞衣さんの方を向いて言ってみた。
「あ、ありがとう。ごめんね、今ミクの発言が突然だったものだから。ま、確かに事務の人がいてくれると助かるけどね。でもここはまだ立ち上げたばかりの事務所で、ミクのお給料を支払えるほど稼ぎがないからなぁ……こまったなぁ」
それは私の中では計算済み。だからすでにこんな手を考えていた。
「羽賀さん、バイト代は私も欲しいけれど、まだまだそういう状況じゃないってこと、わかっているわ。だから、羽賀さんに体で払ってもらおうと思って」
「え、体で!?」
この反応は舞衣さんのもの。羽賀さんはお茶を飲もうとした手が止まって固まってるわ。
「ちょ、ちょ、ちょっと。体でってどういうこと? ま、まさか……」
「舞衣さん、なに想像しているのよっ。羽賀さんが体で払ってもらうとしたら『コーチング』しかないでしょ」
実はさっき、パトカーの中でスマホで調べたんだ。コーチと聞いてスポーツじゃなかったらこれだろうと思って。
私は検索したサイトを開いてみせた。そこには、コーチングとは相手のやる気を引き出し目標達成をサポートするための会話の技術、と書かれてあった。
「アルバイト代として、これを私にやってほしいの。それだけじゃなく、できたら私もコーチングが使えるように指導をしてほしいな。ね、ダメ?」
羽賀さん、しばらく腕を組んで考え込んでいる。私はその間、舞衣さんの入れてくれたお茶を口にした。このとき、びっくり!
「えっ、何このお茶。すごくおいしい」
お茶の味なんて素人だった私でも、この美味しさはわかる。なに、最高級の玉露とか使ってるの?
「へぇ、すごくおいしいな。どこのお茶使ってんだ?」
私の疑問を竹井警部も思ったようだ。
「えっ、そこのスーパーで買ったお茶ですよ。特売だったから安かったの」
舞衣さんはこともなげにそう言う。どう考えてもそんな安物の味とは思えないなぁ。
「よし、決めたっ!」
急に羽賀さんが大きな声を出した。
「ミク、じゃぁこうしよう。ここにアルバイトに来てくれるのはOKだ。でも学校を休んでまで来てほしくないから、アルバイトは学校が終わってからと、学校が休みの時だけ。アルバイト代は今はなかなか出せないけれど、クライアントが増えたら出す。それまではコーチングがミクの給料。これでどうかな?」
「うん、それなら喜んで♪」
交渉成立。これで明日の放課後から早速羽賀さんのところに通うことになった。なんだか楽しくなりそう。
「ところでミクはマウンテンバイクに乗っているんだったよね」
「うん、ここまではそれで通うつもりだよ」
「そっか、マウンテンバイクか……」
羽賀さんはちょっと意味有りげな顔でそう答えたのを私は聞き逃さなかった。
その翌日から、放課後になると私は羽賀さんの事務所通いが始まった。まず私に与えられた仕事、それは……
「パソコンをインターネットに繋げられるようにして欲しいんだ。とりあえずパソコンは中古の物をひろしさんからもらったから。これ、なんとかなるかな?」
見ると、最新型とは言えないものだけれど、事務処理程度なら問題ないスペック。けれどちょっと非力だな。
「費用はこれだけなんだけど」
そう言って手渡されたのは十万円。このとき、すでに私の頭の中ではそろばんがはじかれていた。
「うん、まかせて!」
この日から私はパソコン環境のセットアップに勤しんだ。インターネット環境を整えるなら、キャンペーンをやっているショップを経由して、そこでもう一台お手軽なノートパソコンをゲット。さらにソフトはフリーのものをダウンロードして、余ったお金でオークションからスペックアップ機材を購入。
「っちわぁ〜、宅配便です」
「えっ、今日も?あ、ありがとう。ハンコはここでよかったよね」
「はいっ、でもここ数日間連続で何か荷物が届いていますよね。何かやっているんですか?」
「いやぁ〜、実はボクもよくわからないんだよ。ウチのバイトがなんだかいろいろと取り寄せているようで……」
これが今日のお昼に私がいない間に羽賀さんと宅配便のお兄さんとの間で取り交わされた会話らしい。羽賀さん、今日はさすがに私に不思議そうに聞いてきたわ。
「ねぇミク、毎日何が届いているんだい?」
「うふっ、知りたい?」
「そりゃぁね。この間インターネットの回線工事だっていって業者が来たと思ったら、その後から連日いろんなものが届くんだもん。中身はミクにしかわからないものみたいだし」
「それも今日のこれでおしまいよ。もうちょっと待っててね」
羽賀さんにそう伝えると、早速作業に取りかかった。パソコンのカバーを開けて、最後の部品を取り付けて……よし、完成!
「これでセットアップは終了よ。羽賀さんはこっちのノートパソコンを使ってね。私はこのデスクトップを使うから。中古とはいえ、中身は格段にスペックアップしちゃったからね」
「へぇ、すごいな。素人にはわからないところだよなぁ」
「でしょ。私の自転車も素人にはわからないのよね。レース用としては入門的なパーツで組んでるんだけど、もっと良いパーツにしたいなぁ」
「良いパーツにすると、どうなるのかな?」
「そりゃ、もっと速いスピードで野山を駆け回ったりできるし。それにね、とても軽く感じるの」
「そっか、自転車も見えないところでスペックアップしたいんだね。ところでミクはどうしてマウンテンバイクに乗り出したんだい?」
「それ、聞きたい?」
「うん、ぜひ聞かせてよ」
「実はね、中学生のときにちょっとだけつきあってた彼がいたの。その彼に誘われてマウンテンバイクのレースを見に行ったのよ。そしたら、一目惚れしちゃったんだ」
「えっ、彼がいたのに一目惚れ!?」
「うん、といってもどこの誰かはしらないけどね。青いフレームに青い炎のエンブレムのバイクにのって、さっそうと走る選手がいたの。その姿にあこがれて、私もあんなふうになりたいって思っちゃった。ちなみにそのときの彼はさっさとふっちゃったけどね」
「へぇ、そんなことがあったんだね。青い炎、ブルーファイヤエンブレムか……」
また羽賀さん、前に見せたあのときの表情で考えこんでしまった。
「ね、ミク。今度の土曜日は空いてるかな?」
「うん、土曜日はここに来ようと思って空けてるよ」
「じゃぁ、十時に来てくれるかな?」
「うん、いいけど……何かあるの?」
「それはナイショ」
そう言って羽賀さんは人差し指を口に当てておちゃめな笑いをした。
そんなこんなで土曜日、私はいつものように自転車で羽賀さんの事務所を訪れた。
「あ、ミク。今からすぐに出るから。舞衣さん、この自転車借りていくね」
花屋の奥から、舞衣さんのはーいという声が聞こえた。
「じゃぁボクについてきてね」
「ねぇ、どこに行くの?」
その問いかけに、羽賀さんは右手の人差し指をまっすぐ立てて、口元に当ててこう答えてくれた。
「それはナイショ」
羽賀さんがママチャリで先導。私はマウンテンバイクでそれについて行く。が、羽賀さんのこぐスピードってママチャリのスピードじゃないよ。気を抜くとぐんぐん離されていっちゃうんだから。あ……だんだんと息切れしてきちゃった。このスピードでどこまで行くのよぉ〜っ!
「ミク、ついたよ」
にこやかな、そしてさわやかな顔でそう私に告げる羽賀さん。
「はぁはぁ、や、やっとついたのね…」
羽賀さんのさわやかな態度とは逆に息切れしてようやく到着。なんなのよ、羽賀さんのあの体力と心肺能力は!?
そして見上げると『サイクルショップ・サトヤマ』と書かれた看板。そして店先にはずらりと並んだ自転車。
「ちわっ、おっちゃんいる?」
「はい、いらっしゃ……はがぁっ、羽賀じゃねーかよぉっ!」
「おっちゃん、ごぶさた」
「ごぶさたじゃねーよ、このヤロー! 元気にしてたかよっ。もう三年ぶりくらいじゃねーか?」
「ははは、もうそんなに経つかな?」
羽賀さんとこの自転車屋のおじさんはどうやら知り合いのようで、話の内容からすると羽賀さんは三年以上ここには来てなかったようね。でも、今日はどうして私を連れてここに来たんだろう?
それにしても、こんなお店があったんだ。店内は自転車用のウェアやヘルメット、パーツなどがところ狭しと並んでいる。ここは自転車のプロショップなんだ。私は店内を目を輝かせて眺め回った。そのとき、私は信じられないものを目にした。
「こ、この自転車……」
店内の壁に掲げられていた自転車。それはあのブルーファイヤエンブレムの自転車。まさか、こんなところで目にするなんて。私の脳裏には、あの時のことが思い出されていた。
「今度行われるエキスパートクラス、これは見ものだぜ。今までと迫力が違うよ!」
当時の彼が興奮してそう言う。それまではなんだかチンタラした走りを見せられていたという気持ちが強かった。けれどその言葉は正解だった。このとき、本当のマウンテンバイクのレースっていうのを見た気がするわ。あっという間に目の前の上り坂を駆け抜け、さらにその先のジャンプスポットを華麗に飛んで行く選手たち。
そして特に目を奪われたのがこの「ブルーファイア・エンブレム」のマウンテンバイク。他の選手が疲れ切って走っているところに、後ろから疾風のごとく私たちのいるギャラリー席を駆け抜けていくの。その姿の華麗なこと! とにかくきれいだったのよね。
このときに思ったの。
「私もあんな感じで、颯爽とマウンテンバイクに乗れたら気持ちいいだろうなぁ……」
あのブルーファイア・エンブレムの選手にあこがれて、今の間中ミクがいるってわけなのよ。まさかこの自転車屋の選手だったなんて。
「ミク、ねぇ、ミクっ!」
表から聞こえる羽賀さんの声で、昔の私にトリップしていた意識をようやく取り戻した。
「あ、はぁい」
ちょっと後ろ髪を引かれる思いで、あのあこがれのMTBから目を離し羽賀さんの元へ。
「おやっさん、紹介するね。こちらはミク。ウチでバイトをしてくれているんだよ。そしてこのマウンテンバイクの持ち主でもあるんだ」
羽賀さんは私が乗ってきたバイクを指してそう言う。
「ミクちゃんか、よろしく頼むよ」
自転車屋のおじさんはそういって握手を求めてきた。
「あ、はい。こちらこそ……」
あわてて手をさしのべた。
「で、羽賀よぉ、本当にいいのか?」
私との握手を交わし終えると、おじさんはくるっと羽賀さんの方を向いてそう話し始めた。
「あぁ、ぜひ頼むよ。それとボクの自転車の方もよろしくね」
「自転車って……羽賀さん、ここで自転車買うの?」
私の素朴な疑問に、羽賀さんはこう答えた。
「うん、仕事するのに何かと足が必要だからね。車を持つほどお金に余裕ないし。それに自転車のほうが小回りが効くからね」
羽賀さんの言うことも一理ある。そういえば羽賀さん、マウンテンバイクという言葉に対しては何か思い入れがあるような感じがしていたけど。
「ところでミクのマウンテンバイクって、結構いい値段するんじゃないの?」
「うん。そんじょそこらのディスカウント屋のとはわけが違うよ。レースにも十分使えるものなんだ。パーツは入門用の安いものばかりだけど、フレームはこだわったわよ。おかげでバイト代全部使っちゃったわ」
「そっか。さっきこの自転車屋さん、里山さんと話していたんだけど、結構使い込んでいるよね。ちょっとオーバーホールが必要じゃないかなって」
「うん、それは気にしていたんだ。マウンテンバイクは好きだけど、メカニック的なことはまだまだ勉強中。下手にいじると壊しそうだし」
「で、ミクさえよければちょっとここに自転車を預けてみないかな。話はしておいたから。費用はミクのバイト代ということで、ボクが持つよ」
「えっ、ホント! いいの、そんなことしてもらっちゃって」
「いいもなにも、バイト代をまともに払っていないんだから、助かるのはボクの方だよ」
「うれしっ!じゃぁお言葉に甘えてお願いしちゃおっと」
わっ、予想外の展開。マウンテンバイクで野山で駆け回るのはいいけれど、メンテナンスをほったらかしだったから助かるわぁ。でも、羽賀さんとこの自転車屋さんとはどういう関係なのかしら?
オーバーホールは一週間くらいかかるので、その間は体格にあった中古のバイクを借りることにした。一方羽賀さんは、ここで自転車を注文したみたい。
それにしても、こんなところであこがれのブルーファイア・エンブレムのマウンテンバイクにお目にかかれるとは思わなかった。ひょっとしたら、このバイクの持ち主にも会えるかも。
私のバイクをサイクルショップ・サトヤマに預けて以来、私の胸の中の何かが燃え始めていた。火をつけたのは、あの日見たブルーファイア・エンブレムのマウンテンバイク。今の私の目標はMTBのレースに出て、レディース部門で上位をとって、多くの人に私を知ってもらうこと。それが、あのバイクの持ち主に近づく一番の方法だと思ったから。
だから、私の自転車のオーバーホールの終了がとても待ち遠しくて。やっぱり借り物だとどうしてもガンガン攻める気にならないのよね。
「ね、羽賀さん。あの自転車屋に行っちゃダメ?」
「だ〜め。里山さんの仕事のじゃまになっちゃうでしょ。今度の土曜日までおあずけだよ。それよりも、今週中にお願いしたホームページはできそうなのかな? こちらの仕事の方をよろしくね」
羽賀さん、なぜかあの日以来私をあの自転車屋から遠ざけようとしているのよね。そのせいか、急にたくさんの仕事をお願いされるようになっちゃったし。おかげで学校が終わったら、真っ先にここに来ないと仕事が追いつかなくて。ま、自分に合っている仕事ばかりだから、全然苦にはならないけどね。
そして待ちに待った土曜日がやってきた。この日は朝からうずうずして、羽賀さんに言われた時間になったら真っ先にサイクルショップ・サトヤマに足を運んだ。
「おじさん、自転車できた?」
「おぉ、ミクちゃんか。ほら、この通り」
目の前には、なぜか光って見える私のバイクがあった。
「早速乗っていい?」
「もちろん。サドルの高さを調整するからまたがって」
調整してくれるやいなや、すぐにそのあたりを一周してきた。とにかく軽い。そして確実にシフトチェンジする。このバイク、こんなに乗りやすかったんだ。もう異次元の世界。
「おじさん、ありがとう」
お店に帰ってくると、私は里山さんにお礼を言った。だが同時に信じられないものを目にした。いや、目から無くなっていたというのが正解だ。
「あれ、あそこに掲げてあった青いバイクは?」
「あぁ、あれか。あれならな……」
里山さんが指さしたのは、お店の片隅に置いてあるバイクのフレームのみ。
「えっ、あれどうしたの? どうしてバラバラなの?」
「それはな……おい、おまえから説明しろよ」
そう言って里山さんは店の奥に声をかけた。そして登場したのは……
「は、羽賀さん!? えっ、どういうこと?」
「ミク、そのバイクのパーツはすべてミクのバイクに移植したんだよ」
「そのバイクのパーツって、えっ、えっ、えーっ!」
私は混乱してしまった。その混乱を収めたのは、里山さんのこの言葉だった。
「こいつ、オレに預けてた自分のバイクはもう乗らないからって、ミクちゃんにパーツを譲ったんだよ」
この言葉にはびっくり。そうなんだ。私が憧れていたブルーサファイアエンブレムのレーサーは、なんと羽賀さんだったんだ。まさか、こんな形で会うことになるなんて。
「でも、もう乗らないってどういうこと?」
「こいつ、ちょいと事故で脚を怪我してな。本格的なレースからは足を洗ったんだよ。でも、また自転車に乗ってくれるって、ありがたいねぇ」
「そうそう、ボクの自転車は届いているの?」
「おう、こっちにあるぞ。おまえ仕様に軽量化も済んでるわ」
「さすがおやっさん。よくわかってるなぁ」
そこにあったのは一台のロードレーサー。これが新しい羽賀さんのマシンなんだ。そのあと、私と羽賀さんは二台並んで事務所へ向かった。そのとき、私はこんなことを思った。
私、あこがれの人のパートナーになれたんだ。自転車だけでなく、仕事としての、そしてゆくゆくは人生の……。
「ミク、なんだか楽しそうだな。何考えてるの?」
「うふふ、それはナイショ」
私はそう言って人差し指を口に当ててナイショのポーズ。
「羽賀さん、全力疾走で行くよっ!」
そう言って私は走りだした。明日に向かって、未来に向かって。
私の前に舞い降りたコーチ。それは私のこれからを大きく変えてくれるに違いない。さぁ、楽しい人生のスタートだ!
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