コーチ物語・クライアントファイル4 伝えたい言葉 その3
「あ、啓ちゃん。おかえり〜」
「あ、由衣。来てたんだ」
羽賀さんのところから自分のアパートに帰ってきたオレ。待ちかまえていたのは由衣。由衣には自由に出入りしていいように、アパートの鍵を渡してある。
「洗濯物、干しておいたからね。それと洗い物も片づけておいたよ」
「あ、あぁ」
由衣はときどき、オレのいない時にアパートに来て、洗濯物や洗い物、掃除なんかをやってくれる。昔のオレだったら、遊びでつきあっていた彼女とはちあわせ、なんてことがあったんだろうが。今は由衣しかつきあっていないし、昔の彼女のものや見られてまずいモノはないので、そこは問題ない。
「啓ちゃん、今日の夜は時間あるかな?」
由衣は最後の洗濯物を干し終わって、オレに改まってそう言ってきた。
「あ、あぁ。バイトは今日は休みだからな…」
先ほど羽賀さんに相談したせいだろうか、由衣を見る目がいつもと違う自分に気づいた。
よそよそしいというか、他人行儀というか。しかし、由衣はそのオレの態度には気づいていないようだ。
「じゃぁさ、時間あるんだったら今日の晩ご飯、ナベしようよ。前にさ、啓ちゃんがたまにはゆっくり家でナベでもつつきたいって言ってたじゃない。私も今日は時間あるからさ」
今のセリフ、今までつきあった女性ならば「なに女房気取りしてんだよ!」と言い返すところ。だが、由衣がこのセリフを言うと、なんだか心が温まる。
由衣と一緒にいることが安心していられるのだ。だからこそ、由衣を大切にしたい。
この気持ちをどう言葉に表現すればいいんだろうか?
せわしく動き回る由衣の後ろ姿を眺めながら、オレは一生懸命由衣にかける言葉を探していた。
「乾杯!」
その夜、由衣とオレはナベを間に挟み、ビールを片手に時間を過ごした。
この時間が、この生活がずっと続くといいな。ナンパなオレだけど、こうやって一緒にいて楽しんでくれる女性がいる。幸せ以外の何ものでもないだろう。
「啓ちゃん、ほらシイタケもおいしいよ。ナベだったら野菜もきちんと食べられるから、体にはいいよね。こんなふうにずっといられたら、私も幸せなんだけどな」
由衣のそのセリフを聞いて、何年後になるかはわからないけれど、今よりも人数が多い「家族」として由衣と一緒にナベをつついている姿が頭に浮かんだ。
「由衣…」
「ん、なぁに? 啓ちゃん」
「あ、いや。何でもない…」
今、のど元まで言葉が出かかっていた。が、その言葉がなんなのかを探ろうと思った瞬間、どこか遠くへその言葉が消えてしまっていた。
そしてその夜。お酒も入り、ビデオも見飽きたころ由衣からこう切り出してきた。
「ねぇ、啓ちゃん。今日は泊まってもいい?」
それが何を意味しているのか、オレには手に取るようにわかっていた。つきあい始めてから三ヶ月。子どものつきあいではないんだし、そろそろその時期が来てもいいのでは。オレも心から由衣を抱きたい、抱きしめたい。
「あ、あぁ。じゃぁ、シャワー浴びてくるか?」
由衣はこっくりとうなづき、無言でバスルームへと消えていった。
今まで何度もあったシチュエーションじゃねーか。どうしてこんなに緊張してんだよ。
「ちょっと、コンビニに買い物に行ってくるわ。すぐに帰ってくるから」
オレはいても立ってもいられず、バスルームでシャワーを浴びている由衣にそう言い残して、外に飛び出していった。外に飛び出し、気がつくと携帯に登録している、ある人物を検索し始めた。
「えっと、は…あった、羽賀純一っと」
携帯の指は、その人物を探し当てると、発信ボタンを押していた。
「はい、羽賀です」
「あ、どうも。本日おじゃました後藤です。後藤啓輔」
「あ、啓輔くんか。どうしたんだい、こんな時間に」
「すいません、突然お電話して。どうしても話を聞いてもらいたくて…」
「そうか。で、どんな話しだい?」
「実は今日、由衣が泊まりにきているんです。それでどうしていいのか…」
「そうか、心は抱きたいけれど、体が抱くことを許可してくれない。そんな状況じゃないのかな?」
「えっ、ど、どうしてそんなことがわかるんですか?」
オレは羽賀さんのその答えにとまどった。自分が頭のなかでゴチャゴチャになっていることを、ズバリと言い当てられてしまったのだ。
「啓輔くんの口ぶりと、昼間の情報からそうじゃないかってピンときたんだよ。で、ボクが力になれることってなんだろうな?」
羽賀さんの安定した、そしてゆっくりとした口調ではき出される言葉。そのおかげで、オレはストレートに自分の考えを口にすることが出来た。
「抱きたい、抱きたいんですよ。由衣を。でも、いざ由衣を抱こうとすると、体が思った通りに動いてくれないんです。それが情けなくて…本当にオレは由衣を愛しているんでしょうか? 由衣を抱きしめたいと思っているんでしょうか?」
ここでしばしの沈黙。おそらく十秒もなかったと思うのだが、オレにはとてつもなく長い時間に感じられた。その沈黙を破ったのは、オレの方だった。
「抱きたい、由衣を心から愛したい…」
「啓輔くん、今の心からの言葉、ボクには伝わってきたよ。うわべだけでなく、本当に心から出した言葉だったよね」
羽賀さんのその言葉、これで半分は安心できた。が、もう一つ気がかりは残っている。
「オレ、オレ…まだ由衣への言葉は見つかっていないけれど…でも、それでもいいんでしょうか?」
「啓輔くんの心はどう叫んでいるのかな?」
「オレの心…いいんですよね。自分の心に従っても」
「うん。いいんだよ」
「羽賀さん…ありがとうございます」
オレは羽賀さんにお礼を言うと、思いっきり駆けだしていた。そう、由衣の待つ部屋へ。
その夜、オレと由衣は始めて一夜を共にした。しかし、この夜の出来事がさらにオレを悩ませる結果になるとは、このときは夢にも思わなかった。
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