見出し画像

コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第2章 忍び寄る影 その6

「今後の行動をちょっと整理してみようか」
 情報の解析を待つ間、羽賀さんがそんな提案をしてきた。そして羽賀さんはホワイトボードの前に立ち、ペンを持って真ん中に「今後の行動」と書いて丸でそれを囲んだ。
「まず考えなければいけないのは、紗織さんについて。いつまでもここにいるわけにはいかないからね」
 羽賀さんは「紗織さん」と左上に書いて丸で囲んだ。それを真ん中の「今後の行動」と線で結ぶ。
「紗織さんが家に安心して帰るためには、どうなっていないといけないかな?」
 羽賀さんの質問にすぐに答えたのはミクさん。
「やっぱこの一件が片付かないと、安心はできないよね」
「片付くって、どういう状況かな?」
 羽賀さんに質問されて、ミクさんは頭を抱えた。確かに、片付くと言っても具体的にどうなればいいのか、今ひとつイメージがわかない。
「別に片付かなくてもいいんじゃねぇか。今回紗織さんが狙われたのは、あの情報を握ってたと連中が思っていたからだろう。ってことは、その情報の行方さえ適切に処理できてれば、もう紗織さんが狙われることもねぇだろう」
 羽賀さんはジンが言ったことを手短にまとめ、さらに単語を重ねてホワイトボードに書いていく。
「ということは、あの情報を適切に処理することが先決だってことですね」
 羽賀さんは新たにホワイトボードの右上に「情報の適切な処理」と書き記した。さらに羽賀さんの質問が続く。
「情報の適切な処理って、具体的には?」
「まずは情報解析だな。その中身を見ねぇと判断もできねぇ」
「情報解析の他に、何かボクたちでできることはないかな?」
 しばらく沈黙がただよう。私はただその状況を観ているしかなかった。けれどこのとき、ひとつの疑問が頭に浮かんだ。
「あの……」
「紗織さん、何か意見が?」
「いえ、そもそも羽賀さんたちはなんのためにこの仕事を引き受けたのですか。友民党から依頼を受けたのは別の人ですよね。その人はまたどうしてこの依頼を引き受けたのか。どうしてわざわざこんな危険なことをしているのか。そして具体的に何を依頼されたのか。そこがわからなくて」
 みんなの目線が私に集中した。えっ、私なにかいけないことを言ったかしら?
「紗織さん、するどい!」
 羽賀さんがいきなり私を指さしてそう言った。さすがにそれにはびっくりした。
「今回の仕事の目的。そこを抜きにして話をすすめるところでした。いやぁ、紗織さんありがとうございます」
 羽賀さんは左下に「目的」と書いて丸で囲み、他と同じように真ん中の「今後の行動」と線で結んだ。
「今回の仕事の目的、これをおさらいしましょう。そもそもこの仕事はコジローさんが友民党の土師さんから依頼を受けたものです。その目的は、日本政府が、いや友民党がロシアとの軍事技術に関しての取り決めをスムーズに行うため。しかしこの件は表立った外交問題では取り上げない、裏の交渉です」
 羽賀さんは自分で言ったことをてきぱきとホワイトボードにまとめていく。さらに羽賀さんの言葉は続く。
「こういった裏交渉で活躍するのがコジローさんの役目です」
「コジローさんって、誰ですか?」
 私が小声でミクさんに尋ねると、ミクさんはこう答えてくれた。
「今回私たちに国内での活動を依頼してきた、凄腕の裏ファシリテーターなの」
「裏ファシリテーター?」
「うん、表には出せない問題を解決する人、と言えばいいかな」
 私が知らない、裏の世界って本当にあるんだ。私の夫も、私の知らない裏の世界で活動していた人の一人だったんだ。
「で、コジローがオレたちに依頼してきたこと。それはロシアとの交渉を有利にすすめるための情報収集だったんだよ。その過程で旧日本政府、つまり相志党のジャマが入ったというわけだ。もちろん、ロシア側もその情報を握られると困るから妨害工作に入った、というわけだ」
「じゃぁ、適切な処理ってその情報をコジローさんに渡せばいいってことになるんですよね。もしくは友民党の人に。どうしてそれをしないんですか?」
 私は自分が思ったことをさらに素直に口にしてみた。
「そうしたいところなんですけどね。さすがは紗織さんの旦那さんですよ。この情報はしっかりと暗号化されていて、そのままどうぞって渡してもコジローさんや友民党じゃ内容はまったくわからない。だからこそ、マスターの出番なんだよなぁ」
「じゃぁ、情報が解析できてその内容をコジローさんっていう人か友民党に渡してしまえば、私は家に帰れるってことなんですね」
「いや、それだけじゃダメだな」
 ジンさんがスクッと立ち上がってそう言った。どういうことだろう?
「ロシアやリンケージ・セキュリティのやつらに、この情報に手を出しても手遅れだぞってことを伝えねぇと。でないと、紗織さんはずっと狙われたままになっちまう」
「確かにそうだな。かといって、そんな情報を流してもコジローさんが行動を起こすまではあちらさんは紗織さんを狙うだろう」
「報復に出るってことはないの? 羽賀さんや紗織さんの旦那さんが狙われたくらいなんだから」
 ミクさんがちょっと怖いことを言う。なんだかありそうな話だ。
「まずそれは大丈夫だろう。目的はあくまでも情報流出の阻止だからね。情報が流出してしまえば、そんなことをしても意味はない」
「でも、ありえないことじゃないと思うけど」
「リンケージ・セキュリティについては、あくまでも日本政府側の組織だから、無益なことはしないはずだ。目的のためには手段を選ばないけれど、目的外のことをやるなんてことは考えられない。これはロシア側についても同じだけどね。まぁ報復されるとしても、ジンさんやボクたちはありえても紗織さんに手を出すとは思えないよ」
 羽賀さんはにっこり笑ってそう言う。けれど、それは私を安心させるための言葉じゃないかって、そのとき感じた。
 そのとき、羽賀さんとジンさんの携帯電話が同時に震えた。二人とも同じタイミングで同じ動作で携帯電話を確認する。
「ジンさん」
「おう、羽賀さん」
 二人は顔を見合わせて外に向かおうとした。
「どうしたんですか?」
「情報が解析できた。今から二人でマスターのところに行ってくる。ミク、紗織さんを頼んだぞ」
「わかった。いってらっしゃい」
 そうして二人は事務所を飛び出して行った。
「なんか息が詰まるね。お茶、入れるね」
 ミクさんはそう言って立ち上がり、お茶をいれる準備を始めた。私はその間、ホワイトボードを眺めながらあることを考えていた。
 夫はどうしてそんなスパイなんか始めたんだろうか。会社がそれを命令したのかな。でも、今回の行動は会社とは関係なさそうだし。そもそも、その情報を夫は誰に渡そうとしたのだろうか?
 そのとき、ふと夫がこんな言葉を漏らしていたことを思い出した。
「もう少ししたら、ゆっくりしたところで暮らしたいな」
 夫が田舎生活に憧れていたのは知っていた。私はいつもの口癖のようなものだとばかり思っていたけれど。あの言葉はひょっとしたら、今回の仕事が終わったらスパイ生活から足を洗って、田舎に引っ越そうという意志の現れだったのかもしれない。
 そのとき、連鎖的に夫の別の言葉も頭に浮かんできた。
「優馬には大事なモノを預けているからな」
 えっ、それっていつ聞いたことばだったっけ? 私は頭の中で必死になって思い出そうとした。ベビーカーにつけたあのおもちゃをもらった後だったかしら?
「紗織さん、どうしたの?」
 私が頭を抱えているのを見て、ミクさんが声をかけてくれた。
「思い出せないの。優馬に大事なモノを預けているっていうのをいつ聞いたのか。それに、優馬に預けているってどういうことなの?」
 私はあらためて優馬を見る。ひょっとして、体の何処かに何かがあるのか?
 けれど、体にも服にもそんなものは見当たらない。じゃぁ、一体何?
「紗織さん、何をしているの? 優馬ちゃんがどうしたの?」
「夫が優馬に何かを預けたって、そう言っていたのを思い出したの。でもそれがなんなのかわからない。あぁ、どうしよう、どうしよう」
 急に思い出した言葉。それで不安になりつつも何とかしなければいけないという使命感に駆られ、必死になる。優馬は一体なにを夫から預かったのかしら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?