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コーチ物語 クライアント20「日本の危機」 第2章 忍び寄る影 その2

「一体どんなことでしょうか?」
 羽賀さんの質問に恐る恐る答える私。自分でも声が少し震えているのがわかる。
「旦那さんの勤め先、信和商事でしたよね」
「えぇ、そうです。そこで営業をしていました」
「旦那さんの口から、リンケージテクノロジーという会社の名前をお聞きしたことはありませんか?」
 リンケージテクノロジー。さっきの電話の坂口という男性が名乗った会社の名前だ。私は胸がドキリとなった。
「夫の口からは直接聞いていませんが、実はついさきほどリンケージテクノロジーの坂口と名乗る男性から電話がありまして」
「そ、それはどんな内容でしたか?」
「はい。夫から何か預かっていないか、ということでした。夫と仕事を進めていて、夫が持っていた情報が必要だと。それを預かっていないか、という内容だったんです」
「そうですか……紗織さん、これから言う事をよく聞いてください。詳しい事情は明日お話しします。まずは家を出てください。そこにいると危険な可能性があります」
「でも、家を出てどこへ行けば……」
「そうだなぁ……親族の家は危険の輪を広げることになるし。ここは舞衣さんに事情を話して、こちらに来ていただくことはできますか?」
「はい……でも、今すぐにですか?」
「えぇ、なるべく早くお願いします。事情はこちらに来ていただいてからお話ししますから」
 なんだかワケがわからない。けれど、羽賀さんの真剣な口調からただごとではないことだけはわかった。ここは羽賀さんの指示に従う事にしよう。
 私は優馬の荷物をまとめて、自分の荷物は最低限にしてタクシーを呼び、数分後には家を飛び出した。
「すいません、お願いします」
 行き先を告げ、改めて優馬をギュッと抱きしめる。優馬はおとなしい子で、滅多なことでは泣かない。今もすやすやと私の胸で眠っている。
 が、その優馬が突然ぐずりだした。さらに泣き声が大きくなる。
「おやおや、何かご機嫌ナナメになったなか?」
 タクシーの運転手が気をつかってくれる。
「すいません。うるさくしってしまって。ごめんなさい」
「いや、いいんですよ。子どもは泣くのが商売ですからね」
 ここで夜の街をふと眺める。あれっ、うちから舞衣のところに行くにしては妙な道を通っている気がする。むしろ舞衣のところから遠ざかっているような。
「あの……運転手さん」
「はい、なんでしょうか?」
「これ、道合ってますか?」
「えぇ、合っていますよ。今のあなたにとって向かうべきはあの花屋さんじゃなくてもっと別のところですから」
 えっ、何なの? このタクシーの運転手って一体何者なの?
 私は泣き叫ぶ優馬をかばうようにして抱きしめる。私、どこかに連れて行かれているってことなの?
 さっきまでいい人だと思っていた運転手。バックミラーから覗く顔がニヤリとしている。ここからどうやったら逃げ出せるの? どうして私がこんなことに巻き込まれてしまったの? 私はこれから一体どうなるの?
 そのとき、タクシーが突然急ブレーキをかけた。
「いたっ」
 私は前の座席におでこをぶつけてしまった。優馬は大丈夫?
 恐る恐る顔を上げる。すると、タクシーの前に人影が。どうやらバイクに乗っているみたいだけど。
「な、なんだてめぇ」
 タクシーの運転手は窓を開けて叫んでいる。どうやらバイクが突然タクシーの前に出てきたみたいだ。
 タクシーのライトに照らされたその人は、ゆっくりとバイクを降りてこちらに近づいてくる。タクシーの運転手はその男をにらみつけてはいるが、体は後ろにのけぞっている。
「なんだ、はこっちのセリフでしょうが。そちらの女性をどこに連れていこうというのかな?」
 運転席の窓に顔を近づけて、その男はそう言う。よくはわからないけれど、ちょっと大柄な体つきをしているみたい。
「て、てめぇに言うわけねぇだろう。だいたい、てめぇは何者だっ!」
 口だけは威勢がいいタクシーの運転手だが、体は明らかにその男の迫力に負けてのけぞっている。
「オレか。オレはな、通りすがりの正義の味方だよっ」
 そう言うと、男は開いていた窓から太い腕で瞬時にタクシーの運転手に向かってパンチをくりだした。
 これでタクシーの運転手は完全に気を失った。
「大丈夫ですか?」
 男は今度は優しい口調で私にそう語りかけてくれた。
「あ、は、はい」
「大丈夫。オレは羽賀コーチの知り合いだから。これから羽賀さんのところに連れていってあげますよ。安心してください」
 羽賀さんの名前を聞いて私は安心した。その瞬間、体の力がドッと抜けていった。
 その男はタクシーのロックを開けて、運転手を引きずり下ろして代わりに運転席に乗り込み車を発信させた。
「オレはジン。探偵という名のなんでも屋をやっている男です。今、羽賀コーチが抱えている仕事に絡んでいるんですよ」
 ジンと名乗ったその人は、タクシーを運転して来た道を戻り始めた。
「あの……一体どうして私を?」
「ちょっと羽賀コーチとは別ルートで情報を追ってたら、奥さんのところに行き着いたんですよ。そしたらちょうど奥さんがタクシーで出るところで。念のため羽賀さんに連絡をしたら、今からそっちに向かうってことだったから。それでオレもタクシーの後をつけていったんですけどね」
 それで道を外れたから、こうやってタクシーを止めたってことか。
「私、どうしてこんなことに巻き込まれたんですか?」
「そうだなぁ。その件については羽賀コーチのところに行ってからにしましょう」
 それからはジンさんは無言でタクシーを走らせた。今度は知った道を行っているので間違いなさそうだ。少し安心したら、眠たくなってしまった。
「着きましたよ」
 その声でハッと目が覚めた。窓の外にはシャッターは閉まっているけれど、舞衣のお店が見える。今度は間違いなく到着した。
 車の音を聞いてか、羽賀さんが階段から駆け下りてきた。
「紗織さん、大丈夫でしたか?」
「えぇ、ジンさんのおかげで」
「ジンさん、ありがとうございます。ジンさんがいなかったらとんでもないことになっていたかもしれませんでしたよ」
「礼には及ばねぇよ。それより、中で落ち着こうや」
 そう言って私たちは羽賀さんの事務所に向かった。
 事務所の扉を開くなり、舞衣が私に抱きついてきた。
「紗織、大丈夫だった? ケガはない?」
 舞衣は私のことをよほど心配してくれていたのか、涙を浮かべてくれている。
「紗織さん、今回は大変な目に合わせて申し訳ありません。もっとボクが早くに気づいていれば、こんな事態にはならなかったんですけど」
「あの……私、どうしてこんなことに巻き込まれたんですか?」
「それについては、ちょっと複雑な事情があるのですが。今からお話しすることは誰にも話さないでください。お願いします」
「はい、わかりました」
 私はあらためて身構えて、羽賀さんの言葉にしっかりと意識を傾けた。
「まずは旦那さんが務めていた会社、信和商事のことからお話ししなければいけません。紗織さんはこの会社が何をしていたのか、ご存知ですか?」
「いえ、会社のことは何も」
「そうですか。この会社が関わっていたのはロシアとの貿易です。扱っている商品、表向きは水産物に関するものですが、裏では非常に危ないものを取り扱っていました」
「危ない物って、麻薬とか?」
「いえ、もっと危ないものです。これは国家の問題にも発展するかもしれないというものです」
 なんだろう、それって。
「羽賀さん、回りくどい言い方はやめとけよ。ズバリ、軍事機密だ。つまり、信和商事はロシアのスパイをやっていたってことだよ」
 ジンさんがさらりとそう言う。それがどのくらい大きなことか、私には今ひとつピンとこない。けれど、羽賀さんの真剣な顔つきからそれがとんでもないことだという事だけは感じられた。
「じゃぁ、夫はそのスパイだった、ということですか?」
 まさか、という気持ちで私は羽賀さんにそう質問をした。

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