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コーチ物語 クライアント16「落日のあとに」その6

 翌日の朝、羽賀さんから病院へ同行してくれるという電話があった。私もまだ足の捻挫があるため、一度医者に診せなければと思っていたのでありがたかった。
 羽賀さんは今度はタクシーで登場。昨日、ミクさんから羽賀さんが以前事故に遭い、それ以降車は運転していないことを聞いていた。この人も辛い思いをしたんだな。
「神島さん、おはようございます。早速病院に行きましょう」
 羽賀さんはニッコリと笑って私に手を差し伸べてくれる。その手がとても頼もしく感じる。
 病院へ向かう道中、タクシーの中で羽賀さんは昨日ミクさんと話したことの確認をとりだした。
「そうなんです。ミクさんに励まされる形で、私が妻にしてあげられることを考えました。その結果出たのが、妻と最初に出会った小料理屋に行き、そのあとは妻と朝まで一緒にいることなのです」
「なるほど。ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「はい、なんでしょう?」
「ミクにその話をしたとき、神島さんはどんな気持ちになりました?」
「どんな気持ちって……そうですね、言いながら恥ずかしい気持ちもありましたけれど、それをやることで自分自身が満足できるんじゃないかって感じました。ミクさんに言われたのですが、まずは生き残る私が悔いの内容に満足して生きること。それが大事だって」
「そうですね、それが今を生きる私たちに課せられた使命じゃないかってボクも思っています」
 その時に見た羽賀さんの横顔は、少しだけ寂しそうだったのが印象に残った。
 そうして病院に到着。羽賀さんの肩を借りながら医者を前にした。
「捻挫の方はそれほどひどくはなさそうです。しばらくは湿布をして安静にしておけば、一週間ほどで回復するでしょう」
 私を診てくれた医者は妻の主治医でもある。だから、このチャンスに妻と一緒に小料理屋に行きたいということを話さなければならない。だがいざとなるとなかなかそれを口にすることはできない。
 そのために羽賀さんが一緒にいる。きっと羽賀さんの口から医者に話してくれるに違いない。そう思っていたのだが、羽賀さんはなかなか口を開いてはくれない。
 やきもきしながら羽賀さんの言葉を待つ。しかし看護師は淡々と私の足の湿布を張り替え、包帯を巻いていく。どのチャンスで羽賀さんは医者に話をしてくれるのだろうか?
「はい、終わりました。じゃぁまた明日来ていただけますか?」
「あ、はい」
 とうとう診察が終わってしまった。結局羽賀さんは最後まで口を開かない。これじゃ羽賀さんが一緒に来た意味がないじゃないか。
 とそのとき、羽賀さんが私の背中をトンっと叩いた。まるで私を前に突きとばしたような感じだった。
 えっ、と一瞬思ったが、それは「行け!」の合図だということを悟り、思わずこんなことを口にしてしまった。
「あ、あの、しずえのことでちょっとお話が……」
 医者もしずえのこととなると耳を貸さないわけにはいかないと思ったのだろう。クルッとこちらを向いて聴く姿勢をとってくれた。
「はい、どのようなことで?」
 ここで少しモジモジしていると、羽賀さんが再び背中を軽くポンと叩いた。おかげでまた言葉に勢いがついてしまった。
「実は……実は妻と出かけたいところがあるのですが」
「ほう、どんなところに?」
「はい、私と妻が最初に出会った小料理屋に。彼女の最後の思い出作りができればと思って」
 医者はそこでじっと黙り込んでしまった。やはり今のしずえの体では無理なのだろうか。この瞬間、医者に止められることを覚悟してしまった。
「神島さん、ひとつだけ条件を出させてもらってもよろしいでしょうか?」
 条件!? ということは、しずえと出かけることができるということなのか?
「ど、どんな条件ですか?」
「今の奥さんの状態から言って、どこかへ外出することなんていうのは医者としては賛成できません。ですが、医者の口からこんなことを言うのは不適切ではありますが、奥さんはもう治る見込みはなく余命はわずかです」
「はい、それは承知しています。だからこそ、だからこそ妻を、しずえをベッドの上に縛り付けておきたくはないんです。最後くらいは笑顔になって欲しい。それが私の願いです」
「わかりました。私からの条件というのは、もし外出中に奥さんに何かあれば、すぐに私に連絡をくれること。それだけです。私はすぐにでも駆けつけられるようにしておきますので。それさえ守ってくれれば許可しましょう」
「あ、ありがとうございます、ありがとうございます」
 私は医者の手を握り、何度も何度もお礼を言った。言いながら、涙声になっていくのが自分でもよくわかった。
 これでしずえとの思いでが作れる。これでしずえと一緒にいられる。その思いが私の心をはずませてくれた。まるで初めてデートをする前の青年の頃のような気分だ。
「神島さん、よかったですね」
 羽賀さんはにっこり笑ってそう言ってくれた。
 それからしずえの病室へ足を運ぶ事に。毎日のお見舞いはもちろんのこと、先程医者から許可をもらった外出についてしずえに報告をするのだ。はやる心とはうらはらに、捻挫をした足を引きずりながらゆっくりゆっくらいと歩いていく。今日はさすがに階段は使わずエレベーターで三階へとあがった。
 その道中、私はひとつの疑問を羽賀さんにぶつけてみることにした。
「羽賀さん、ミクさんからは羽賀さんが妻との外出を申し出てくれるということを聞いていましたが。どうして言ってくれなかったのですか?」
 それに対しての羽賀さんの答えはこうだった。
「神島さん、人生に悔いを残したくなかったんですよね。そんな大事な場面を人任せにしたら、そしてそれが失敗したら。悔いは残りませんか?」
 確かに。あのとき羽賀さんに私の思いを伝えることを一任し、それが失敗に終わったら。私はきっとこう思うだろう。
「こんな大事なことを人まかせにしてしまって。私はどうかしている」
 結局それが悔いとなって一生を過ごすことになるだろう。
 また羽賀さんに私の思いを代弁してもらい、それが成功したとしたら。それも私にとっては情けない思いとして心にのこってしまう。
「羽賀さん、大事なことに気づかせていただきありがとうございます。こういった重要なことは自分でやらないといけないんですよね」
 私の言葉に、羽賀さんはニッコリと微笑んで応えてくれた。
 後日、医者から聞いた話しだが。実は羽賀さんから事前に私からこういった話しがあるはずだということを聞かされていたそうだ。けれど私の口からそれが出るまでは黙って待っていて欲しいと言われたそうだ。どうしても私の口からその話しが出なければ、羽賀さんがうまく合図を送るので奥さんの話しへうまく誘導して欲しいという要望があったとか。
 羽賀さんはどうしても私の口からしずえに対する要望を言わせたかったようだ。そのための根回しまでしてくれていたとは。本当に感謝である。
 私と羽賀さんはしずえの病室へ到着。
「しずえ、今日の調子はどうだい」
「あらぁ、今日はお友達がご一緒なのねぇ」
 ゆっくりとした口調でそう言うしずえ。頭をゆっくりと下げるしぐさには、まだ品を感じることができる。
 しずえは昔茶道と華道をたしなんでいたという話を聞いた。私と出逢った頃にはその道からはすっかり遠ざかっていたようだが。けれどそのときに身についた仕草はアルツハイマーになった今でも失われていない。
「しずえ、今度私と一緒にお出かけをしよう。病院の先生からは許可をもらったからな。最初に出会ったあの小料理屋、あそこで一緒に食事をしよう」
「あらあら、それはよかったですねぇ」
 しずえとは微妙に会話がかみ合わない。これは仕方の無いこと。私の話をどこまで理解してくれているのかはわからないが、今は私の思いを伝えるしかない。
 しずえは窓の外をじっと眺めている。一体何を見つめ、何を思っているのだろうか。それがわかれば、今のしずえの苦しみもわかってあげられるのに。
 しずえと同様、私もただじっとしずえを眺めるしかなかった。
 そのあと、特に会話を交わすことも無く、羽賀さんにも申し訳ないので一度引き上げることにした。
「羽賀さん、本当にこれでよかったんですかね。私のわがままじゃないのか心配で。しずえは何もわかってはいない。今回の外出もしずえが本当に喜んでくれるのか。そこが心配で」
「大丈夫ですよ。神島さんが不安になればしずえさんも不安になる。しかし神島さんが心から喜べばしずえさんも同じように喜んでくれる。きっとそうなります。だから安心してデートに行ってください」
「はい、ありがとうございます」
 羽賀さんの言葉はとても心強く感じる。彼にはそう思わせる何かがあるようだ。
「ところで、実行はいつにしますか?」
「あ、それを主治医に聞かないと。病院側も準備がいるでしょうし」
 そのあともう一度主治医のところに相談へ向かった。話しあった結果、実行は三日後に決定。
 この日から私はなかなか寝付けなくなった。その三日後に向けての期待と不安、それが入り交じっている自分がそこにいた。

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