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コーチ物語・クライアントファイル4 伝えたい言葉 その4

「羽賀さん、羽賀さんってば! 起きて、起きてよ!」
「ん…あ、ミクか。おはよう。あいたた…ちょっとひろしさん飲ませすぎだよ、んとに…。あれ、啓輔くんも一緒か」
「羽賀さん、おはようございます」
 由衣と一緒に過ごした翌朝、オレは羽賀さんの元を訪れた。幸いミクが羽賀さんの事務所へ出勤してきたときと同じタイミングだったため、待ちぼうけを食わずにいられたようだ。
「あ〜、ちょっと待っててね。昨日ひろしさんがあの後、とびっきりの酒が手に入ったからってウチの事務所に乱入してきちゃって。おかげでちょっと二日酔いだよ…」
 羽賀さんは事務所の奥にある小さな台所で顔を洗いながら、そう答えた。
「あ、いえこちらこそ朝早くから訪れちゃってごめんなさい。でも、どうしても羽賀さんに相談したくて…」
「ん、どうしたんだ。そういえばあまり元気がないようだけど?」
 オレの言葉に、羽賀さんはタオルで顔を拭きメガネをかけ直しながらそう答えた。オレはミクをちらっと見る。それに気づいたのか、羽賀さんがミクにこう伝えた。
「ミク、啓輔くんとちょっと出かけるから。昨日頼んでおいた書類の整理、引き続きお願いしてもいいかな?」
 ミクは二つ返事で了解。さすがは羽賀さんだ。オレがミクがいると話しにくいことを察してくれたようだ。
「啓輔くん、ちょっと公園まで散歩しながら話しでもしようか。じゃミク、行ってくるね」
「…で、何があったんだい?」
 歩き出してすぐに、羽賀さんはオレにそう切り出してきた。その質問に対して、オレはこう答えた。
「昨日、羽賀さんに電話した後、由衣の元へ急いで戻りました。自分に正直になって、由衣を抱こうと決心して。でも、ダメだったんです。いざというときになって…オレの、オレの体が…どうしてもその状態になれなかったんです。どうしても勃たなかったんです」
「そっか…啓輔くんの体の方がなぜか気持ちを受け入れなかったんだね」
 オレと羽賀さんは、そのまましばらく無言のまま歩き続けた。
「羽賀さん、オレ、どうしたんだろう? どこか異常なのかな?」
 公園に着くと、オレは羽賀さんにそう質問した。自分自身への不安を隠しきれなかったのだ。
 この質問に羽賀さんはこう答えた。
「残念ながらボクはこの方面の専門家じゃないから、的確な答えを出すことはできない。一つボクの経験を話してもいいかな?」
「えぇ、どうぞ」
 オレと羽賀さんは、公園のベンチに腰掛けた。そして羽賀さんは自分のことを語り始めた。
「ボクもね、大切にしていた人になかなかふれることができなかった時期があったんだよ。大切だからこそ、ふれちゃいけない。そう思ってね。ボクが会社に入って、初めて好きになった人だったな」
 話しをしながら、羽賀さんの目は遠くを見ていた。羽賀さんの話はさらに続く。
「でも、あのころはボクも若かったからね。やっぱり彼女を抱きたいって思っていたよ。そしてある時、意を決して告白したんだ。彼女に」
「それでどうなったんですか?」
 オレは羽賀さんの話に引き込まれていった。
「それから数ヶ月はつきあったんだよ。彼女と。しかし、なかなか手は出せなかったね。ふれてしまうと、今までの関係が壊れてしまいそうで。逆に彼女はそれが不満だったみたい。いつになったら自分にふれてくれるのか、ってね」
 オレはごくりとつばを飲み込み、羽賀さんの続きの言葉を待った。
「そうしているウチに、ボクが仕事でだんだんと忙しくなっちゃってね。全国、そして海外へもどんどん出張に出るようになって。気がついたら、彼女と会う時間はどんどん減っていったんだ。最後の方には一ヶ月以上も連絡が取れないこともあったな」
「最後の方にはって…その彼女とは結局…?」
「うん、自然消滅って形で別れちゃった。そしたらね、別れて始めて気づいたんだよ。いかに自分が甘えていたかってことをね。どうして彼女をもっと積極的に愛せなかったのか、どうしてもっと彼女の思いを聞けなかったのか、どうしてもっと早く彼女を抱きしめられなかったのか」
 今の羽賀さんからはちょっと想像しがたい、意外な人物像が見えてきた。そこが逆に羽賀さんに対しての親近感を湧かせる。
 しばらく無言の状態が続いた。オレは手にした缶コーヒーを一気に飲み干し、羽賀さんにこう切り出した。
「それで…それでオレはどうすればいいんだろう?羽賀さん、オレ、どうすればいいんだ?」
「啓輔くんはこの間ボクにこう言ったよね。彼女を愛したい、心から抱きしめたいって」
「オレのその気持ちは今でも変わらないんです。でも、心の中の何かがストップをかけているんですよ…」
「何かがストップを…?」
 オレのこの言葉で、羽賀さんは何か思いついたようだ。
「啓輔くん、今彼女に抱いているイメージを、思いつくまま口にしてくれないかな?」
「え、彼女に抱いているイメージですか? そうですね…かわいい、手放したくない、やさしい、よくつくしてくれる…」
「他には?」
「う〜ん、良き理解者、暖かい、一緒にいて安心できる…」
「もっと何かないかな?」
「包み込んでくれる、抱きしめられたい、母親のような存在…」
 オレは今口から出た言葉で、ハタと気づいた。羽賀さんもオレのその表情に気づいたようだ。
「啓輔くん、もしかしたら由衣さんと啓輔くんのお母さんを重ねたイメージを抱いているんじゃないかな? 今のいくつかの言葉を聞いて、ボクにはそう感じたんだけど」
「えぇ、ボクも今気づきましたよ。由衣のイメージは、オレの母親なんだってことを。オレが由衣に求めていたものが今はっきりしました!」
 オレの中で固まっていた氷が一気に溶けた。そんな気がした。
「羽賀さん、オレの話しを聞いてもらってもいいですか?」
「うん、ぜひ聞かせてくれないか」
 オレは今、自分のことを話さずにはいられない。そんな心境になっていた。
 羽賀さんにこれから話す自分の過去と思い。これを話すことが由衣との間の問題を解決するための大きな手がかりになるのは間違いない。そんな予感がしてきた。
「由衣のイメージがオレの母親だってことで、由衣を抱けない理由がわかった気がしましたよ。オレの家は母子家庭でね。オレが小学生の頃、父の…いや、今では父とも呼びたくないな。あいつの家庭内の暴力が原因で、やっとの思いで母はあいつと離婚できたんだ」
 オレは父と呼びたくない、あいつのことを思い出すとおもわず拳に力が入っていた。
「そうか、そんなことがあったのか」
 羽賀さんはオレの話にただうなずくだけ、余計な詮索をしないのでオレも落ち着いて話しをすすめることができる。
 握った拳の力を緩めて、オレは話を続けた。
「オレは、小さい頃から母がガマンする姿を見ていたんですよ。あいつの暴力に耐えながらも、オレには優しいまなざしを送ってくれる。そんな母を見て育ってきました。だから、オレにとって母は特別な存在でもあるんです」
 オレは遠い目で母の姿を思い浮かべていた。

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