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コーチ物語・クライアントファイル4 伝えたい言葉 その5

「そうか、啓輔くんにとってお母さんが特別な存在であることはなんとなくわかったよ。一つ聞いてもいいかな?」
「えぇ、どうぞ」
「啓輔くんの彼女、由衣さんと啓輔くんのお母さんのイメージがだぶっている。だから彼女を抱くことを深層心理的に拒否している。彼女を抱くことは、自分のお母さんを抱くことにつながってしまうということになるからね。それはわかったんだが、その思いだけでこんなにも啓輔くんが悩むとは思えないんだよね。もう一つ、心の扉に鍵が閉まっている。ボクにはそう感じたんだけど…」
「羽賀さん、あなたにはかなわないな。そこまでオレの心を読むことができるなんて。でも羽賀さんなら安心して話すことができそうだ。この話は誰も知らない、もちろんミクもね」
 オレはある話しをしようと決心した。ひょっとしたら、これで心の呪縛から逃れられるかもしれない。そう思ってのことだ。
 羽賀さんなら信頼できそうだから、思い切って話しをしてみよう。羽賀さんの顔を見ると、全てを受け入れてくれそうなゆったりとしたほほえみでオレを見つめていた。
「オレがね、オレが母を…母さんを殺してしまったんだ」
「えっ!」
 さすがの羽賀さんも、これには驚いたようだ。オレは話しを続けた。
「殺したといっても、直接じゃなんだ。でもオレが殺したようなものだよ。あれはオレが高校三年生の頃。二年前の話しです。あのころオレは、年頃の高校生に漏れず『反抗期』ってやつでね。でも、暴力だけはふるわなかったんだよ。あいつと同じになりたくなくてね。口では母さんに反抗していたけれど、心の中ではいつも感謝していたんだ。でもね、あの日にオレがあんなことを言わなければ…」
ここまで話しをして、胸がグッと苦しくなってきた。
「啓輔くん…」
 羽賀さんはオレの様子を見て何か感づいたのだろう。しかし、ここで話をやめてしまえば、オレはまた元のオレに戻ってしまう。そう思い、オレは言葉を振り絞って話しを続けた。
「あの日、オレはそのときにつきあっていた彼女とのことで母さんとケンカをしてしまったんだ。高校生の頃からオレはナンパな性格でね。いろんな女の子に手を出しては次の女の子へ、そんなことを繰り返していたんだ。今思うと、あれは女性に何かを求めていたんだろうね。由衣のような母親のぬくもりを…」
 羽賀さんは口を挟まずに、ただ上下に首を振るだけ。
 しかし、そのまなざしがオレの言葉をしっかりと受け止めてくれていることを実感することができた。オレはさらに言葉を続けた。
「母さんは、そんなオレを見て怒るようなことはしなかったんだ。それが逆にイライラしてね。でも、あのときだけは違った。オレが二股をかけていたときがあって、そのときだけは母さんはひどくオレに怒ったんだ。『啓輔、おまえがいくらたくさんの女性とつきあっても、それは今しかできないことだから母さんは怒らない。でも、一人をないがしろにして別の女性に目を向ける。それだけは母さん許せない。二人の女性の心をどれだけ傷つけているのか、もっと真剣に考えなさい!』ってね。あのときの口調は、今までにないものだったんだ」
 オレは大きく深呼吸をして話を続けた。
「あのときに、オレは母さんにとてもひどいことを言ったんだ。『そんなえらそうなことを言うな!そもそもオレがこうなったのはあんたの育て方が、この甘ったれた育て方がいけないんだろうがっ!』そして雨の中、傘も持たずに外に飛び出していったんだ。まったく、あのときに何てことを言ってしまったんだよ、オレは…」
 徐々にあのときの思い出が頭の中でリアルになってきた。でも、まだ羽賀さんに話さなければいけないことがあるんだ。そう思い、さらに話しを続けた。
「そのあと、オレは雨の中をさまよったんだ。どこに行くわけでもなく。母さんがどうしてオレの生き方にそこまで口を挟むんだ、一番オレのことをわかってくれているのは母さんだと信じていたのに。そんな思いがグルグルと回って…一時間くらいして、オレの気持ちも落ち着いて家に帰ってきたんだ。そしたら母さんはそこにはいなくて。でも、なぜかお風呂の用意だけはしてあったんだ。たぶんオレが帰ってきてすぐに入れるようにしてくれていたんだろうね。そんな優しい、オレのことを思ってくれている母さんなのに…それからしばらくして電話があったんだ…悲しい電話が」
 オレはそのときのことを思い出すと、思わず涙がこぼれそうになった。
 羽賀さんはそっとオレの背中に手を当ててくれた。とても暖かい手を。
「電話は警察からだったよ。息子さんですか、落ち着いて聞いてください。今お母さんが事故にあい病院に運ばれましたって…。次に母さんにあったときには、もう二度と目を開けることのない姿だったんだ…母さんが最後に残した言葉、『息子は帰ってきましたか』だってよ。なんでこんなオレを心配して雨の中をうろうろしてたんだよぉ!」
 オレは感情を抑えきれず、大声で泣き出してしまった。
 羽賀さんはオレの手を握り、肩に手を回して暖かく包み込んでくれていた。
 羽賀さんの前で思わず泣き叫んだオレ。母さんへの思いが心の奥からよみがえってきた。
 羽賀さんの手の温かさを感じながら、ようやく気持ちも落ち着いてきた。
「羽賀さん、すいません。突然泣き出したりして…」
「啓輔くん、君の心の中にはお母さんに何か言い残したことがあるんじゃないかな。ボクにはそう思えたんだけど…」
「えぇ、気持ちの中に言い残したこと、やり残したことがたまっている。そんな気がしますよ」
「啓輔くん、きみはお母さんに何といいたかったのかな?」
 オレはこのとき、頭の中にいくつかの言葉が浮かんでいた。そのいくつかの言葉の中でひときわ光って見えるもの、それがだんだんはっきりとオレの目の前に現れてきた。
「オレが母さんにいいたかった言葉…それは…ありがとう…」
「そうか、ありがとう、か…すてきな言葉だね」
「ありがとう…どうしてあのとき素直に言えなかったんだろう。でも、母さんに伝えたかった言葉がわかって、なんだかすっきりとしてきましたよ。羽賀さん、オレの話を聞いてくれてありがとう…」
「はは、だんだんと元気を取り戻してきたようだね。でも、その言葉はボクにではなくもう一人大事な人へ向ける言葉じゃないかな。そんな気がするんだけど」
「そうか、そうだったんだ」
 オレは目の前がパッと明るくなった。
 そう、オレが由衣に対してずっと探していた言葉。それはこの「ありがとう」なんだ。
 由衣を通して、母さんの姿を見ていた。由衣がオレに対して全てを包み込んでくれる心。そしてやさしさ。それに対してオレが伝えるべき言葉は「ありがとう」。これなんだ。
 それがわかったとき、心の奥からオレンジ色の何かがこみ上げてきた。そしてそれは瞬く間にオレの体を包み込み、そしてそこには暖かさとやさしさが広がっている。
 なんだろう、この心地よさは…そうか、これが由衣の、そして母さんのぬくもりなんだ…。

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