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コーチ物語 クライアント19「女神の休日」その6

「そっか、そんなことがあったのか。しかし、一体どこの誰がはるみにそんなことを?」
 翌日、ラジオ局のいつものメンバーに羽賀さんとのコーチングの結果を伝えた。その第一声がディレクターの石井さんのこの言葉だった。
「そういえばちょっと前にストーカーっぽいファックスが来ていたな。他にもそんなファックスやメールって来てなかったのか?」
 田坂さんがそう質問してきたが、あのときのファックス以来そんなものは記憶にない。
「ファックスは私が目を通す前に、石井さんが選んでくれているわよね。石井さんはどうなの?」
「あぁ、あれ以来変なファックスには気を付けているが。そんなのは見当たらないなぁ。牧原はどうなんだ? お前、いつもファックスを持ってきてくれるだろう?」
 しかし、しずちゃんは首を横に振った。つまり誰もあれ以来私のストーカーの手がかりとなるものを見てはいないということになる。
「とりあえずしばらくはしずちゃんが私の家に来てくれるから。それで安心は出来るんだけど。でもずっとこのままってわけにいかないし」
 不安そうな私を見て、木下くんがこんな提案をしてきた。
「いっそのこと警察に言ってみるか? 記憶を消されたとなると、事件に巻き込まれる可能性もあるしなぁ」
「でも、そんなこと警察は信じてくれるかしら?」
 しずちゃんの言うことももっともだ。私ですら未だに本当にそんなことができるのか、信じがたいところもあるくらいなのだから。
「ともかく、そのストーカーってやつを見つけない限りは安心出来ないな。なんかいい方法はねぇのかよ……」
 田坂さんが唸り始めると、みんなも一緒になって腕組みをして考え始める。さすがにこういったアイデアは出てこないようだ。ここで石井さんがポツリとこんなことを言った。
「その、コーチの羽賀さんってのは何かいい方法を知らないかな? 催眠術を知っているくらいだから、何かいい案があるかもしれないし。それにあのコジローさんが一目おいている人だろう。きっと頼りになるはずだよ」
「そうね、じゃぁ羽賀さんにもちょっとお願いをしようかな」
 ちょうどそのとき、私の携帯メールが鳴った。あわてて携帯を開いてみる。するとそれは羽賀さんからであった。
「今日の夕方、エターナルでお会いできませんか?」
 短い文章であったが、その言葉が私を、いや私たちを安心させてくれた。
「羽賀さん、ナイスタイミングだなぁ。よかったらそこにボクも行っていいかな? はるみより少し遅れるけど、なんとか行けると思うから」
「そうね、私もその方が心強いわ。しずちゃんも一緒に行ってくれるわよね」
「え、わ、私? ごめん、はるみの家には泊まりに行けるけど、夕方の時間はちょっと……」
 しずちゃん、何か用事があるのかしら? まぁ私も無理に付き合ってもらうのは心苦しいから。それに石井さんが一緒だと力強いし。
「よし、決まりだな。じゃぁ午後の番組に向けて気分を切り替えよう。はるみ、大丈夫だよな」
「うん、まかせて」
 気分一新、いつものように笑顔をリスナーのみんなに届けなきゃ。その気持で午後の番組に臨んだ。
 そして夕方、私は一足先にエターナルへ向かった。
「いらっしゃい、おっ、はるみか。羽賀さん来てるぞ」
 マスターがいつもの笑顔で私を出迎えてくれた。そしてその視線の先にはコーチの羽賀さんがすでに待ち構えていた。
「こんにちは。メールでご連絡したとおり、ちょっと遅れて私の同僚の石井さんが来ますので」
「私も都合が良かった。例の件、いろいろと調べて考えたんですけど。周りの皆さんの協力も必要かなと思ったもので」
「でも、本当に催眠術で人の記憶を簡単に消せちゃうものなんですか? 怖いのは、私がその間に操られてとんでもないことをやっているんじゃないかってことなんです。事実、おそらくその催眠術をかけた男性と一緒に仲よさそうに外を歩いているのを目撃されているわけですから」
「そこなんですよ、問題は。実は催眠術というのはそんなに都合よく外部から記憶を操作できるものではないんです」
「えっ、というと?」
 羽賀さんの言葉は意外なものであった。催眠術では、と言ったのは羽賀さんだし。それが今さら否定するとは。
「そうですね、詳しくは石井さんが来てから説明しましょう。それよりもストーカーについての心当たりって、なにか出てきましたか?」
「それも手がかりがつかめなくて。でも私の家に入ってきたんでしょう。それってどうやって忍び込んだのかしら」
「ここもそうなんですよね。忍び込んだ見知らぬ相手が、突然催眠術をはるみさんにかけて丸一日の記憶を操作する。そんなことはありえないんです」
 羽賀さんは頭をかかえている。羽賀さんの言葉を解釈すると、私が思ったよりもこの事件は複雑な裏がありそうだ。
「ごめんごめん、待たせたね」
 重苦しい空気を打破してくれたのは石井さんだった。息を切らしてエターナルへ飛び込んできた。
「おぉ、石井くんじゃないか。久しぶりだね」
「あ、マスター、ご無沙汰しています。今日は真希ちゃんは?」
「なんでも友達とコンサートに行くから、バイト休ませてくれだってよ。まったく、いまどきの若い子は自分勝手なんだから」
「といっても、真希ちゃんがいなくてもやっていける店でしょ」
 石井くんは冗談交じりにそう言う。確かに、このエターナルはいつ来てもお客さんが少ない。まぁマスターの本業は情報屋であり、この喫茶店はその隠れ蓑としてやっているだけなのは承知しているが。
「あ、石井さん、こちらがコーチの羽賀さん」
「はじめまして。コーチの羽賀です」
「あ、私ははるみの同僚でラジオ局でディレクターをやっている石井です。今回のことではいろいろとありがとうございます」
「いえ、それよりも本題なのですが」
 型どおりの挨拶もそこそこに、羽賀さんは今回の件についての見解を説明し始めた。私も石井さんも、そしてマスターまでもが羽賀さんの言葉に真剣に耳を傾け始めた。
「まず催眠術というものについて理解をしていただきたいのですが。催眠術は外部から被験者の潜在意識に向かって、直接語りかけることでその行動や感覚、そして記憶までも操ろうというものです」
「そんなことが本当にできるのですか?」
 石井さんはまだ羽賀さんの言葉に疑いを持っているようだ。けれど羽賀さんは慌てず、石井さんの目をじっと見つめている。
「石井さん、でしたね。ちょっとこれを見てもらってもいいですか?」
 羽賀さんは突然ライトを石井さんに見せた。
「このライトをじーっと見つめて、見つめて、見つめて……するとだんだんとまぶたが重たくなります、重たくなる、重たくなる……」
 そう言いながら、羽賀さんはゆっくりとライトを下に移動させる。それに合わせて石井さんのまぶたもゆっくりと閉じていく。
「ガマンしなくていいですよ。ほら、まぶたがゆっくりと閉じて、それとともに体の力がすーっと抜けていきます」
 羽賀さんは石井さんの体を上から下へとなぞる。すると、石井さんの肩の力がストンと抜けていくのが私の目からもわかった。
「次に目を開けると、意識ははっきりします。けれどあなたは体に力が入らずに立つことができません。いいですね。立つことはできません。では三つ数えると目は開きます。いち、に、さん」
パチン
 羽賀さんの手を叩く音と共に、石井さんはパチリと目を開けた。
「えっ、今のは?」
「はい、催眠術です。でも意識ははっきりしていましたよね」
「えぇ。私は立てないってそう言いましたよね」
「はい。石井さんは立つことができません。はい、立ってみてください」
「そんなバカな……えっ、うそっ、な、なんで?」
 石井さんは必死で立ち上がろうとするけれど、椅子から立つことはできなかった。もがいている石井さんに羽賀さんはこう言った。
「このくらいの催眠であれば、簡単にかけることはできます。けれどそこには大前提があるんです」
 石井さんはもがくのを一旦やめて、羽賀さんの言葉に耳を傾け始めた。
「ど、どんな大前提なのですか?」
「それは、術者と被験者の信頼関係です。さらに深い催眠、感覚支配や記憶支配にまでいたろうとするのであれば、そこはもっと深い信頼がなければ至るこはできません」
「でも、ボクと羽賀さんは今初対面ですよね。それでもここまでかかるんでしょう?」
「厳密に言えば初対面とはちょっと異なります。おそらくはるみさんから私のことを聞いて、私に対して信頼を持っていただいているはずです」
「確かに。だから素直に羽賀さんの言葉を受け入れることができました」
「しかし、これがまったく見ず知らずの他人だったら?」
「やはり警戒するでしょう」
「そうなんです。催眠術は術者との信頼関係がなければまず成り立ちません。さらにもう一つ、被験者がそれを受け入れると望まない限りは、その行動は行うことはできないのです。ですから、催眠術にかかっていたからと言って殺人や犯罪を犯すということは不可能なのです」
「じゃぁ、はるみが催眠術にかかったという可能性は低い、ということなのでしょうか?」
「いえ、おそらく、いや間違いなく催眠術です。そしてその催眠をかけたのは、見知らぬストーカーの男性ではなく……」
 羽賀さんの言葉はここで重く、深く止まってしまった。

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