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コーチ物語 クライアント19「女神の休日」その5

「ではリラックスして、この光をじっと見つめてください」
 私は薄暗い部屋の中で、羽賀さんの言葉に従って光を見つめていた。
「この光を見つめているとぉ、だんだんとまぶたが重たぁくなってきます」
 羽賀さんのゆっくりとした言葉に、私の身も心もゆだねてみる。すると気持ちがだんだんと軽くなり、何も考えられなくなってくる。
 あれ、今私なにしてるんだろう?
 あ、そうだ、羽賀さんに催眠術をかけてもらっていたんだ。
 ぼんやりとした意識の中で、なぜ今ここにいてこんなことをしているのかをもう一度思い出してみた。
 私の消えた日曜日の記憶。これを羽賀さんの催眠術で引き出そうとしているのだった。エターナルでその話をして、早速羽賀さんの事務所に移動してきた。そして今こうやって羽賀さんから催眠術をかけてもらっていたんだ。
「はい、体が後に倒れます」
 羽賀さんの言葉通り、勝手に体が後に倒れていく。けれど不思議な感覚はない。むしろそれが当たり前のようにすら思える。
「では私が三つ数えると、目がぱっちりと開きます。いきます。イチ、ニ、サン」
 パチンという羽賀さんの手の音で、私の目はぱっちりと開いた。意識もはっきりしている。
「あれ、これで終りですか?」
「いえ、まだ催眠の初期段階ですから。ところではるみさんはお酒はどんなのが好きですか?」
「お酒ですか。そうですね、カクテルなんか好きですよ」
「へぇ、どんなカクテルが好きなんですか?」
「う〜ん、今ちょっとはまっているのがスプモーニっていういの。グレープフルーツのさっぱりとした味わいが飲みやすくていいですね」
「ではそのスプモーニを用意しましたので、ぜひ飲んでみてください」
 羽賀さんはどこからもってきたのか、オレンジ色のドリンクを私に差し出した。私は不思議ながらもそれに口をつける。
「んっ、おいしいっ!」
 味は完全にスプモーニ。羽賀さんのセッションの最中なのに、お酒なんか飲んでいいのかしら?
「では三つ数えると、あなたの味覚はもとに戻ります。一つ、二つ、三つ、はいっ!」
 羽賀さんのその声と共に、私は思わず吹き出しそうになった。
 さっきまでスプモーニだった物体が、突如白い牛乳になったのだ。
「えっ、これどういうこと?」
「はい、催眠の第二段階である感覚支配に至ったかを確認させていただきました。実ははるみさんが飲んでいたのは見たとおり牛乳です。これをスプモーニと思わせたんですよ」
「でも、間違いなくスプモーニでしたよ?」
「これが催眠の感覚支配です。見るもの、味わう物、その他聞こえる物など人間の五感を外部からコントロールできるんですよ」
「あ、これがテレビで見る催眠術でよくやっているのですよね。酸っぱいレモンをおいしそうにまるかじりしたりするの」
「はい、その通りです。では次はいよいよ第三段階の記憶支配までいってみます。はい、私が三つ数えると、あなたはすーっとリラックス状態に入ります。ひとーつ、ふたーつ、みーっつ」
 羽賀さんがそう言って私の額に手を当てると、私の意識は真っ白になっていった。羽賀さんの言葉ははっきりと聞こえるし記憶もある。けれど、フワフワとした感じで自分を見つめている。そんな気がする。
「でははるみさん、あなたの記憶の時計を少しずつ遡らせてみましょう。さぁ、今あなたは昨日にいます。昨日の夜七時には何をしていましたか?」
 言われて私の頭の中は昨日の七時に戻っていた。そこで見たもの、聞いたもの、触ったものの感覚がはっきりと思い出されてくる。いや、思い出すというよりもその時点にいるといったほうがいい。
「あ、石井さん。木下くんに田坂さん、それにしずちゃん……あ、そうか、私突然倒れたんだった。そして病院のベッドにいたんだ」
 そのときの様子を語り出す私。口から勝手に言葉が出ているといった方がいいかもしれない。
 ひと通りそのときのことを話すと、また羽賀さんが言葉をかけてきた。
「ではもう少し時計を遡らせましょう。今度は問題の日曜日です。さて、日曜日の朝、起きてからあなたは何をしていましたか?」
 日曜日の朝……思い出そうとしても何も浮かばない。いや、思い出そうとしたら何かがジャマをしている。私は顔をしかめて全身に力が入ってしまった。
「ダメ……どうして……何がジャマをしているの?」
 私は思わずそう口にした。何か思い出せないような魔法をかけられている。そんな感覚がする。
「はい、では一度体の力を抜いてぇ。息を吐きましょう」
 羽賀さんの言葉通り、息をスーっと吐く。体の力が抜けていく。
「ではイメージしてください。あなたの脳に今、大きなフタがしてあります。けれどそのフタ、よくみると薄い紙がたくさん重なってできています」
 羽賀さんの言うようにイメージしてみた。脳のどこかにあるフタをイメージする。そのフタは薄い紙がたくさん重なっている。
「その薄い紙を一枚ずつめくっていきましょう」
 その言葉通り、まるで分厚い百科事典を一枚ずつめくるようなイメージを頭の中に描いてみた。
「ほら、一枚ずつめくっていくと、重かった記憶のフタがだんだんと軽くなってきた。それとともに、日曜日の記憶が少しずつ見えてきた」
 すると、最初はぼんやりとして焦点があわなかった光景が徐々に明確になってきた。まるでカメラのピントをあわせるみたいに。
「さぁ、だんだんと見えてきましたよ。今何が見えていますか?」
 すると、目の前に見えてきたのは……
「あなた、誰? 私に何をしようとしているの? それ……私を眠らせて……私に……」
 それ以上言葉が出てこなかった。記憶の中の私も記憶をそこで失っている。
「なるほど、やはりそういうことか……では三つ数えるとあなたは目が覚めます。ひとーつ、ふたーつ、みっつ」
 パチンという羽賀さんの手の音で私は目がはっきりと覚めた。私はすかさず今見たことを羽賀さんに尋ねた。
「おそらく、私の予想通りです。何者かがはるみさんに催眠術をかけているんです。そして日曜日の行動を支配した。そしてその日一日の行動を思い出さないように記憶にフタをしたんです。はるみさんが見た人間の顔に見覚えは?」
「いえ、ありません。見知らぬ人でした」
「となると、ストーカー的な相手の可能性もありますね。はるみさんの熱狂的なファンとか、心当たりありませんか?」
 ストーカー的なファン。その言葉でひとつピンと来たものがある。
「実は一ヶ月くらい前なんですけど。私が体調を崩してしまったときに番組にお見舞いのメッセージとかがたくさん届いたんです。その中の一つに……」
「一つに?」
「どうして私のことをそこまで知っているの、というような内容のものがありました。ラジオではちょっと体調を崩したとしか言っていないのに。休みの日まで働きすぎですよ、とか、夜遅くまでがんばり過ぎですよ、なんていうコメントがあったんです」
「なるほど。ひょっとしたらストーカーに狙われていた可能性もありますね。そのメッセージの送り主ってわかりますか?」
「それが……ファックスで来たメッセージなんですけど怖くなって捨てちゃいました」
「そうですか……しかし、そうなるとこれから先どうしていくかを考えないと」
「そうですね。しずちゃんにおねがいしようかな?」
「しずちゃん、というと一緒にお仕事をされている方ですね」
「はい、ラジオのミキサーをやっている女の子で、気が合うんですよ。しずちゃんなら安心できるし」
「それがいいかもしれませんね。では最後に催眠を完全に解きますので。また三つ数えるとあなたは全身がリラックスしまーす」
 あとはまた、羽賀さんの言われるままに。そうして催眠術を使ったセッションが終了。気持ちはなんとなく軽くなった感じがする。けれど、謎のストーカーという存在が明るみに出てきた。しかも相手は催眠術を使う。そのことを考えると、少し気が重たくなる。
 とりあえずしずちゃんに連絡を取り、早速今夜から私のマンションに来てもらうことになった。
「へぇ、催眠術を使うストーカーねぇ。そんなことができちゃうんだ」
「そうなの。一体誰なのかしら? だからしずちゃん、しばらく私と一緒に行動してくれない?」
「いいわよ。はるみの力になってあげる」
 心強い友達だ。けれど問題が解決したわけではない。この先どうしていけばいいのか。その不安を抱えたまま一夜を過ごすことになった。

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