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子どものような大人になりたい

先日、とある市のまちづくりの議論に参加させてもらった。

参加といっても、大学の教授についていっただけで、主に聞いているだけだった。

でもその議論が、とても面白かったのだ。


それぞれのバックグラウンドを持った知的な大人たちが集まり、未来の「あるべき姿」について意見を交わしている。


そんな様子を見て、「私も将来、こういうところに混ざれる人になりたい」と思った。



そして、自分が将来あのような場に混ざるにはどうしたらいいのか、考えてみた。


大学教授が何人か呼ばれていたから、私も大学教授になったらいいのかな。
それか、企業人でも、突き抜ければあの場に混ざれるかもしれない。



しかし、ふと思った。「先日見たような議論の場に混ざるにはどうすればいいのか」を考えることは、的外れなのではないか、と。

なぜなら、あの場に集まった人の多くは、「自分が面白いと思うことを突き詰めてやってきたのちに、あの場に呼ばれた」からだ。



つまり、あの場に集まる「ために」活動してきたのではない。活動してきたことが何らかの縁によってつながって、あの場に集まっているのだ。



彼らは、「目的」と「手段」では説明できないような世界を生きているのかもしれない、と思った。



私が思う、子どものような大人


今の話につながりそうだと思ったので、私の大学での出来事について書くことにする。


私が行っていた大学はちょっと変わったところだったので、教授たちも枠にとらわれず面白いことをしていた。

音楽をしたり、散歩をしたり、雑談したり。

いろいろやっていくうちに、学問につながっていって、論文が書けちゃうみたいな生活をしていた(もちろん裏には多大な努力があると思うが)。



私は高校時代まで、「いい大学に入るために」勉強をしてきた人だったので、教授たちが目的を意識せずに遊んでいる感じがとてもいいなと思った。

とても人間らしくて、生き生きしている感じ。多くの人は忘れてしまっているけど、人って本来こうあるべきなのではないか、と感じた。



公園で遊んでいて、母親に「もう帰ろう」と言われても「嫌だ」と言う5歳児のように、今この瞬間に夢中になれるものにひたすら取り組んでいる人。

それが、私が思う「子どものような大人」だ。



「合宿が目的なんだ」


ある日、合宿をしたときに、教授が放った言葉が忘れられない。


「合宿で議論を進めることが目的なんじゃない。合宿が目的なんだ」


えええ、合宿が目的なんだ!と私は思った。

合宿は議論を進めるための手段だと思っていた私は、頭の中の認識がガラガラガラっと崩れ落ちるような感覚を覚えた。


そしてこう思った。確かに、合宿をすることが目的なのだとしたら、たとえ議論が進まなくても失敗したことにはならないし、何よりその瞬間を全力で楽しめる!


すべてのことを目的と手段で考えることが癖づけられてしまった私に、改めて立ち止まって、何が大切なのかを教えてくれたような言葉だった。



おわりに


私は大学で、「自分もこうなりたい」と思う大人たちにたくさん出会った。

そして彼らから、人生の楽しみ方をちょっとだけ学ぶことができた。



私は今、大学院で、知的な暮らしの楽しみ方を学んでいる。

正直、自分で自分の暮らしを楽しくするというのはめちゃめちゃ難しくて、普通に就職していた方が楽だったと思うこともある。


でも、せっかく手に入れたモラトリアムなので、振り返ってめっちゃ楽しかった!と思える生活をしたいし、就職してからも知的な楽しみ方ができるような生き方を身につけたい。



・・・だめだ、目的と手段で考える癖が抜けてない。



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