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博士課程に進学した理由

初めてTwitterで「研究用アカウント」を作り、修士や博士を含め、たくさんの研究者さんのツイートに触れるようになった。
その中で感じたのは、「みんな研究が好きなんだな」ということ。

反対に、私は研究があまり好きではない。
だから、自分の「異質さ」を感じるようになった(疎外感ではない)。
なので、自分が「なぜ博士課程に進学して研究を続けたのか」というのを書いてみようと思った。
(同じ感覚の人が少しでもいて、その人に届いたらいいかな、くらいの気持ち)

自分で決めたことをきちんと守らなければならい、という強迫観念があったから

今の研究テーマは学部の時に与えられたテーマで、当時、「ここまで進めたい」という思いがあった。
ただ、修士ではそこまで進められなかったので、博士課程で続投した。
私は訳(トラウマ)があって、「自分で決めたことはきちんと守らなければならない」という信仰を持っていた。
だから、修士で諦めるのではなく、博士課程まで引き延ばす選択をした。

社会に出る前に、トラウマをなんとかしておきたかった

訳(トラウマ)があって、「人と話さない」とか、「自分に無理強いをしすぎる」とか、社会に出るには不安要素が自分には多々あった。
それを改善したい(トラウマを克服したい)という思いがあって、学生の期間を延長(博士課程に進学)した。

「研究がしたい」というよりも、「トラウマがあって」博士過程に進学して、研究を続けた。
このトラウマは、自己嫌悪や自己否定の一番の原因だった。
学生なので、労働基準法とか関係ない。
いくらでも無理ができて、大嫌いな自分に研究活動という名目で無理強いをし続けてた。(趣味没収、休みなし、つらくて泣いてもやめさせない…etc)
ただ、これは「間違った行動」だとずっと思っていて、なんとかD2の終わりにトラウマを克服した。

「トラウマの克服」という、当初の目的を達成したのは良かったが、ついに「自分が研究をやる意味」を失った。
(トラウマを克服したらこうなることはわかっていたので、克服を躊躇していた部分もある。)
今までのことから、「自分が研究をすること=間違ったこと」という認識もある。

「理系で博士課程まで進んだのだから、研究職が一番就きやすいのかなぁ」と思い、とにかく職がほしかったので、たくさんの民間企業に研究職で志望したが、全滅。(当たり前!)
自分には「自分が研究をする」という未来が見えなかった。(やりたいことがない状態)
過去に行ってきた研究活動は、「自分にとって間違っていたこと」で、研究活動に付随することは自己PR等で声高に言うべきじゃない、という考えが働いた。(自分が頑張ったことをほぼ自分で握り潰していたと思う。)

それでも、博士課程に進んで後悔していないのは、「12年間抱えてきたトラウマを克服できたから」だと思う。
最後に、「1つのことを最後まで頑張り通す(博士号の取得)」ができれば、このトラウマは完全に浄化されるのではないかと思う。
その代わり、6年間頑張った(?)研究は捨てなければならない。
「研究」を「トラウマを克服するための手段」にした自分には、研究を続ける気力も、資格も、何もない。

周囲にはこのことを伏せているので、「研究をめちゃくちゃ頑張っていて、業績もあって、研究好き」という評価を受けがち。
実際は、研究について、ただ死ぬほどの努力をしただけである。
研究じゃなくても、なんでも良かった。たまたま、努力の対象が研究だったというだけの話。

本当に研究が好きで博士過程まで進んだ人には刺されそうな感じがいつもしている。
結局、「研究が好きで博士課程に進学する」のが、一番正しい選択だと、個人的には思う。


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