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シャアと大きな物語(ガンダムを見て考えたこと2018)

ガンダムがこんなに面白いとは知らなかった。無知であった。
どんな風に面白いと感じたのか、何を考えたのかを記録に残しておきたくて、これを書いている。
ここで言うガンダムは、1stガンダム、Zガンダム、(ZZガンダムは見ていない)、逆襲のシャア と連なる宇宙世紀(UC79-93頃?)のアムロ・レイとシャアの物語について話だ。

恥ずかしながら、僕がこれらをちゃんと見たのは齢30も過ぎたついこの間のこと。ガンダム放送開始から来年は40年という今年2018年だった。きっと来年アニバーサリーを色々やるんだろう。

以下、ネタバレとか気にしないで見て考えたことを書くので、(ビギナーが見て思ったことをつらつらと書くだけなので、)嫌な人がいれば離脱して下さい。

まず、1stガンダムについて。たぶんこれは結構長くなる。

■1stガンダム(1年戦争)
第1話からへーっと見始めたが、途中まで何を見せられているかがよくわからかった。途中からは、アムロが強くなるけど、その能力と戦争との間の葛藤で戸惑う話かと思い、だいたいエヴァンゲリオンと一緒かと感じた。ただ、それにしてはシャアの存在が妙に引っかかっていた。 エヴァンゲリオンにはシャア的なるものはいない。(たぶん)

その認識を大きく崩したのは、ララァ・スンの存在だ。
存在というよりむしろ消滅のときにそれを強く想った。
物語も終盤ではあるが、会ってまだ(なんだかんだ)間もないララァ・スンを(誤って)殺してしまった時、アムロ・レイは「取り返しのつかないことをしてしまった」と涙を流す。表面で流れている物語だけを見ていると意味がわからない。
ニュータイプ同士とは言え、2人はついさっき意識の交信を行ったばかり(物理世界的にも一応対面はしたが深いコミュニケーションはなし)なのだ。ニュータイプだからこそつながることが出来て、意識の交信が出来たというのはわかるけれど、取り返しのつかないこと、という言葉の強さはそれだけでは説明が出来ない違和感を感じる。
だってこれは戦争なのだ。人殺しが正当化される戦争において、1つの殺しがとりわけ取り返しがつかないと感じるのはなぜか。人を殺すことにも慣れてきて、戦争の中でそれを正当化しつつあったアムロが取り返しがつかないと感じた理由は何か。

どうでもいいけど、ビデオカンファレンス上ではじめてコミュニケーションするときに、英語ではNice to e-meet you. って言うのを最近知ったのだけど、さしあたってアムロとララァはNice to n-meet you.という感じだろうか。もちろん、nはニュータイプのnだ。思いつきで書いてみたけど、やっぱりすげーどうでもいい話だ。

「取り返しがつかない」というのは、たとえ他にもニュータイプがいたとしても、 お互いが 「代わりがきかない」ような存在であることを一瞬で認識したということだろう。
では「代わりがきかない」関係とは何か。色々あり得るとは思うが、それらを最も代表するものは家族だろう。ララァは孤児、アムロは家族とはすべて絶縁となったどちらも天涯孤独の身だ。お互いに相手に自分の家族として感じる親愛を感じたのだ。家族の代わりを作るのは簡単なことではない。
そして、ララァの「なぜ今なの?」という言葉に、その真意がある。どうして戦いの中で出会ってしまったんだろうか。そうでなければ、もしかしたら二人は(広義で)愛し合ったかもしれない。家族になれたはずなのだ、きっと。

その時、シャアはどうしていたんだろうか。
まずララァにキスをした。そして「私を導いてくれ」と伝えた。シャアにも身寄りはいない。いや、セイラさんがいる。敵陣にいるセイラさんが唯一の家族だった。ただ、その家族には前もって引導を渡し、 多量の金塊を渡して、戦場からは去るように伝えていたはずだった。でもセイラさんは戦闘機に乗って、その時のシャアの目の前にいた。
またどうでもいいこと書くけど、セイラさんにはなぜか「さん」をつけたくなる。
シャアがララァに「導いて」ほしかったことは何だろうか。まずは、自分を勝利に導いて欲しかったとは言えるだろう。ニュータイプの力によって、戦いの中で自分を導いて欲しかった。
もう一つ、抽象的だが、自分を良い方、正しい方に導いて欲しかったんじゃないだろうか。考えようによっては、単に自分のニュータイプとしての力を引き上げてほしかったともとれるけど、ここはそんなにシンプルな話ではない。身寄りなく育って自分なりの生きる意味、足がかりを模索し続けてニュータイプにたどり着いたシャアにとって、自分を無条件に受け入れて、自分に何が正しいかを教えてくれる存在=母なる力を求めていたのじゃないか。ララァが母親になったかもしれないというのは、(後述する)逆襲のシャアで、彼が実際に最後に言っていた言葉でもある。

では、ララァはシャアを導いたのだろうか。ある意味ではそうだ。ララァが声をかけていなければ、シャアは妹であるセイラさんを殺してしまっていた。彼女はある意味で母として家族殺しをしかけていた兄を導いたと言える。何に導いたのか?それは、家族殺しという戦争の抱える負の物語の中にシャアを閉じ込めることからだ。

一方でアムロは家族を殺した。彼は戦争の負の物語の中に飲まれ、帰る場所を完全に失った。彼の物語は死んだ。最終話の最後にホワイトベースが彼の戻る場所のように描かれているが、あれは彼個人の持つ物語ではなく、大きな戦争の中の一種のサイドストーリーのようなものだ。だから、Zガンダム登場したアムロは足場のない世界に生きてるように見える。
しかし、シャアの方も大きな意味で家族を失ったとは言える。母になるかもしれなかった存在が、自分を守るために死んだというのは、自分が殺したようなものと考えてもおかしくはない。
ここに戦争という大きな物語が、個人の持つ小さな物語を絶えさせるというメッセージを僕は強く感じる。
ララァが死んだ後の2話のアムロは、僕には戦う抜け殻のように見えた。

大きな物語と小さな物語。我々は往々にして、拡大志向を持つ、大規模で、合理的でわかりやすい物語の力の前に個人の持つ、小さくて、非合理で支離滅裂な物語の存在を見落としてしまう。そして大きな物語は小さな物語を静かに破壊してしまう。
これこそが、ガンダムの持つメッセージのコアのように感じたとか言うと、好事家たちから何を初心者がと言われそうだけど、とりあえずそう思った。そう思ってガンダムを好きになった。エヴァンゲリオンとは逆の方向だよね。
(エヴァンゲリオンもあんまり詳しくないので、異論はあるかもしれないが)
資本主義的な大きな物語の力の求心力とその終焉感を感じる今こそ、再評価の声が高まって良い作品だと思う。

続いて、Zガンダムについて。

■Zガンダム
ララァの死は、上記の小さな物語の死という絶望とともに、一方で(強い)ニュータイプ同士はタイミングが違えば、わかり合える、ニュータイプは一種の家族になれる、という希望を一欠片は残したとも読み解ける。
これはシャアの父であるジオン・ダイクンの思想からシャアが引き継いだものとも近しいだろう。新しい人類の幕開けによって、世界が平和に、そして個人の物語の許される社会の可能性。愛でつながり、わかり合えるユートピア。
しかし、これを無残に引き裂いたのがZガンダムのラストだ。(ちなみに劇場版のことは無視してます。)
カミーユによるシロッコの殺害と、シロッコがその道連れにカミーユの心を奪ったということは、端的に言うならば、やっぱり人類は例えニュータイプでもわかり合えない。それどころか心を奪うという究極的な個人の物語の剥奪を行った。もうカミーユには自分自身の(小さな)物語を生きることは決して出来ない。あらゆる愛が奪われた。

少し話はずれるけど、この辺りのことを考えると、富野氏の敬愛するキューブリックの「2001年宇宙の旅」において、人類がスターチャイルドとして新しい段階に入るという構想への、氏の共感と不安を感じる。

Zについては短いけど以上。最後に逆襲のシャアについて。

■逆襲のシャア
シャアは最後に大きな物語を、個人の小さな物語で飲み込んだ。(少なくとも飲み込もうとした) 大きな物語に対する小さな物語の小さな勝利。それが、この作品だと思う。
このラストを見て、この一連の物語の主役はアムロではなくて、シャアだったのかと感じさせられた。タイトルそのままだけれど。
では、シャアの小さな物語、個人の物語とは何だったのか。それはアムロとの決着をつけるということだった。十数年の因果と、彼に大きなきっかけを与えたアムロとの決着こそを、彼の自分が成就すべき物語に仕立てたのだ。だからこそ、敵に塩を送るようなことになる「サイコフレーム」の情報を彼らに与えるようなことをした。

シャアの「結局、遅かれ早かれ、こんな悲しみだけが広がって、地球をおしつぶすのだならば人類は、自分の手で自分を裁いて、自然に対し、地球に対して、贖罪しなければならん、アムロなんでこれが分からん」という言葉も、その内容如何より、アムロとの対立構造を明確にしたいという意図を感じるようにも思えた。もちろん背景にある話はそんなにシンプルでもないけれど、「アムロ、私はあこぎなことをやっている…」という台詞から見えるのは、アムロの個人的な決着のために、戦争や自分のカリスマ性や(彼の言う)愚民、父から受け継いだ思想までもを、すべて利用しようとしている意志のように感じられた。
シャアは大きな物語を乗り越えるために、大きな物語たる戦争そのものを欺いたのだ。あたかもその物語の中で生きてるような様子を偽って。

最後に2人はそれぞれの家族的存在になり得たララァのことを語り合い(叫び)、結果として地球を守って消滅することになる。
アムロ側の物語に視点を変えると、大きな流れとしては、彼は最後に地球を守るということを実現したとも言える。しかし、シャアの持つ物語の引力の方が強烈に思うのは、物語のスポットライトの当たり方だろうか。また、読み解き方を変えると、守ることの出来た地球を母の象徴ともとれると思う。母なる地球。アムロは最後に母を守った。重力に魂をひかれた人類が親離れを出来ていない存在。シャアが嫌悪感を感じるもの。
また、シャアはクェスに父親役を求められたために否定し、利用をしたと語った。それは、誰かに役割を与えられる存在を本能的に否定する、彼の彼自身の物語を成就させるための意志でもあったのかもしれない。

アムロの夢の中でのララァとの会話は、母と子の間の対話のようにも思える。
「シャアと僕を、いっしょくたに自分のものに出来ると思うな!」(アムロ)
「意識が永遠に生き続けたら拷問よ。私は貴男たちをみたいだけ」(ララァ)
「そりゃエゴだよ!」(アムロ)
「私は永遠に貴男たちの間にいたいの…」(ララァ)
「シャアは否定しろ!」(アムロ)
「彼は純粋よ…」(ララァ)
「純粋だと!」(アムロ)
ララァを母としたい願望が現れているとも読み解ける。そう考えると、アムロとシャアの決着は兄弟喧嘩のようなものかもしれない。旧約聖書のカインとアベルを思わせる。

ガンダムはまだこの3本しか(ほぼ)見ていない、次は何を見ようか、見ないか、色々評判などリサーチしながら、なんだかもう良いような気持ちもしている。

ガンダムを見て感じたのは、人間存在とは何なのかということだ。それは大きな物語の中の道具になるのではなく、自分の小さな物語を足搔きながら生きるということなのかもしれない。合理的ではない、再現性のない、何かの手段や道具にはならない、複雑に関わり合いながらも唯一に複雑でもあるちっぽけな存在として。合理性や再現性に魂を奪われてはいけない。
それにしても不思議な話だが、ほとんどの物語は1人では完結しないのだ。

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最後に、唐突だが、今読みかけのピンチョン「重力の虹」についての斎藤環先生のレビューから一言引用。
「意味に対して情報が、物語よりもパターンが、対話よりも通信が優位に成り行く世界。この社会でシステムと一体化した人々が、それでも「管理」に抵抗しようとするのなら、どんなことが可能となるか。その回答もまた、途方もないものだ。」(https://allreviews.jp/review/1803)
重力の虹は過去2回途中で挫折している。今回こそ読み終わるだろうか。若干絶望的な気持ちもある。2度あることは3度ある。

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