「満足」より「感動」

村上龍のエッセイの1編にあって、感慨深い内容だった。
なんでも、レストランへのリピーターに関するアンケートでわかったことは、そのお店に対してのお客の「満足度」は、リピート率との相関がなかったということで、お客のリピートに関係するのは「満足」よりも「感動」ということだった。

いわゆる客商売での「感動」は、ハード面(設備や清潔さ)やソフト面(技術やマナー)なんかは前提として必要ではあるが、基本的には客と接客とのコミュニケーションから生まれるのだそうだ。
今の世の中、いろんな人が寂しさを抱えていて、その寂しさを「大事にされている」という気持ちで優位に埋めることができるのだろうと著者は推測しており、その部分に関して私も深く納得する。

ただ、かといって「感動」を得ることが一般にリピート率を上げると表面的にとらえても仕方がない気もする。(最近、「感動」というワードそのものが安売りされている気配もひしひしと感じるし・・・)
本質として、人はおそらく足りない何かを誰かに充足してもらったときに「感動」という、いわゆるプラスの情動が生まれるのではないかと思う。そしてそれはそのまま、良い思い出、経験、体験として脳の奥深くの意識に刻まれ、そのうちまた自分の中の何かが損なわれてしまったときに、それを埋めようとして、人は過去の体験にすがろうとし、頼りたいと思う(つまりリピートしたいと思う)のではないか。

だから私のような病院勤務で、患者の満足を上げようと思うとなると、表層上の「満足」を得ようとするのではなく「感動」。ここではつまり、病院という場所で抱える「不安」「心配」「怒り」を払拭できるような経験を患者に与えることではないか。
 もちろん、患者の満足のためにわざわざ売店に頼まれた買い物をするというのが悪いというわけではない。助かったな、優しい職員だなと感動を生むことももちろんあるだろうし、もちろん感謝もしてもらえるだろう。ただ、そんなものを普段からの目標に据えて、自分の仕事は患者に満足を与えている、役に立てているとカタルシスを得るのはプロフェッショナルという観点からみるとナンセンスだなとは思う。
 要は患者が医療者にもっとも埋めてほしいと期待する部分というのは、先の見えない不安や恐怖を払拭してもらうこと。それはつまり治療や施術やケアによる根本的な病巣の治癒と快復であり、説明や提示による納得と理解であり、プロフェッショナルな面を誠意をもって行うことにより、患者の覚悟を引き出すことであると私は思っている。

だからこそ、私は自分も患者も納得がいくような医療を届け、期待されていることに当たり前に応えたいという思いから、学び続けること、チャレンジしつづけることはいつまでたっても怠りたくないなとは思う。


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