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【俳句】富澤赤黄男をよむ

 俳人・富澤赤黄男(とみざわ かきお)とは珍しい俳号である。

 「あの人は思想的にアカでも、軍隊のキイロでもない。それで二つをくっつけて赤黄男と名乗ったらしいよ」
(創風社出版『赤黄男百句』坪内稔典・松本秀一編より)

 氏は明治から昭和にかけての戦時を生き抜いた人であるから、なるほど、と思う。

 赤黄男は明治三十五年七月十四日、川之石に生まれた。今の愛媛県八幡浜市保内町川之石である。(中略)彼が俳句に関わるようになるのは郷里の第二十九銀行に勤めた昭和五年以来らしい。川之石では銀行勤務に並行して父と木材会社を経営したが、その事業に失敗、今度は妻の母とセメントを入れる紙袋製造会社を大阪・堺で起こす。その仕事もうまくゆかず、妻の実家の関係の酒造会社へ入った。(中略)時に三十四歳、一児の父であった。翌年から十九年まで兵役につくが、除隊後はいくつかの会社を経て、昭和二十三年には水谷静壺の関西タール会社に入社、東京事務所所長となり、定年退職まで勤める。
 (創風社出版『赤黄男百句』坪内稔典・松本秀一編より)

 起業をして、職は転々と、兵役にもつく波乱万丈な人生だ。

 美しきネオンの中に失職せり
 自転車がゆきすぐそのあとを闇がゆく
 豹の檻一滴の水天になし

 私は俳句を始めた頃、赤黄男俳句に感銘し、その感動を共有しようと、私の所属する会社の掲示板に(勝手ながら)貼りつけた。はたして同僚たちが見たかどうか。しかし、その紙だけは、一年以上も破棄されなかったから、きっとよかったに違いない。
 俳句を知らない人にも、何となく”いいな”と思わせる詩情があるのではないか。私は、赤黄男俳句に「分かりやすいけど、言語化できない透明感」を感じることが多い。戦争の悲しい体験を織り込んだ句でさえも、綺麗だなぁと思う。句の字余り(五七五ではない句)は多いけれど、濾過される前の実直な言葉に心うたれる。

 今回は、創風社出版『赤黄男百句』坪内稔典・松本秀一編より、句をいくつかご紹介したい。選と解釈は私個人の感想であるため、ご参考程度にお読みくだされば幸いである。尚、創風社出版『赤黄男百句』坪内稔典・松本秀一編には、プロの俳人の方々の鑑賞文が掲載されているため、気になった方はぜひそちらのご参照を。

 

 少年の雲白ければむく蜜柑

 俳句の鑑賞は、やはり理屈ではないなと思わせる。報道等の簡明さのみの説明文とは一線を画すところだ。
 真っ白な雲のもと、少年は蜜柑をむく。この情景は、穢れなき少年のこころと響きあうようだ。
 蜜柑は冬の季語である。しかし、なぜか夏の景に感じてしまうのは私だけだろうか。白いランニングシャツ姿、夏服、白ワイシャツ姿の少年。
 また、俳人の児玉恭子氏は、「蜜柑」は作者ではないかとみている。蜜柑を剥く、脱皮する、少年の成長という解釈だ。面白い。思春期、心身ともに成長する青少年らの未来を予祝するかのような空が感じられる。

 瓜を啖ふ大紺碧の穹の下

 啖ふ(くう)は、”食べる”の意だ。啖ふと表現し、瓜にかぶりつく印象。大紺碧(だいこんぺき)の穹(そら)は、大きなおおきな青空、その青は黒みを帯びた深さがある。
 紺碧、穹と、難しい漢字が多い。その効用か、重厚感が増し、空の存在は一段と力強い。瓜にかぶりつく人の何らかの強い意思を感じはしないだろうか。

 一本のマッチをすれば湖は霧

 マッチを擦る。刹那燃え上がる。その僅かな間、眼下にひろがる湖は霧のなかに。
 湖は本句の場合、”うみ”と読む。一本のマッチを擦ることと、湖に霧がかかることに物質的因果関係はないかもしれない。しかし、こころの働きにおいては、関係があるのだ。マッチの燃え上がる瞬間と、湖の霧は、その儚さにおいて、その揺らぎにおいて、その幽玄さにおいて・・と、私の語彙力では到底表現しきれない詩情がある。

 蝶墜ちて大音響の結氷期

 ひらひら舞っている蝶が、突如、はらりと墜ちる。その瞬間、ガァァン!と氷河期に。
 (ば、、、莫迦なっ!)本句に出会ったときの私の率直な思いである。
 俳句の凄さ、いや言葉の可能性をこれほどまでに感じさせてくれる句もなかなか無いだろう。
 蝶が落ちるではなく、墜ちる。まさに飛行機の墜落のような衝撃が、氷に触れた瞬間に起こるのだ。風のような蝶の羽、永久に溶けないかと感じられる硬質な氷。両者の接触は大音響のもと、春から氷河期へと瞬時に変わる。科学的には全く意味がわからない。しかし、蝶の命の重み、死の哲学は確かに感じ取れる。蝶は地に落ちても無音だろうが、生命の律動、地球の鼓動は氷河の激しい音と共に、蝶の死を受け止める。

 大地いましづかに揺れよ 油蝉

 耳がふさがるばかりに蝉はないている。そのなかで筆者は大地を揺るがすほどの強い意志をもっているのか。”揺れよ”直後の一音の空白は、筆者の静と、鳴声の動を際立てる。平安時代の歌人・紀貫之は「力なく天地をも動かし」といったが、まさに、いま、筆者は大地を揺らすほどの意志力(しかし、それは静かなる無からの働きである)を発動させているのか。
 蝉は命がけで鳴き続け、その短い生涯をとじる。筆者と油蝉の気高き覚悟に敬意を表したい。

 流木よ せめて南をむいて流れよ

 人も自然も、循環が大切だ。水、酸素、栄養、その他すべての物質は、惑星の運行のもとに巡る。この宇宙の持続可能たる所以だ。しかし、その流れ一つ一つは偶然の産物であり、特別な意味をもたないのだろうか。
 日本列島の太平洋岸を流れる黒潮、親潮は周知の事実だけれど、「流木よ、せめて南をむいて流れよ」と作者は願う。北ではなく、南。より温かく豊かな世界へ向かうのだ。人の意志は、自然の法則をも超越するのだろうか。
 流木よ、の後の一音の空白。作者の願いのちからが凝縮したゼロポイントに違いない。

 以下に戦争の体験が色濃く残る句をいくつか掲載し、本稿の終わりとしたい。

 やがてランプに戦場のふかい闇がくるぞ
 秋風のまんなかにある蒼い弾痕
 砲音の輪の中にふる木の実なり
 鶏頭のやうな手をあげ死んでゆけり

 困憊の日輪をころがしてゐる傾斜 (日輪は合わせて”ひ”と発音)
 一輪のきらりと花が光る突撃

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