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【私論】知の拠点たる図書館

 近年、インターネット環境のない人は極少数になった。パソコン、スマートフォン、タブレットなどが普及したことにより、デバイスは一家に一台から、一人一台と言っても過言ではない時代になりつつある。日本でインターネット元年と呼ばれる1995年から僅か四半世紀余りで、通信技術と融合したIT(情報技術)は目覚ましい進化を遂げている。そうした中で、情報資源の収集、管理、保存を行う図書館では、時代に即した対応が社会から求められている。

 図書館とは、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする機関である。このことは、日本図書館協会の「図書館の自由に関する宣言」の冒頭に記されており、即ち国民の知る自由に応えるべく、収集した資料を分け隔てなく公開し、貸し出す役割を図書館は担っている。

 図書館資料には、利用者からの求めに応じて提供される様々な形状の資料がある。それらは物理的な側面により、或いは利用上や運用上の利便性などにより、分かりやすく整え分類されている。情報伝達媒体としての紙が発明されて以来、図書館はもっぱら紙を素材とした資料を軸に収集、保存してきたが、今日では紙以外の印刷技術を用いない資料が増え、物理的な分類ではその二つに大きく分かれるようになった。

 即ち、「ネットワーク情報資源」の登場である。これは図書館史上、及び出版史上における革命的な大転換である。

 ネットワーク情報資源とは、図書館情報学用語辞典によると、「インターネットを基盤とするコンピュータネットワークを介して探索、入手、利用可能な情報資源」のことである。電子書籍や電子ジャーナルのみならず、一個人のSNSやウェブページもこれに該当する。言い換えれば、インターネット上の誰かが発信した情報ということであり、情報元の信頼性や情報そのものの正確性を疑うべきものも含まれる。また、切り貼りされた断片的な情報によって、誤解を生むこともある。
 一方で、出版物に代表される伝統的な情報資源にはない利点として、蓄積する情報量に上限がないことや、即時発信、即時更新の大きな魅力がある。
 世界規模の検索エンジンを持つGoogle社の使命は、常に最新情報をリアルタイムで検索者に提供することにあり、現代人の情報検索は主にインターネットを介して行われるようになった。

 故に、情報資源をただ網羅、陳列しているだけならば、図書館は社会的な意義を成さない。専門的な見地で精査、分類した上で、利用者に分かりやすく情報を提供する必要がある。
 また、情報が溢れ返る社会だからこそ、図書館には埋もれた貴重な情報を掘り起こす責務がある。

 その一つが、「灰色文献」と呼ばれる資料である。

 灰色文献とは、流通が不明確で通常の出版経路に乗らず、入手困難な資料のことである。政府刊行物、地方自治体が作成した資料、学位論文などもこれに該当する。また、自費出版や非売品の書籍、或いは存在そのものが未確認の書籍なども含まれる。
 なぜ「灰色」と表現されているかというと、市販されて誰でも入手できる資料を「白」、政治や軍事の機密事項が記入されている非公開文書などを「黒」としている為、その中間に位置する資料として、そのように呼ばれている。

 一般に流通しない分、灰色文献は資料的な価値が高いものもあり、近年ではその多くが印刷されず、例えばホームページ上などに掲載されるようになった。以前は入手困難だった大学の研究資料なども、誰しもインターネットを介して閲覧できるように変わりつつあるが、それらが永続的に入手可能な資料とは限らない。更新や削除、サイトそのものの閉鎖などが考えられる。サーバの思わぬ不具合などによって、情報が消失する危険性も孕んでいる。
 故に、国民の知る権利を保障する機関たる図書館が、これらを収集、管理する意義は大いにある。

 要するに図書館員には、高い専門性と利用者に対する献身的なサービスが求められるが、近年の民間委託に代表される経営の効率化を推進するほど、非正規の短期雇用が増えるようになり、そのような図書館員は育ちにくくなる。
 また、図書館無料の原則(図書館法第17条)により、利用者がどれほど増えても利益にならない為、利用者を減らすことこそが、実は経費削減になってしまう。
 無論、民間企業の知恵や技能を活用することで新サービスを生み出すなど、民間委託には利点もあるが、レファレンス業務(調査相談)を含む本来的な役割が疎かになり兼ねず、今日的な課題である。

 図書館員の重要な役割としては、子どもに対する働きかけ、いわゆる児童サービスがある。

 児童サービスとは、読書習慣が子どもに定着するような活動や工夫を行うことである。学校図書館はもとより、公共図書館においても読み聞かせやブックトークなどの社会教育が必要になる。
 子どもたちは近所の図書館に通い始めると、様々な人が図書館を利用していることを知る。そして、その場所と資料が多くの人たちとの共有財産であると肌で感じ、公共性を理解するようになる。
 これは「買う」という行為をもっては、得られない体験である。子どもが自分たちの手で情報(書籍)を借りて返すことは、豊かな人間性の獲得に繋がる。

 情報とはお金に似て、利用されることで価値を発揮する。或いは、使い方によって価値が決まると言っても良い。いずれにせよ、私の物という意識では、世の中に貢献し得ない。

 そもそも世の高所得者とは、なにかしらの能力を見込まれ、より良いお金の使い道が出来ると社会に認められているからであり、単純な報酬などではない。
 いわゆる学者も同様である。学ぶことを生業として社会に認められている以上、学んだ成果は公の情報として、出し惜しみなく発信する必要がある。そして、生涯に渡る学びを先導し、社会全体の持続的な学習意欲の向上に寄与しなければならない。

 急速に変化する社会においては、誰しも生涯学習が不可欠である。新しいことから目を背ける姿勢では、これまで身に付けて来た技能をも腐らせてしまい、個人にとっても社会にとっても多大な損失になる。
 今後も持続可能な社会を築いていく為にも、各々の学びを発信し合う「知の循環」は極めて重要であり、その情報センター機能としても、図書館は積極的に利用されるべきである。ハコモノとして存在する限りは、やはり知の拠点たる場の提供が欠かせない。

 交流の場はインターネット上にも数多く存在するが、所詮それはディスプレイ越しの「通信」に過ぎない。人は五感をもって相手を認識し、喜怒哀楽を分かち合う生き物である。機械的な交流に僻してはいけない。あくまでも活用する姿勢である。

 具体的な実体験を促すべき子どもには、図書館というハコモノは有効に働く。通信によって電子書籍を図書館から借りた場合、貸出期間が過ぎると自動削除されるような仕組みであるが、子どもはその行為を具体的に認識しづらい。図書館員と向かい合う伝統的な貸出が、先に述べたような社会性を育む。借り物である以上、子どもとて丁寧に扱わなければならない。

 だが、由々しきことに、書籍を大事にする躾が失われつつある。かつての日本人は、情報を神のように尊く扱った。「紙」と「神」の同音は、偶然の一致ではない。
 今日でもあらゆるスポーツにおいて、相手の情報をより多く知っている方が有利であり、それはビジネスにおいても変わらない。知っている方が得をして、知らない方が損をする。

 多くを知る為に、図書館が最適な場であることは言うまでもないが、読書の本義とは、課題解決の先にあり、新たな自己課題の発見を伴う。一見役に立つ情報ばかりを掻き集める姿勢では、読む喜び、延いては学ぶ喜びに出会うことはない。
 規律と試験による課題解決に追われている(受験競争の弊害)子どもたちにこそ、読む自由を与えるべきであり、大人たちの干渉は不要である。こう読むべきという模範解答は、大人のエゴでしかない。

 公共図書館として読む自由を確保する為には、まず資料の偏らない選定が不可欠である。各地域の特色を出し、利用者の声を汲み取りつつも、頻繁に利用する常連の要望を叶えるばかりの対応では、公共性も維持できない。

 また、建設的にIT技術を取り入れ活用するべきだが、自動貸出や自動翻訳などの機械もただ一新すれば良いのではなく、やはりバランスが重要になる。高齢者の多い地域であれば、機械操作に苦慮する利用者が多発すると予想され、最先端機器の導入には、その案内方法を含め、慎重に検討しなければならない。
 いわゆるデジタルネイティブの世代以降と、それ以前では、初見の機械に対した時の反応が大きく異なる。今後の図書館では、前者の新たな世代が図書館を運営するようになる為、これくらい分かるだろうという思い込みによって、高齢者を遠ざけるような改革を推進し兼ねない。苦情を言ってくれる人よりも、言わずに利用しなくなる人の方が遥かに多く、分かり難いなどの声があった際は、有難い指摘だと捉え、真摯に向き合い、利用者の立場に立っての再考が求められる。

 これまで本稿で述べてきた通り、図書館は社会のあり様に沿って変化し、停滞を嫌う性質を備えている。書籍の電子化が進むほど、行政改革における印鑑不要の議論のように、ハコモノの図書館に対する風当たりは強くなると思われるが、社会から不要の烙印を押されない為には、今後も臨機応変に、「知の拠点」たる存在感を高め、図書館の魅力を自ら発信していく必要がある。それを担うのは、書籍の魅力と共に伝えられる人であり、情熱である。
 利用者が人である限り、図書館員もまた、人でなければならない。

 機械にはできない仕事が、そこにはある。

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