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【小説】クサプリオ

 今はどうなのか知らないが、名古屋駅で大きい用を足す際は、くれぐれも注意する必要があった。トイレットペーパーが設置されていないのである。
 僕はあの時の衝撃を忘れない。数人の列に並び、漸く辿り着いた先で思わず叫びそうになった。神は死んだと。さながらニーチェである。不幸中の幸いは、用を足す前に気付いた点であり、何も流さずにボックスを出たところ、トイレの出入り口付近に紙の自販機がしれっと立っていた。お布施を出さねば救わぬ神ということか。
 加えて、名古屋駅は二つの主要出入り口の名前が特殊である。なぜか北口とか南口などと言わず、桜通口と太閤通口という洒落た名前が付いている。初めて訪れた際は、電話でどちら側にいるのか訊かれ、読み方に困惑した。その二つを結ぶ構内の広い一本道は、毎回人の往来が激しい。外の街中はそうでもないので、乗り換えに利用する客がかなり多いと思われる。


 僕が最後に利用したのは、もう四年前の六月である。心置きなく白い歯を見せて笑える頃、世間のあり様にまだ明るさがあった。
 上がるばかりの高齢化率や広がるばかりの経済的格差などは、行き交う人々を見ただけでは無論分からない。不気味な程安い衣料品が出回るようになり、一見して貧しそうな人は街中から減った。
 名古屋駅の構内となれば猶更のこと。僕も都会的に整えた身なりをして、ぺちゃんこの黒い鞄を持っていた。私見になるが、やはり出来る男は荷物が少ない。そして、とろとろと歩かず、迷いのない足取りで桜通口を出ると、右脇にある階段を下り、昭和レトロな地下街を通った。向かった先は、東山線の改札口である。

 藤が丘行きの鈍行電車を待つ列は、停車予定の車両ごとに長く伸びていた。比較的少ないところに並んだが、どうにも座れそうにはなく、昼下がりの日曜日らしい混み具合であった。
 僕は吊革につかまり、ドアの頭上にある四角いモニターをぼんやり眺めた。行き先を示す黄色い路線図には、見慣れぬ駅名が並んでいた。僅か五分程で降りたのは、名古屋から二駅先の栄である。

 その先は待ち合わせの喫茶店まで、すんなり行きつかないことを想定していたが、駅の最寄りと聞いていた出口から地上に出ると、あっけなく見つかった。これといって特徴のない、女性に好まれそうな洋風の店構えである。
 少し観光しようか考え、愛用する某R社製の腕時計を見た。遅刻厳禁の待ち合わせまで、一時間強という微妙な空き具合であった。その上、梅雨晴れの蒸し暑さが全身に纏わりついていた。
 どこかへふらっと行き、汗をかいた状態で会うわけにはいかない。出来る男は夏でも涼しげである。
 そのような思いに至り、空調の利いた店内に一人で入った。まさに都会のオアシスである。思わずほっと息を吐いた。

 カウンターのメニュー票の中からアイスカフェラテを注文する際、バイトと思しき女性店員の胸に目が行った。黒いエプロン越しにも分かる、か細い体つきに不当なまでの膨らみであり、何か入っているのではなかろうかと訝った。言い訳がましいが、情欲を覚えての視線ではない。思い出されたのは、先日ネット上で噂になった面白い事件である。
 スーパーで或る初老の男性が、若い女性店員に「乳を出せ」と強く迫り、逮捕されると、「牛乳が欲しかっただけ」と供述したらしい。
 なぜその人は、牛の乳と言わなかったのか。
 くしくも、僕が注文したのはアイスカフェラテである。大きめのそれを受け取った際、乳が入っていることを意識して、ぷっと吹き出しそうになった。

 満員に近い店内を見回すと、隅にある二人掛けの席が空いていた。小さなテーブルを挟み向かい合う形である。
 奥の方に座り、時間を確認した。うっかり眠らぬように文庫本を開いた。席の間隔は、賃料の高い都会ならではの近さである。隣の話声が良く聞こえた。二人とも熟練したビジネスマンの身なりであり、いかにも真剣な顔つきだが、どうやらアイドルグループについて語っていた。

 程なくして、その二人のオタクは立ち上がり、入れ替わりで小太りの中年男性がやって来た。ぴちぴちの白いワイシャツを着て、カウボーイハットを被り、手にはアイスコーヒーを持っていた。乳なしの黒である。
 彼はアニメかゲームか、二次元の方のオタクに違いない。
 芽生えた偏見によって、僕はそのように予想した。なんとなく誰かを待っている雰囲気であり、どういう人が来るのか楽しみになった。失礼ながら女性が、とりわけ魅力的な人が来るとは思えなかった。
 すると、やはり冴えない男性が現れた。彼の方が年上に見えたが、カウボーイハットに向かいぺこぺこと頭を下げた。身なりはしっかりしていて、ぺちゃんこの茶色い鞄を脇に抱えていた。
 意外に出来る男やもしれない。
 そう思うと同時に、実は自分も冴えない人に見られてはいないかと不安になった。ふと見た窓ガラスは、その姿が映りそうで映らなかった。
 だが、どう見ても僕は一回り程若かった。腕時計はしきりに見てしまう程かっこよかった。かつて四丁目のディカプリオと呼ばれた僕のことを、地元の町内会で知らぬ者はいない。腐ってもディカプリオ、要するにクサプリオである。

 隣の二人は初対面の様子であった。カウボーイハットが落ち合う目印になっていたようで、被っていた男性はそれを取った。始まったのは就職の面接である。オタクの会合ではなかった。聞き耳を立てるまでもなく、やはり彼らの話は聞こえてきたが、一切無関心を装った。
 面接を受ける側、即ち後から来た男性は、調理師の資格がある点と、これまでの豊富な職歴をアピールして、キッチンスタッフを希望していた。新しく居酒屋を立ち上げる予定の面接官は、やや偉そうな態度で幾つか質問をした。手元には写真付きの履歴書があった。

「駄目ですかね?」
「いや、まだ何とも言えません。後程ご連絡しますので、それまでお待ちください」
 面接は十五分程であった。物悲しく立ち去る男性は、雲行きが怪しいことを察しているようであった。
 すると、面接官はまたカウボーイハットを被り、スマートフォンを指で操作した。

 次にやって来たのは、長い髪をベージュ色に染めた愛想のいい女性である。黒いブラウスを着て、甘い香りを纏っていた。二十代前半に見える鼻筋の通った顔は、待ち受ける面接官の鼻の下を伸ばした。
「暑かったでしょう。何か買ってきなよ」
 小太りの面接官は、太っ腹を見せつけようと千円札を差し出した。先程の男性にはなかった対応である。
「いいんですかあ?」
「もちろんだよ」
 僕は薄笑いを悟られぬように俯き、このエロオヤジが!と心の中で叫んだ。

 数分で戻ってきた女性は、小さめのアイスカフェラテをトレーに乗せていた。お釣りを受け取った面接官は、その金額を確認しなかった。
「カフェラテはイタリア語、カフェオレはフランス語」
「そうなんですねえ。凄い。知りませんでした」
 面接官はカウボーイハットを取り、得意げな顔で眉を上げた。
「じゃあさ、日本語だとなんて言うか知ってる?」
 カフェチチ。僕は心の中でそう呟いた。
「えーっと・・・コーヒー牛乳?」
「大正解」
 女性はわざとらしく手を叩いて喜んだ。面接官は明らかに何かを勘違いしていた。

 漸く本題の面接が始まると、女性はフロアスタッフを希望して、学生の頃から居酒屋でバイトをしていたと語った。明るい髪色がネックになると思ったのか、いつでも黒く出来る旨を自分から言い出した。
「そのままでいいよ。髪も大丈夫。一緒に頑張ろう」
「え?」
 思わず僕も女性と声を合わせそうになった。
「採用ですかあ?」
「もちろんだよ。君みたいな人に是非来てほしい。というか、君は僕の店に来る運命だと思う」
「はい。私もそう思いますう」
「俺ぐらいになるとね、人をぱっと見ただけで分かるんだよ」
「流石ですう」
 僕は小さくため息をつき、女性と一瞬目が合った。そらした先は腕時計である。僕の待ち合わせ時間が迫っていた。

 どうしようか考えていると、面接を終えた女性がにこやかに席を立った。そして、僕のスマートフォンにメッセージが届いた。
 お疲れさまです。連絡がギリギリになり申し訳ありません。お店の前とお伝えしましたが、中に入っていただき、向かって右奥の席に来てください。私はカウボーイハットを被っています。何卒宜しくお願いします。
 全くお気づきではなかった。ずっと隣に座っていることを。
 予想もできていない様子の面接官は、操作していたスマートフォンをテーブルに置き、カウボーイハットを被った。

「こんにちは。はじめまして」
 演技派のクサプリオは、待ち合わせ時間ぴったりにそう声をかけた。面接官は怪訝に眉をひそめ・・・、はっと手元の履歴書に目を落とした。小さな証明写真には、得意満面の笑みが写っていた。
「とりあえず、何か飲みます?」
 彼は今にもトイレに駆け込みたいような顔をして、鞄から財布を取り出した。

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