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【私論】未来のためにできること

若かりし頃、アジアの最貧国に長期間滞在し、日本のそれとは性質の異なる貧困を目の当たりにした。

人懐っこい現地の女の子たちを写真に撮っていた時、怪しげな大男が近寄って来て、いわゆる児童買春の誘いを受けた。白昼堂々、「small girl」と強調して何度も言った。私は弱々しく「no」と答え、媚びるように笑った。逃げるように立ち去った。殴れなかった拳を震わせながら。


そのことを帰国後に打ち明けると、異口同音に私の腰抜けぶりは正しいとされた。せめて怒りを露わにするべきであったなどと、誰一人言わなかった。


仮に、猛然と立ち向かい、それをきっかけにその手の犯罪の撲滅に動いていたら――

ほんの少しだけ、世界を良い方に変えられたかもしれない。

だが、実際に悪と直面した時、自己防衛の作り笑いでやり過ごそうとする。それが私の恥ずべき実体であり、ここでは一例を挙げたに過ぎない。


様々な経験を重ね、私も、世界も、純然たる正義からかけ離れていることを学んだ。それを前提に、何ができるのかを考えなければならない。かの国で撮影した子供たちの笑顔を見返すと、つつがない未来を祈る思いになる。


日本の子供たちに目を向けると、昨今は口元にマスクを付けたまま走り回っている。政府から炎天下ではマスクを外すように“お願い”があったはずだが、一度浸透した教育とは恐ろしいもので、息苦しさより外すことへの抵抗が勝っている。

その道の専門家によって、こうした方が良いという客観的な判断が示されても、根付いた偏見はなかなか覆せない。


偏見とは、疑心暗鬼に似た鬼である。

言うまでもなく、鬼のような目で人を見てはならない。私が最も危惧しているのは、増え続ける外国人労働者に対する目であり、何も知らない子供たちがそれを真似ることである。無垢な心に鬼が生じてしまえば、悪気なく排他的な考え方になり、遠い国の諸問題に関心を寄せなくなる。関心の輪が広がらなくなってしまう。


先日、小海線を走るローカル電車に乗った。お盆期間中のせいか観光地の清里で人がどっと増え、小さな子供も数人座れなかった。

私が側にいた男の子に席を譲ると、目の前に座っていた外国人労働者風の男性が隣の仲間二人に声を掛けた。寝ていた一人は起こされた。そして――

先導した彼が私を見て両眉を上げた。私も眉を上げ返した。

子供たちはどう感じたであろうか。ちっぽけなことだが、優しさは世界共通であると伝えたい。

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