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【小説】地獄行きの亀

 実家で平穏に暮らしていた頃、当時八歳の甥っ子を自室に招いて、算数を教えたことがあった。正月休みの部屋の中は、ストーブの熱で暖かかった。
「今度は一人でやってみて」
 甲板こういたの丸い座卓で幾つか問題を解かせようとしたが、胡座あぐらを組んだ甥っ子は次第にそわそわして・・・
 本を読んでいる僕に途中で声をかけてきた。
「おにいちゃんは、なんで勉強してるの?」
「弁護士になる為だよ」
「やっぱりそうなんだ。じゃあ止めた方がいいよ」
「どうして?」
「あのね、弁護士は地獄に落ちるんだって」
 誰か大人が吹き込んだそれは、弁護士を悪者扱いにした古典的なアメリカンジョークに違いなかった。
「今のおにいちゃんだったら天国に行けるもん」

 に受けてはいなかったが、法科大学院に所属していた僕は、前途洋々たる若者で、この先に地獄が控えているなどと考えもしなかった。

 風向きが変わったのは卒業後・・・
 二年連続で司法試験に失敗した。実家にいづらくなった。姉の離婚も影響した。二人の子供のうち、姪っ子はもう十三歳だった。姉家族が両親の助けを得て実家で暮らすとしたら、僕は明らかに邪魔者だった。両親も孫の面倒をつねづね見たいと思っているはずだった。
 しかし、僕の腰は重かった。生まれてこの方、上げ膳据え膳で暮らしてきたばかりに、一人暮らしへの不安があった。来年の試験に向けてのそれと重なり、もはや不安を超えた恐怖になっていた。新しいことを始める自信がなく、法律事務所での非正規雇用の仕事もやる気が出ず、硬い甲羅こうらの中にずっと籠っていたい気持ちだった。先送りして、姉家族に迷惑をかけているだけだと分かっていたが、両親との会話を避けるようになり、自分から引っ越しを切り出せなかった。

 そんな或る日の晩飯に、姉家族がやってきた。和気藹々わきあいあいとした雰囲気だったが、僕はろくに喋らないまま、いち早く食べ終えて席を立った。姉の困ったような視線を尻目に。階段を上がり、自室で一人になった。水をさしたことは分かっていた。
 ほどなくして、甥っ子の甲高かんだかい怒声が僕の耳まで明瞭に届いた。
「おにいちゃんをイジメるな!」
 僕は思わず立ち上がったが、恥ずかしさが全身に燃え広がり、すぐに膝を折った。どんな話をしていたか察しがついた。十歳の甥っ子にかばってもらわなければならなかった。あまりに情けなくて、いたたまれなくて・・・
 ようやく、尻に火がついた。今すぐにでも家を飛び出したい気持ちになった。父に頭を下げて引っ越し代を借りてでも。

 そして、決めた単身者用の手狭い新居は隣町だった。西向きの窓から、ささやかな神社の石鳥居が見えた。いっそ遠く離れた場所に借りようとも思ったが、自家用車を持たない身で勤務先に通う事情を考慮した結果、やや臆病にならざるを得なかった。それは小学生でも行き来できる道のりだった。
 故に、実家で暮らし始めた甥っ子が、月に二三回遊びに来た。引っ越した日は十一月の小春日和だったが、次第に寒さが厳しくなる中でも、小振りな自転車を漕いでやって来た。勉強を習う為ではなく、背負うリュックサックにはかつて僕の読んだ漫画本が数冊入っていた。だらっとくつろいでいるだけで、わざわざ来る目的はないように見えた。小遣いを強請ねだられることもなかった。

「おにいちゃんは亀なんだ」
 唐突にそう言われた際、鈍間のろまという意味かと思いながら首を傾げた。
「兎と亀の亀」
「はあ、なるほど」
「いつか絶対、おにいちゃんは偉い人になる。僕には分かるんだ」
 算数を教えた頃より随分大人っぽくなった。僕の現状を恐らく理解した上で、勉強を止めた方がいいなどと言わなくなった。子供なりの励まし・・・いつか偉い人になると。
「ありがとう。そうかもしれないね。人間大事なのは、こつこつやることだよ。例え目先の結果が出なくても」
「流石おにいちゃん。でもさ、たまには悪いことをした方がいいと思う」
「息抜きってやつだね」
「世の中で偉くなった人は、だいたい悪い奴なんだ。僕のおとうさんも本当はそうらしい」
「それは・・・なんとも言えないが」
「だから両方必要だと思うんだ。亀と悪」
「へえ、面白い言い回しだね」
「おにいちゃんに足りないのは悪。きっと悪いことを覚えたら凄い人になるよ」

 その二月初頭の日を境に、甥っ子の来訪らいほうが途絶えた。僕を嫌いになったというより、何かやりたいことを見つけたのだろうと思ったが、週末の夜になると、心の隅で電話――明日行ってもいい?――を待っている寂しさに気づいた。
 思いの外、一人暮らしの食事やら洗濯やらは容易たやすくできた。誰からも頼られなくなったことで、生きる意味について考えるようになった。仕事以外での会話はほとんどなく、僕の代わりに仕事をする人は幾らでもいて、次こそ司法試験に受かったとしても、孤独で辛い日々は変わらない気がした。そういう人に寄り添う、罪を弁護する役割を目指しながら、生き様を誰かに弁護してほしい気持ちだった。
 高校生の頃は、県内の進学校において白眉はくびたる学業成績だった為、すえは医者か弁護士かとおだてられて、それに応えられると過信してしまった。進学後も優秀な方だった。見様によっては兎かもしれないが、能力を出し尽くしたことはあっても、ゆめゆめ油断したことはなく、不断の努力を積み重ねてきた。不器用に、真面目に、亀のように。

 すっかり春めいた三月中旬の或る日、手持ち無沙汰になり散歩に出た。風のない午後だった。明るくかすんだ遠い山々を背景に、桜の蕾がちらほらほころびかけていた。
 最寄り駅の辺りまで来て、平日の閑散とした広場をぶらついた。沈丁花じんちょうげの香に触れながら、公共の足湯あしゆのある東屋に近寄った。屋根の下には高齢の女性が二人、離れて浅く腰かける男の子が一人・・・瞬時に二度見してしまった。俯いて眠っている様子の彼は、かたわらの青いリュックサックからして、紛うことなく甥っ子だった。
 僕は女性たちに頭を下げると、ズボンの裾を膝上までまくし上げて素足になった。ふくらはぎから下を湯につけて座った場所は、リュックサックを間に挟んだ甥っ子の右隣りだった。
 眠ったまま前に倒れ込んでしまわないように、万一の際は抱き留めるつもりだったが、甥っ子は無事に頭をもたげた。こちらを見ると、「あっ」と声を上げて、気まずそうに目をそらした。
「久しぶりだね」
「誰でしょう? 人違いだと思います」
 拒絶されてのことではないと直感的に感じた。
「お、さては悪いことをしているな?」
 甥っ子は苦笑いを浮かべた。
「おにいちゃんに言ってご覧。誰にも言わないから」
「なんでここにいるの?」
「今日は水曜日だけど、たまたま休みなんだ」
「ここで会ったこと、おかあさんに言わないで」
「勿論さ。前に助けてもらったことがあるからね」
「助ける? 僕がおにいちゃんを?」
 きょとんと目を丸くする甥っ子に、僕は深々と頷いてみせた。
「あ、そうだ。じゃあもう一つ、お願いしてもいい?」
「いいよ。できることならば」
 甥っ子はきょろきょろと周囲を警戒した。
「でも、ちょっとここでは言えない」
「おにいちゃんに行くか?」
「うん、行く」
 僕は自然と口元が緩んだ。

 二階建ての駐輪場に立ち寄った際、甥っ子が持ち出してきた子供用の自転車は、錆だらけの上に籠が大きくひしゃげていた。いぶかって尋ねると、友達のものと説明した。
「盗んだわけではないよね?」
「僕はそこまで悪じゃないよ」
 しかし、詳しく話を聞いたところ、仮病で昼頃早退して、学校にほど近い友達の家から勝手に持ち出したようだった。
「僕は好きな時に乗っていいことになってるんだ。ちゃんと返すから大丈夫だよ」

 そして、甥っ子は自転車を押して歩きながら、ふいに僕の横で童謡の一節を口ずさんだ。
 むかしむかし浦島は、助けた亀に連れられて・・・

 僕の城に着くと、甥っ子は卓上のパソコンを使いたがり、無料で見られる動画にかじりついた。陽気な音楽に合わせて口パクで踊るアイドルグループは、ませてきた彼にとっての言わば乙姫様だった。ごく最近興味を持ったそれを、自分の家では見せてもらえないようだった。その割に、パソコンの扱いに慣れていた。
「どの子が好きなの?」
「教えない」
 聞いたところで誰が誰だか全く分からなかった。流行り物にうといせいか、中高生ぐらいの彼女たちの顔がおしなべて無個性に見えた。

 飽きる様子のない甥っ子を置いて小一時間外出した。雲が次第に厚くなり、天気は下り坂に向かっていた。
 買い物袋をぶら下げて、戻る寸前のところの小さな神社に何気なく行ってみた。人の影はなかった。家々に挟まれた細長い境内けいだいの奥で、古びたやしろが佇んでいた。

 部屋に戻ると、甥っ子だけ時の流れに取り残されたように、まだパソコンの前で見惚れていた。口は半開きでよだれをこぼしそうだった。アイドル如きに夢中になれる若さと、その集中力は、実に微笑ましいものだった。
 ほどなくして、甥っ子は動画の切れ目でこちらを向いた。流石に疲れたらしい目をしばたたいた。
「良くそんなに見ていられるね」
「ずっと見てられるよ。ずっとここにいたい」
「おにいちゃんの家に住むか?」
「うん、そうする」
 僕が適当な理由で姉に連絡すれば、今日ぐらいは許されるだろうと判断して、電話を手に取った。
「おにいちゃん、ちょっと待って」
「どうした?」
「先に聞いてほしいのは、僕のお願い」
 どうやらアイドルの動画を見ることではなく、お願いは別にあった。
「よし、聞こう」
 甥っ子はパソコンを眠らせた。
「僕のお小遣いの話だけど、契約更改が今月なんだ」
「け、契約更改? 難しい言葉を知っているね」
「この間、月八百円に判子はんこを押さなかった」
「ほう、まるでプロ野球選手だね。いくら欲しいの?」
「やっぱり大台、千円だよ」
「お札になると違うよね」
「だから、おにいちゃんに話をしてほしいの。ヒコクニンって得意でしょ?」
「代理人ね」
「千円以上にしてくれたら、契約の十パーセントをおにいちゃんにあげる」
「なるほど。それならば、交渉して五千円以上に吊り上げたら、僕の取り分は二十パーセントでどうだい?」
 にやっと笑うと、甥っ子は目をらんらんと光らせた。
「いよいよ、おにいちゃんも悪に染まってきましたなあ」
「将来は地獄行きさ」
「へっへっへっ」
 その笑いは時代劇に出てくる悪代官のようだった。
「しかし、交渉をする上での材料って分かるかな? 例えばテストで百点を取ったとか、友達を助けて先生に褒められたとか、おかあさんを納得させるようなことだね。それと、小遣いのきちんとした使い道を伝えないといけないね」
 甥っ子は口元を歪めて考え込んだ。
「代理人が交渉しても、ゲームを買うと言ったら絶対に上がらないよ」
「使い道は本。勉強になるやつ。おにいちゃんに借りればいいもん」
「そっか。一冊五百円で貸してあげるね」
「へっへっへっ」
「最近のテストはどうなの?」
「普通だよ。良くも悪くもないかな」
「次はいつ?」
「明日、漢字テストがある」
「よし、百点を取ろう」
 甥っ子は渋面しぶづらで首を横に振った。
「どうして? 今夜おにいちゃんと特訓しよう」
「やる気が出ないもん。漢字を覚えるなんて。パソコンで打てば出てくるよ」
「どんなテストかな? ひらがなを見て漢字を書くの?」
「えっとねえ・・・」
 甥っ子は漢字テストの詳細を説明した。それによると、文章の穴埋め問題にひらがなのルビが振ってあり、別の回答用紙に正しい漢字で記入する形式のようだった。質問用紙は毎回二三枚になるようだった。
「それって白いぺらぺらの紙でしょ?」
「うん、そうだよ」
 甥っ子はリュックサックの中から薄紫色のファイルを取り出して、以前のテストを探した。
「あったよ、これ」
「木を隠すには森って分かる?」
「分かるけどね、言いたくない」
 ひねくれたことを言う甥っ子に、カンニングの方法、即ち不正行為の技を、臆面おくめんもなく伝授した。卓上に複数枚の紙があれば、同サイズのもう一枚が紛れていても見つからないと。
「つまり、小さい紙を筆箱で隠そうとしたり、机の下で見ようとしないで、大胆に、堂々と、机の上で見る。こうやって透かしてね」
 実行してみせた。紙を重ねて、下をずらして、上の質問用紙の余白を利用して、上手に透かし見る方法を。
「下にするカンニングの紙が、大きくはみ出てもまずバレないよ。森の中の木だからね。大事なポイントは、こそこそしないこと」
「なんてこったい」
「やってみる?」
「へっへっへっ」
「おぬしも悪よのう」

 幸い、国語の教科書がリュックサックに入っていた。部屋の中には仕事で使う数種類の白紙があった。
 やる気が出た甥っ子は、与えられた紙に喜々として漢字を書き写した。
「もしかすると、テストで使う紙のサイズや色合いが変わるかもしれないね。ほら、見比べてご覧。この紙はほんの少し黄ばんでいるでしょう」
「それって同じ方がいいのかな?」
「勿論さ。ただし、テストの際にもたもた選んでいると怪しまれるから、前の授業で配られた紙を見て、休み時間のうちに決めておくこと。備えあればうれいなしと言ってね・・・」
 説明すると、甥っ子は自発的に幾つもカンニングの紙を用意した。目覚ましい集中力でこつこつと悪事を働いた。僕が姉に電話をしている際も。

「できたよ」
「よし、明日の朝までおにいちゃんが預かろう」
「なんで?」
「絶対にバレない手品のような方法を仕掛けるんだ」
「今教えてよ」
「いや、最後の仕掛けは知らない方がいいね。意識すると、ぎこちない動きになってカンニングは失敗するかもしれない」
 甥っ子は不服そうに口を尖らせた。
「先生を騙す為に、自分が騙されたつもりになって、おにいちゃんを信じてみよう。同じ悪に染まった仲間でしょう? 百点取って貰わないと、おにいちゃんも儲からないんだ」
「へっへっへっ」
 納得した様子の甥っ子は、晩飯について尋ねた。メインのおかずは、湯煎ゆせんしただけで食べられるレトルトのハンバーグの予定だった。

 宵のうちに降り始めた雨が夜通し続いた。僕は並べた座布団の上で毛布にくるまって休んだ。

 明け方に目を覚まして、カーテンの隙間から外をうかがった。その青みがかった静寂な風景に水底を錯覚した。止みそうな雨とほどけそうな闇の中、そぼ濡れた石鳥居がひっそりと立っていた。
 向き直ると、まだ甥っ子が眠っていることを確認して、彼に宛てた大事な言葉を書いた。けむに巻くつもりはなかった。
 ――悪はいらない 今の君ならできる――

「はい。これで百点間違いなし」
「へっへっへっ」
 出立寸前の甥っ子は、手渡された大きな封筒を開けようとした。
「あ、まだ駄目。テスト前の休み時間まで開けないでね」
「それって絶対に?」
「そう、絶対だよ。開けたらどうなるか知っているよね?」
 甥っ子は自信たっぷりに笑った。実に晴れやかなその顔は、僕に誠実な期待をもたらした。彼は一度も開けずに持ち帰ってくるかもしれないと。

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