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【短歌】近代名歌五選とその解釈

 いつも俳句ばかりを紹介している私だが、今回は、短歌を五首紹介したい。小学校や中学校で習う紀貫之や柿本人麻呂といった古典ではなく、現代的な短歌である。
 五七五七七の短歌は、五七五の俳句とはまた違った魅力をもつ。十四音(七七)増えたことで、ものだけに託しがちな俳句とは異なり、こころを述べてゆく魅力が大きい。ただし、それは短詩型文学のわずかな面しか言い得ていないため、また別の機会にご紹介できればと思う。したがって、今回は、難しい論ではなく、短歌のみと純粋に向かい合って、その魅力の一端に触れていきたい。
 尚、歌の選出は私の好みであり、解釈も私個人の感想のため、参考程度にお読みくだされば幸いである。

 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも

塚本邦雄『日本人霊歌』

 日本を脱出したい。皇帝ペンギンも、その飼育係も。
 短歌を知らない読者は「なんだそりゃ?」と奇妙に感じるかもしれない。しかし、とても良い歌なので、しばしお付き合い願いたい。
 日本にペンギンがいるとは、動物園の中だろうか。檻の中から脱出したい。しかも、飼育係もそう思っている。この動物園は、何やら不穏な雰囲気である。
 一説には、ペンギンは天皇を、飼育係は天皇を守る人々だという。『日本人霊歌』は太平洋戦争敗戦後に刊行されたものであるから、その説は確かに思えてくる。可愛らしいペンギンの歌だが、その真意は重く深い。

 「正しいことばかり行ふは正しいか」少年問ふに真向ゐて

伊藤一彦『海号の歌』

 教育の現場だろうか。大人たちは子どもへ「正しいこと」を教える。しかし、それが本当に正しいこととは限らない。
 やはり、世の中は相対的で、絶対的善悪にて定めることは難しい。特に「少年」にとってのそれは振れ幅が大きくなる。
 道徳教育や社会のルールは、社会的動物であるヒトにとって、およそ正しいのだが、少年各人にとっての「真実」はそれぞれである。対象は、政府や国など、より大きな存在へと飛躍することもできるだろう。
 その少年と向かい合う作者(大人)は何を思っているのだろうか。純粋無垢な少年の眼に嘘偽りはない。皆さんはどう答えるだろうか。

 青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき

高野公彦『水木』

 青春とはこのようであったか。私はもう青春といえない年齢になってしまったが、本歌と出会い、過去を美しく感じられる。
 みづきは花水木(ハナミズキ)のことだろうか。初夏に白い花をつける。その下を通り抜ける一陣の風。遠くの線路は陽光に輝いている。
 比喩された青春は、風のように肌身に感じるほど、誰もが経験するほど身近であるが、それは目に見えるわけでもなく、遠い線路の輝きのように手の届かない夢・希望を含んでいる。
 青春をものに託すにあたって、花水木と線路以外の選択はないように思う。幸福や美しさだけではない、青年期の複雑な思いを確かに感じられる。

 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ

若山牧水『海の声』

 白鳥は悲しくないのだろうか。空の青にも海の青にも染まらずに漂っている。
 作者は、白鳥へ話しかけるように歌い、まるで白鳥の姿を自己に投影しているかにみえる。社会へ馴染めないのか、人間関係で悩んでいるのだろうか。空の明るい青色も、海の濃い青色もどちらも美しい。それらに馴染めないのは、鳥が白いからだけではないだろう。私はもっと強い者として解釈する。白鳥の飛ぶ勇壮なる姿には、他のなにものにも妨害されない強い意志があるかのようだ。

 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

寺山修司『空には本』

 マッチを擦る。その炎の先には霧深い海が広がっている。我が身を捨てるほどの祖国はあるだろうか。いや、ない。
 俳句「一本のマッチをすれば湖は霧 富澤赤黄男」の本歌取り(悪く解釈されると盗作)といわれている。しかし、どうであれ、本歌の魅力が失われるわけではない。やはり、良いものは良い。幻想的な情景に、祖国への思いを託している。
 かつての日本は、命を賭して守るべきほどの国だったのだろうか。無論、戦争を経験してもいない私にはそれを語る資格はない。しかし、ひとつ理想を語れば、日本に生まれ、日本人の国籍を自覚しているからには、祖国は命と等しく大切であるべきだ。マッチを擦るその手に、作者とその時代に生きた人々のすべての記憶が刻まれているかのようである。海の霧が晴れるときは来るのだろうか。

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