見出し画像

短歌研究社「短歌研究」四月号の鑑賞

 一般的に短歌といえば万葉集や古今和歌集等の古典を思い浮かべるだろうか。最近のことはわからないが、私の時代の教科書では、短歌といえば紀貫之や柿本人麻呂らの歌が紹介されていた。文法学習のみならず、古式ゆかしい表現に感銘を受けたことをよく覚えている。

 しかし、短歌に興味のない方々は、まず文法で躓き、さらに読解できたところで現代との「差」に共感できず、何が面白いのか、と感じるのかもしれない。世に遺る古典は、現代にも十分に通用する普遍性を備えているのだが、対象となる景や洞察は、現代人の日常生活において直感的ではないことも少なくない。

 また、吉野山といったら桜、稲荷山(いなりやま)といったら願掛けの山(意の成る山だから)というように、決まり事も多い。枕詞は大いにその類であろう。その点において、現代短歌は現代の歌人が今この瞬間を詠んだものであるため、共感しやすいのではないだろうか。勿論、文学の態度として、共感できる=面白い、ではないことを書き添えておく。

 今回は、短歌研究社「短歌研究」四月号より一部の短歌を引用し、私なりの鑑賞をしてみたい。あくまで、私個人の感想であるため、ご参考程度にお読みくだされば幸いである。


ページ繰れば本の中より起こる風天衣の風のごとく優しも
                『天衣の衣』高野公彦

 本は、幾重にも紙を束ねた単なるインクの染みではなく、様々な世界を立ち上げるに十分な力を秘めた情報である。ページをめくれば、その力が解き放たれ、活字は天衣無縫に躍動する。本歌においては、その瞬間に風が起こり、その風が、天衣つまり天女の衣のような優しさであったという。小説であるか随筆であるかはわからないが、三句目までの風という動的な感受、心臓が早鐘を打つような驚きから、結句での優しい風であったという静かな気付きが自然で美しい。平明な表現で美しさの余韻を漂わす、まさに天衣無縫な歌ではないだろうか。


我に住み我より出づる言葉ありこの世を巡りゆける言霊 同

 言葉を擬人化しているというよりは、人と言葉が分かちがたい存在であることを暗に示しているのではないか。言霊とは、私が以前執筆していた組織では言葉になる瞬間の働きと定義されていた。学究的には、哲学者の大森荘蔵氏や和辻哲郎氏の言霊(ことだま)に関する論考が一般的だろうか。三島由紀夫氏の東大全共闘における対話のなかでもつかわれている。いずれにせよ、日本の古より伝わる、言葉のもつ力への敬意の現れだと私は感じている。やや視点がずれるが、昨今はウェブ技術が発達し、言葉を一瞬のうちに地球の反対側へ伝えることが可能となった。ワールド・ワイド・ウェブというように、蜘蛛の巣のように張り巡らされたインターネットを通して、物質的な利便性、つまり言葉や映像を容易に交換できるという点のみに終止せず、血の通った言葉、言霊が巡り行ける世界になってほしい。本歌を大きく飛躍すればそのような思いもあるのではないだろうか。私というたったひとりから発せられる言葉は、言霊となってこの世に響き渡るのである。


こころとは命の影か虹一つ消えたる空に虹の残像 同

 こころは移りゆくものである。しかし、命の本質としてのそれは揺るぎないものである。命は雲間より射し入る日に照らされ光り輝く。それのつくりだす影は、虹の残像のように、儚く美しい。こころとはそのように形容されているのではないだろうか。否定することで、それを強く意識させる技術は紀貫之が得意としており、本歌のなかでは虹の実景はないにも関わらず、ありありと感じられる。人と相対して、そのこころを感得するとき、それはまるで虹の残像のようではないだろうか。ないにも関わらず確かにあり、喜怒哀楽さまざまであり、鮮烈な心情は思い出として永遠に刻まれるだろう。かつての美しい虹の光景を思い出すかのように。


炒飯の残る一山に酢を回しレンゲに崩し掻きこみにけり
                『碑の蟻』島田幸典

 本歌は、炒飯にも詩情が宿ることを教えてくれている。それは炒飯の向こう側に「人」がみえるからである。孤食か共食か、どうであれその人は炒飯の一山に相対している。お腹がいっぱいで―しかし、残すわけにはいかない。酢をかけて炒飯を少しでもさっぱりとさせて、最後のひとくちを一気に掻きこむ。二句目の「一山」は「ひとやま」と読むと思うのだが、俳句の視座からは「いちざん」と読みたい。なぜならば、その音韻は、男性の力強さ、本歌に通底する勢い(中華料理は燃え盛る炎の勢いがある)、レン「ゲ」の濁音と共鳴すると考えられるからである。そして、結句の「けり」の切れ字がより鋭さを増すのではないだろうか。


あたらしき碑ながら蟻ひとつ彫られしうたのうへ這ひまはる 同
 
 新しい歌碑ではあるが、蟻一匹、歌の上を這いまわっている。二句目の「ながら」が本歌の要諦だろう。もし苔むした碑であった場合、蟻などの小さき命がいても驚きは少ないかもしれない。蟻の這い回るという行為は、その蟻がまるで歌と心通わせているかのような詩情を感じさせる。新しいが故に、まだ多くの人々の目に晒されていないものの、この小さな蟻はしかとみているという作者の感動がある。
 話を俳句に転換すると、芭蕉は句碑を重要視したことで知られている。その理由は、句を永遠に遺すことに価値を見出していたからである。前に述べたように、新しい碑そのものにはまだ詩情の乏しいきらいがある。しかし、歌の永遠性はこの社会の片隅でひっそりと、小さな命と寄り添いながら始まっているのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?