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【小説】暮れ鏡

 父は愛人の家で死んだ。
 僕は狼狽する女から電話を受けた後、その事実をひた隠そうと雨の中を奔走し、群がるマスコミどもを欺いた。残された一族のため、そして何より母の名誉を守るために、許しがたい父を最後に助けた。
 長男の家で死んだと。妻も黙って協力してくれた。

 時代が今であれば、とても隠しておくことなど出来なかった。
 あれから二十年の時が流れ、一族はかつての輝きを失いつつあるが、悲しいかな、僕は未だに七光りと言われるほど、不本意に父の余光を集めてしまっている。

「お父様にそっくりですね」
 誰かにそう言われると、涅色の嫌な気持ちで胸が重くなるが、鏡に映る顔は何とも否定しがたく、やはり兄弟三人の中でも僕が一番似ている。癖のある早口の喋り方も。変えようとした努力は徒労に終わり、饒舌に喋っている際の音声などは耳にしたくない。
 だが、そのままの自分をそっくり愛してくれる女性と結ばれた。僕の人生は幸福だと言い切れる。

 では、母の人生は・・・
 考えると辛くなるが、哀れみをかけるのは無礼に当たる。母は何があっても気丈に、古式ゆかしい妻の本分を全うし、誇り高く生きてきた。

 入院生活が半年を超えた今でも、母は甘えや弱みを一切見せず、迫りくる死を穏やかに待ち受けるような顔つきで、僕ら息子たちにあまり迷惑をかけまいとする。日によっては、わざとそっけなく振る舞い早く帰らせようとする。
 お願いされることといえば、身の回りにある何かを取ってほしいと言われるくらいだが・・・

 ある時、一人で見舞いに行くと、出来ることならば今度の二十九日に連れて行ってほしいところがある、と言われた。
 六月のその日は忘れもしない。父の命日である。
 もしや母は、毎年欠かさず墓参りに行っているのかもしれない。だが、もう歩くこともままならず、車椅子を使わなければならない状態である。
 躊躇っていると、母が僕の手を握った。そんな経験は今までになかった。これが母の最後の願いになるかもしれないと思った。

 前日まで、一日中雨との予報が出ていたが、母を車で迎えに行く昼過ぎになると、しとしと降っていた雨が止んだ。
 病院では、お世話になっている男性看護師さんの見送りを受けた。
「お気を付けて」
 折りたたんだ車椅子をトランクに乗せ、母と二人で墓参りに向かった。父とは関係のない話をした。最後の曲がり角に差しかかった時、カーブミラーに沈みかけた夕日が映り込んだように見えたが、恐らくそれは錯覚で、空は厚い雲に覆われていた。
「連れていく場所って、ここでいいのかな?」
 深く頷いた母を車椅子に移動させた。母の小さな布袋を持った。そして歩き出そうとすると、母は僕を制止した。
「どうしたの?」
「その袋の中に鏡があるの。取って頂戴」
 そう言われて気付いた。母の白髪を最近誰かが切ってくれたことに。服装もお洒落なブラウスである。
「お母さん、今日は一段と奇麗だね」
 母はちらりと僕を見て、恥ずかしそうに笑った。


                         ※以上、本文1200字

 本稿は夏ピリカグランプリの応募作として、「かがみ」をテーマに800~1200字というルールのもとで執筆いたしました。

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