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【俳句】【短歌】の記事

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俳句・短歌関係の記事をまとめました。
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#随筆

【随筆】俳句水族館

 夏の歳時記をながめていると、魚や昆虫など生き物の季語が豊富で、生き物好きの私はワクワクしてきます。歳時記には、季語の説明だけではなく、例句がいくつも掲載されています。テレビや図鑑等の映像でみるのと、また違った魅力があります。たとえば、季語「章魚(たこ)」をつかった句にしても、ちいさな真蛸だったり大きな水蛸だったりと、読者の経験や感性によって、解釈も多様になりましょう。  本稿は”俳句水族館”と題して、海の生き物の句を鑑賞していきたいと思います。句の選定や鑑賞内容は私個人の好

【随筆】加藤楸邨(かとうしゅうそん)句の鑑賞

 今回は、短詩型文学を主に扱う飯塚書店出版の『加藤楸邨の一〇〇句を読む』石寒太著をもとに、楸邨句を鑑賞していきたいと思う。  楸邨は苦学の生活のなか短歌や俳句とであい、造詣を深めていった。啄木や茂吉、白秋を学び、俳句では村上鬼城に〇✕の添削をうけていたそうだ。その後、水原秋櫻子との縁を得て、師事することとなる。  「船戸」の前書きがあり、江戸川と大利根川の間の船宿だそうだ。深い雪に沈みながら一歩一歩進んでいくと、船戸の河畔で船をみたという句である。苦労しながら歩む作者と、

【俳句】取り合わせの妙味

 ※本稿は先日読了した月刊誌、角川俳句令和四年五月号の特集『取り合わせの距離感』を、私なりに上書き、紹介する記事である。  俳句の大半は、「季語」と「何か」で構成される。たとえば、飯田蛇笏氏の句”苔咲いて雨ふる山井澄みにけり”であれば、「苔咲いて」と「雨ふる山井」だ。雨の日、山の井戸周辺に苔の花が咲いている景色である。作者は可憐な苔の花と澄んだ井戸水(もしくは湧き水)の様子に感動したのだろう。苔が咲いたことでいつもの景色が変わった驚きである。  このように、季語と何かの組み

【随筆】令和俳壇・四月号の鑑賞

 俳句の専門雑誌のひとつである角川出版の「俳句」より、一般読者からの投句をいくつかご紹介したい。いずれも、プロの俳人に高い評価を得たものであり、俳句の魅力をお伝えするに適した作品であると考えている。  また、一般読者が投句されてから雑誌に掲載されるまで、四か月かかるため、今の季節、春に合わない冬の句である点はご了承願いたい。  また、句の選と解釈は私個人の感想であるためご参考程度にお読みくだされば幸いである。解釈の数は、読者の数と同じだけあると考えている。  句の引用はすべ

【随筆】令和四年・宮中歌会始の鑑賞

 歌会始は毎年、新年一月におこなわれる宮中行事である。宮内庁の資料によれば、歌会始の起源は明らかではないそうだが、題詠に沿って詠みあう歌会自体は、奈良時代、万葉集の頃からおこなわれていたと考えられている。  歌会始では、皇族のみならず一般の方々も歌を詠進する。詠進とは、自身の歌を宮中へ贈ることである。私自身は詠進した経験はないのだが、毎年、どのような歌が発表されるのか楽しみにしている。今年も美しい歌ばかりであった。今年の題詠は「窓」である。歌のなかに「窓」の一語をいれるのが

【随筆】石田波郷俳句大会句の鑑賞

 今回は、角川『俳句』令和三年二月号・特別レポート「第十三回 石田波郷俳句大会」より、一般の部に属する句をいくつかご紹介したい。当大会は昨年八月頃までに募集された句から選考されている。  俳人・石田波郷は戦後まもなく結核により東京の清瀬にある病院に入所した。その後も病と共に句作を続け、五十半ばの若さで亡くなっている。その事実から、石田波郷の句の背景に「病」を見出すことは俳句の鑑賞として不適切かもしれないが、くしくも病を思わせる句が大賞となった。病は誰にでも起こりうることであ

【随筆】なぜ俳句の感想文を書くのか

 俳句が五七五で表現する文芸である点を知っていても、切れだとか、詩情だとか、深くまで知っている人は、私の周囲にほとんどいない。それは全く問題のない至極当然の事実である。  好きなことは誰かに勧めたい。自分から主張しては、お節介極まりないが、聞かれたのであれば、俳句は面白いよ、と偉人らの名句をみせる。  堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ 水原秋桜子  芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり 松本たかし  芋の露連山影を正しうす 飯田蛇笏  ほとんどの人が「どういう意味?」という。他、

【俳句】富澤赤黄男をよむ

 俳人・富澤赤黄男(とみざわ かきお)とは珍しい俳号である。  「あの人は思想的にアカでも、軍隊のキイロでもない。それで二つをくっつけて赤黄男と名乗ったらしいよ」 (創風社出版『赤黄男百句』坪内稔典・松本秀一編より)  氏は明治から昭和にかけての戦時を生き抜いた人であるから、なるほど、と思う。  赤黄男は明治三十五年七月十四日、川之石に生まれた。今の愛媛県八幡浜市保内町川之石である。(中略)彼が俳句に関わるようになるのは郷里の第二十九銀行に勤めた昭和五年以来らしい。川之

【随筆】花の候に

 若草賑わう春の日、川岸の高みにずらりと咲き誇るのは桜である。その淡き花弁は、青い空や白い雲と協調し、小鳥たちのさえずりを迎え入れる。  水量が増し、狭くなりつつある岸辺には菜の花が一面に広がっている。その頭を春風がやわらかくなで、小さな蝶々が舞い、水はやさしい光をおびて、鯉の大きな影をゆるりと動かす。  白鷺は音もなく岸におり立ち、水面に近づいてみれば、小さな目高の一団が頭の向きをいっせいにかえながら、あっちやこっちやと泳いでいる。  向こう岸の岩の上でじっと甲羅を陽にむ

【短歌・俳句】梅見月によむ

 山梨県は葡萄や桃の産地だ。春を実感する日の多くなる最近では、桃や桜に先んじて、梅の花が満開である。桃や桜はまだ蕾、葡萄はまだ冬眠といわんばかりに、沈黙している。  探梅は冬の季語であり、梅見は春の季語であり、そして梅見月とは陰暦二月の異称である。  泣き叫ぶ赤子を乳母車にのせて散歩へ出かけると、梅の花の咲く辺りで泣き止む。寝たのかと思って母衣(ほろ)を覗き込むと、どうやら梅の花を見ているようである。まだ生後九ヶ月だから、確かな意思をもって眺めているわけではないかもしれな

【随筆】第二十三回俳句甲子園・個人表彰句の鑑賞

 角川『俳句』10月号によると、2020年8月23日、第二十三回俳句甲子園の審査結果発表が行われたそうだ。俳句甲子園は、全国の高校が俳句の出来を競い合う大会である。いわゆる団体戦と個人戦があり、今年は団体での優勝は開成高等学校である。開成高校と聞くと、たいへん頭のいい学生の集まる学校であるから、やはりそうかと思えてくる。とはいえども、三年ぶりの優勝であるらしい。また、国語の先生であり、俳人でもある佐藤郁良(さとういくら)氏の指導実績があるだろうから優勝しても何の不思議もない。

【短歌】誠の言の葉と詩情

詩を論ずるは神を論ずるに等しく危険である。持論はみんなドグマである。(西脇順三郎著『超現実主義持論』より) 事件的真実と「詩」とは本来別次元のものである。「詩」はいつでも純粋に、個々の要素に従って真実でなくてはならない。 (秋葉四郎著『完本 歌人佐藤佐太郎』より)  本稿は、歌人の佐藤佐太郎氏に師事した文学博士・歌人、秋葉四郎氏の論考(戦時下の光と影―第三歌集『しろたへ』論)をもとに、短歌を一流から二流、三流へと落としてしまう一要因を私なりに述べたものである。秋葉四郎氏の

【随筆】米津玄師の歌にみる短詩型文学

 歌は旋律のみにより評価されないだろう。作者からも、映像からも独立した純然たる言の葉として相対したとき、秘められた言霊が真に立ち上がってくるのである。  本稿は米津玄師氏の歌を主に俳句の視点で、私個人の感想を述べたものである。ウェブ上では既に、歌の解釈を巡り多くの評論が発表されている。それらの解釈の上書きにならないよう、一俳人が前提知識なく歌詞(テクスト)と相対したときの気付きを述べ、新たな議論の端緒となれば幸いである。また、米津玄師氏及びその関係者へ最大限の敬意を表して執

【随筆】回天・水中特攻隊―最期の言葉

 テーブルの上に作りかけの折鶴がひとつ置かれていた。おそらく妻だろう。私は鶴を完成させ、その純白の羽を精一杯広げてみた。頭と尾は凛と立ち、今にも羽ばたくのではないかと思えた。その時、蝉しぐれをかき消すかのように、町内放送がはじまった。上気していた私の身体は、徐々に鎮まり、窓からのわずかな涼気に目を閉じた。  八月六日の朝である。「黙祷」の響きはその背負う歴史の分だけ重い。原爆により多くの人が一瞬にして消え、後遺症に何十年も苦しむ人がいる。  かつてトルーマン大統領は両国の犠牲