私がなんとかしなければ、の病
今の、時々、相談が入る仕事場にいて、思うこと。
相談してくる人は、自分の人生や生活を大切にしていて、自分ではどうにもできない身内のケアの部分を社会の仕組みで、なんとかフォローしてもらう方法を知りたい、、と、思っていることがある。
あーいいな、と、思う。
まず、自立した社会人の自分の人生を軸に、他の身内のケアについては、自分の人生とは、重なることはあるものの、別の軸として、相談しているからだ。
その相談を電話口で聞く私はどうだろう?
長年、身内の大きな家族病理からくる問題を、なんとか根本解決したいと執念を燃やし、頼まれたわけでもないのに、勉強し、修羅場で全滅みたいな地獄をみずにすむよう、環境調整した。
だから、今、こうゆう、相談がくる仕事場に採用していただいているわけだ。相談者は、サポートやケアが必要となったなった身内のことを相談しながらも、その身内とは別口な自分の軸ある人生模様を生きておられる。私の役目は、支援の必要な身内のケアができない状況にある相談者に代わり、自分が執念で解決しようとする中で身につけた知識とスキルを使い、相談してくる方に対して、支援の必要な身内のケアの環境調整を、お手伝いをすることだ。
ガッツリ支援の必要な身内の対応の傾向と対策を練ったからこそ、経験値として、ツボをついた対応ができる部分は、誰にでもできるわけでない専門の仕事としての対価に少しは値するかもしれない。
しかし、身内対策にガッツリ自分のエネルギーを捧げてしまった私は、自分軸の人生や生活があり、自分の今の人生を大切に守る為、支援の必要な身内のケアを外部の公的機関に相談しつつ、ケアを社会の仕組みに任せようとする相談者の境界線ある誠意と自律とに、憧れを抱く。
私の両親は、気難しい親に気を遣い、親の期待にそった振る舞いによる滅私奉公な人生を送り、家や家族という世間体の体裁を維持する為、自分らしい人生を諦めた人たちだ。
自分たちが、そうだったから、当然のように、自分らが歳をとったら、今度は、子世代が、自分の人生を諦めてでも、滅私奉公して、家や身内の世間体を維持し、自分らのケアをしてくれる順番が回ってくると、信じている。
しかし、時代は違う。自分軸の人生の幸せを諦めてまで、親世代にエネルギーを捧げて奉仕してくれる、世代的慣習は、時代に会わず、実行されないことがある。
自分たちは、親世代の面倒を頑張ってみたから、順繰りで次は、私が、子世代に面倒みてもらえる、、、その期待は、裏切られて、(わたしは親に仕え、苦労したのに、自分は同じようにしてもらえない、、)、、時代と時代の価値観の谷底で、(こんなはずではなかった)と、無念を募らせ、速度の速い新しい時代の価値観になじみきれない人は多い気がする。
「家の恥さらして、相談なんかするな、、」の、圧力が強い、世間体重視、家族病理が座敷牢に隠蔽されるような家庭で、「私がなんとかしなければ、病」になり、孤軍奮闘で勉強し、修羅場の地獄絵図になるのを防いだつもりの私も、古い時代の価値観の産物なのかもしれない。
家族病理に取り込まれず、距離感を持って、自分軸の人生を生きながら、外に恥を晒して支援をお願いせずに、自分1人でなんとかしなきゃでなく、社会や他人チカラを借りて乗り切るにはどうしたらよい???と、相談してくる人たちを、新鮮か気持ちで、眩しい目で、憧れを持って、感じる私を、
不思議に思う。
私がなんとかしなければ、という執着を解き放ち、信頼できる外部専門機関や公的支援の仕組みに委ねてオッケーな感覚に慣れていくにつれ、もう少し、楽に、肩の力を抜いて、周りと、心地よい距離感でいきていきやすいのだと思う。
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