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インタビュー嫌い

私はインタビューが嫌いだ。

まず、私は子どもの頃から一貫して人と接することが苦手だった。年季の入ったコミュ障なのだ。誰かと過ごすよりも、ひとりで過ごす時間をなによりも愛している。小学生の頃は外で友だちと遊ばずにひとりで近所を徘徊したり、家で『ポケット時刻表』を毎日3時間ほど熟読することを習慣としていた。ひとり遊びの達人として、そろそろ紫綬褒章のひとつでも授けられても良いのではないかと、密かに自負している。

次に、コミュ障な私がわざわざ労を尽くしてインタビューを行っても、肝心の相手が本当のことを話してくれるとは限らない。こちらが興味を持って聴いたことでも、大体は相手から「自分が周囲にどう見られたいか」という観点によって計算し尽くされた答えが返ってくるだけなのだ。

ならば最初からインタビューする必要なくない?と思ってしまうのだ。どうせ皆んな自分の都合の良いことしか答えないのだから。相手の一挙手一投足に普段から気を配って、「この人はこういう時にこういう反応をするから、もしかしてこういう人なのではないか?」と仮説を立てて、相手のことを受け入れていった方が有意義ではないかと強く思うのだ。

ついでに言えば、自分自身がインタビューを受けるのはもっと嫌いだ。
なぜなら、インタビューでは相手が聞きたいことしか聞いてこないからだ。せっかくだからと相手の質問に一生懸命に答えても、うまく伝わったためしがなくもどかしい。しまいには、私が熟考の末に答えた内容すら相手の都合のいいように編集されてしまう…  結果、「自分が言いたいことは自分で書くし、みんなも自分の言いたいことは自分で発信すればいいよ」という思想になり、より一層インタビューをしたりされたりする気が失せるのであった。

などともっともらしい理由を並べたてたが本当の理由はひとつで、そもそも私が他人に興味がないからなのだ。どちらかといえば死んでしまった人の方に関心がある。「あの人はあの時、本当はどう思っていたのだろうか?」とか、「どうすればあの人は死なずに済んだのだろうか?」とか、取り返しのつかない過去に向き合う方に私の興味は向いているのだ。赤の他人にとりたてて聞きたいことなどはほとんどない。

先日も私が参加している文章塾で「身近な人にインタビューする」という課題が出たが、提出できなかった。これは、1年半以上参加していて初めてのことだ。他の参加者の方々の提出作品にいくつか目を通してみた。インタビュー相手は肉親であったり恩師であったり、仕事仲間だったり。どの記事も対象への愛情に満ち溢れた、素晴らしいインタビューだった。読むことによって私の中でひとつ気付きがあった。対象への愛情があって初めて聞きたい事が生まれるし、聞かれる方も相手を信頼しているから質問に正直に答えるのだと。

それなら、私が人にインタビューできないのは当然の事だなと、納得がいった。私は人に興味がないのだ。おそらく愛情もない。肉親にインタビューすると質問ではなく詰問になるだろう。確実に。恩師と呼べるような人物には50年近くの人生で出会ったことがない。教師は教師というだけで嫌いだった。抑圧装置だからだ。仕事仲間ならどうだろうか?元部下や同僚たちならインタビューできるかもしれない。お互いなかなかの修羅場を手を取りあって進んできたのだ。でも、それだとインタビューではなく対談になってしまうかも。

最後にもう一度言うが、私はインタビューが嫌いだ。とにかく嫌いなのだ。ついでに言うと、私は議論も嫌いだ。なぜなら、議論で問題が解決したことなど古今東西ほとんどないからだ…(以下省略)


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