見出し画像

親愛なる部長に捧ぐ “ 旅先で『日常』を走る 〜curtain call〜 “

前回のあらすじ

~ 軽井沢で『マラソン』を走る (急) ~

" いつどこにいても、その場で走ることによってその街が身近になり、内なる日常を回復できるのだ。疫病やら天災やら、災難はいくらでも我が身に降りかかってくる。それでも、僕らは走り続けよう。"


親愛なる部長に捧ぐ


私が所属しているPLANETS CLUBランニング部には、自慢の部長がいる。

そもそもこの部は変わっている。なにしろ、オンラインランが中心なのだ。ランニング部なのに。それも『販売終了になる「明治フルーツ牛乳」を飲むオンラインラン』『結婚したクラブメンバーを祝福するラン』といった類の、目的ではなく手段として走ることを利用しているような。

一方でオフラインのイベントもあるにはあるのだが、その多くは『初心者向けの怪我をしないランニングフォーム講座』『はじめて履くシューズの相談会』といった内容だ。この部にはランニングに興味を持った人なら誰でもできる環境があり、そのイベントのほとんどは「部長」が企画を立てていた。

「部長」と表記したのには理由があって、当時「部長」はまだ部長ではなかったのだ。それはともかく、私は「部長」が企画した様々なオンラインランに参加することによって、ランニングを競技とはまったく違ったかたちで楽しむようになったのだ。

そんなこんなで私もだんだんと走れるようになり、そろそろレースに挑戦したくなった頃、10月の軽井沢マラソンをクラブメンバーの多くが走ることを知り、私もさっそくエントリーした。

2019年7月中旬の水曜日、軽井沢マラソンに向けて走り込みに精を出していた私は、その日も仕事を終えてから自宅近くを走っていた。今日は10㎞は走ろうと気合を入れて自宅を出発したのだが、2㎞ほど過ぎたあたりの洗足池公園で転倒し、利き腕の手首を骨折してしまった。

「部長」とはじめて会話を交わしたのは、この時だった。

” STRAVA(註:メンバーの多くが使っているランニングアプリ)を見て、いつもと違うな?と思ったらこんなことに。。お大事になさってください!”

私が骨折報告をしたFacebookの投稿にリプライをいただいた。実際にお会いするよりもオンラインでの交流が先になってしまうのもいかにもこの部らしいと、今となっては感じるところだ。これがきっかけでメッセージをやり取りするようになり、奇遇にも「部長」が洗足池生まれであることなどを知ることになった。

骨折したものの、それでも軽井沢マラソンを走りたいという私の想いは強く、なんとかレースを走れるように調整を間に合わせた。しかし、今度は超大型台風が軽井沢を襲い、大会自体が中止になってしまった。

それでも我がランニング部は、マラソンが予定されていた当日にオフ会を開催して、軽井沢を走った。この時が「部長」との初対面だと記憶している。この日、バスの到着が遅れた「部長」は、ゴール手前2kmくらいの地点にある交差点に我々が差し掛かったまさにそのタイミングで、右の方からから颯爽と軽やかの駆けて来たのだった。まるで特撮ヒーローのような、カッコいい登場だ。
しかし、今になって思い返すと、「部長」の朝の弱さから察するに、単なる寝坊だったのではないかという疑惑は否めない。

年が明け2020年1月、前任の部長が家庭の事情でクラブを離れ、「部長」が部長に着任した。 程なくして世界中がコロナ禍に見舞われ、我々の活動にも制限が生じることになった。
しかしこの困難な状況下でも、部長はめげずに様々な企画を打ち出してきた。

まずは『給水スポットで待ち合わせて10分で解散するオフ会』から始まり、『夏至の日に、日の出から日の入りまで1時間ごとにZOOMで合流するオンラインラン』『ランニングが億劫な人のために、みんなで同時に家を出るだけのオンラインラン』など。コロナ以前から培ったランニング部のノウハウを生かし、我々を取り巻く環境がどうあろうと楽しみを見つけながら走り続ける、そんな仕掛けを部長は作り続けた。
そんなオンラインとオフラインの中間的な付き合いを続け、離れていてもメンバーたちの心はつながっていた。

また、部長の強い思いからランニング部共同編集note『WE Run』という企画も始まった。参加メンバー各自が、月1本を目安に『走る』に関する文章を書き、発表する。最初は迷ったが私もメンバーに加えてもらった。部長が進みたい方向に付いていけば必ず面白いことに出会える、と確信していたからだ。

2020年の一年間、我々は走って書いてまた走ってを繰り返し、またメンバーそれぞれの文章を読むことによって、走る楽しさや意義を客観視すると同時に、お互いについての理解を深めていった。

11月には感染が一旦落ち着いたので、飯能でトレランをした。正月以来のオフラインランだった。ここで部長は「全員がリラックスした状態で、画面が遮ることなく目を合わせられる喜び」を語っていた。シャイで人と目を合わせることが苦手な部長からそんな発言が出たことに驚きつつ、オンラインのイベントやミーティングなどでの部長が抱えている目に見えない負担が垣間見え、申し訳ない気持ちになった。

続いて、12月には久々の大規模ランイベントが開催された。総勢20名近いメンバーで、日曜日午前中の銀座から日本橋を走った。部長はカメラを片手に隊列を縦横無尽に行き来し、我々の写真や動画をたくさん撮ってくれた。

年末。部長は2021年の目標として「毎月、誰かと走る」と掲げ、オフラインのランイベントを毎月実施すると宣言した。『WE Run』のときと同じくらいの真剣さを感じた。
しかし、年明け早々に緊急事態宣言がかかってしまい。その後も行動制限が続いた。 

2021年、第一弾のランイベントは1月10日。代々木公園で新春ランを開催したが、参加者は5名。うちふたりは医療従事者のため他人と一緒に走ることはできなかった。部長と私、そしてもうひとりのメンバーT井さんの3人で代々木公園から渋谷を経由して原宿に戻り国立競技場まで走った。
参加者が少なく、部長は寂しそうだった。この時私は「今年は毎月、部長と一緒に走る」ことを自らの目標に決めた。

緊急事態宣言下でもオフラインのランイベントは続き、2月は横浜・3月は東京五輪の選手村を走った。感染対策に気を付けながらも、参加者は徐々に増えていった。そして4月には皇居ランが企画されていた。
しかし、部長は4月のイベントに参加することはなかった。

3月のランを終え、銀座三越の地下でジェラートを食べながら、部長から「最近、後頭部の痛みがひどくて困っている」と相談を受けた。我々は自分の体験をもとにしたアドバイスをしたが、部長は元々デスクワークのやり過ぎと猫背から来る首痛に悩まされていたので、今回もその延長線上の痛みだと思っていた。

4月16日、Facebookで部長から投稿があった。

” 無意識下の自分をぞんざいに扱いすぎてしまった為、しばらく入院することになりました。5月末には復帰したいものの、まだスケジュールとしては未定です。また皆さまとお会いできる瞬間を楽しみにしています。しばしお待ちいただけますと幸いです。”

部長が最近、毎日長時間に渡ってPCに向かって仕事をしていたことを私は知っていたので、休息によって症状は回復するだろうと考えていた。部長からメンバーのAやのさん伝てに「不在の間はみんなでランニング部を今まで通り運営して欲しい」とメッセージが届いた。私はすぐに手を上げ、共同運営noteの運営や会議進行を担当することになった。

5月が過ぎ6月が過ぎても、部長は戻ってこなかった。それでもたまにコメントをもらうことはあったので、秋ごろには合流できるのではないかと期待を抱いていた。

” もはや投稿量的にも質的にも先生ですね。。運用面までありがとうございます!"

こんなコメントに背中を押されながら、部長の帰りを待ち続けた。しかし、7月はおろか8月になっても9月になっても部長は戻ってこなかった。それどころか、部長からのコメントもピタッと止まってしまった。

9月末、部長が愛飲していたフルーツドリンク『イノセント』が日本での販売を終了することになった。私は最後にみんなでイノセントを注文して飲もうよと、Facebookで発信した。ランニング部のメンバーの反応は上々だったが、この時も部長からは反応がなかった。

10月。定期的に部長に近況報告を送っていたAやのさんからも「最近、既読にならない」と聞いた。私の胸中には、不吉な予感が渦巻いていた。

そして11月9日の午後、部長のお母様からFacebookの友だち申請が来た。とてつもなく嫌な予感がしたが、私はすぐに申請を承認した。(この瞬時の判断により、私はお母様の2番目の友人になった。もちろんお母様の最初の友人は部長だった)

夕方になっても胸騒ぎが消えず、仕事の合間を縫って部長のFacebookを辿った。部長の最新の投稿に、お母様からのコメントが5日前に追加されていた。

” 部長“ の母美香です。”部長“ は今年の4月に悪性脳腫瘍が見つかり、北里大学病院に入院し、放射線、抗がん剤治療を受け、一時はリハビリを始めるまでになったのですが、脳の他の部位に転移し、10月11日の未明、妻と愛犬、両親と弟に見守られる中息を引き取りました。入院中はコロナでなかなか会うこともできず、最期の時を一緒に過ごせるよう、実家に連れ帰りました。どれを読んでも楽しそうで、ノートも楽しいのでfacebookはこのままにしておこうと思います。フォロウしてくださった皆様、本当にありがとうございました。”

薄々覚悟をしていたとはいえ、頭が真っ白になり、飛び出すようにして職場を出た。

職場を飛び出してほどなくして、私は代々木公園の門前にたどり着いた。

画像1

幸か不幸か、私の職場の最寄り駅は『代々木公園』駅なのだ。1月のランイベントでは各自が持ってきたノルディックポールを使って、ここでフォームチェックの動画を撮り合ったりしたのだった。

画像2

突然のことでランニングができる装備は持ち合わせていないが、ノルディックポールなら通勤用に常備している。今から、ここを起点にノルディックウォークをすることにした。

さっそくポールをセットして代々木公園の中に入り、通路を進んで行く。

画像3

園内には学生の部活っぽい雰囲気の若者たちが多く、夜8時くらいでもけっこう賑わっている。その賑わいと比べて不釣り合いなくらいに、園内に照明が暗い。昼間走るのとは勝手が違い、方向感覚が鈍る。行き当たりばったりに適当なところで曲がってみるが、案の定道に迷ってしまった。

視界はクリアではないままに、道路を走っているであろう車の通行音を頼りに「こっちかな」と舵を切る。なんとか公園の出口に至り、その先にある陸橋のような大きな歩道橋を渡った。

画像4

渡った先にはバスケの3オン3のコート、左手にはフットサルコート。もう少し進むと、右手には陸上のトラック『織田フィールド』がある。

1月のランでは、このあたりで部長が「ここのトラックを一周走ってみませんか?」と、唐突に提案してきた。「それも面白そうだな」と賛同し、このトラックを一周か2周か忘れたが、3人で肩を並べて一緒に走ったのだ。
今日も、もし中に入れるなら走ってみようと思って近づいてみる。

画像5

しかし残念なことに、改修工事中で閉鎖されていた。

そのまま原宿駅の方まで戻り、代々木競技場を超えたところの交差点で右に舵を切って渋谷駅方面に向かう。本当は園内のケヤキ並木を通り、NHKホールの脇を抜けて渋谷公会堂の前の丁字路に出たかったのだが、道を間違えて行き過ぎてしまったのだ。

曲がりばなに、ガラス張りの建物が目に入った。『Jing』だ。2月くらいに、私は退勤中にこのあたりを通りかかった。その時にここで『愛の不時着』展を開催しており、建物一面がこんな感じだった。

画像6

その時ノルディック退勤中だった私は思わず目を奪われ、写真を撮った。韓ドラ好きの部長に見せようと思ったのだ。結局見せず仕舞いだったが…

遠回りになったが、渋谷公会堂の前にたどり着いた。今ではネーミングライツで『LINE CUBE SHIBUYA』と呼ばれているらしい。誰かのコンサートが行われていたようで、会場から人波が駅に向かっている。

画像7

その波を避けながら坂を下り、センター街を経由して東急ハンズの坂を上がる。

左手には『幻々庵』がある。

画像8

我々ランニング部メンバーの間で人気の店だ。去年の銀座ランでは走った後に、その近くにできたこのブランドの新店でみんなでお茶をしたこともあった。
今日は夜遅いので、幻々庵はすでに閉まっていた。

そういえば、1月のランでも「ここでお茶でもしましょうか?」的な雰囲気でここまで走ってきたが、その日は朝早すぎてまだ店が開いていなかったのだ。

画像9

つくづく縁がない…

気を取り直して、また進んでいく。PARCOの方に戻り、そのまま明治通りにぶつかるまでまっすぐに進んだ。右手に『MIYASHITA PARK』が目に入る。

画像10

ホームレスが住み着いて治安が悪かった宮下公園の跡地に、彼らを排除して作られた商業施設だ。

画像11


建物を一瞥して、そのまま左に折れる。

緊急事態宣言が解除されたからか、火曜日の夜でも人通りはかなり多い。しかもそのほとんどが20代以下の若者たちだ。カップルの姿もチラホラ見受けられる。48歳のオッサンである私は、場違い感が半端ない。

しばらく進むと、表参道の交差点で信号待ちになった。

画像12

信号待ちの間に思い起こす。ノルディックウォークをはじめたきっかけについて。

そもそも「肩甲骨が欲するんですよ」と嬉しそうに語る部長につられて、私もノルディックウォークをすることになったのだった。毎日の通勤に取り入れるようになってから、私の肩甲骨回りはどんどんほぐれていった。おまけにその運動効果からか食欲まで増進し、5㎏も増量してしまったのだ。

画像13

そういえば、部長が愛犬「シバシバ」を片手にノルディックポールを突きながら散歩する様を、みんなで眺めるだけのZOOM会とかあったな。あれは楽しかった。

信号が青に変わった。ふたたび前に進む。左手に竹下通りが現れた。

画像14

1月のランではここを突っ切り原宿駅前に出たのだが、今日は極力曲がらずに進みたい気分なので、このまままっすぐ進むことにした。

画像15

この先は一気に人通りがなくなった。街灯もまばらになる。暗い道を人並を気にすることなく進んでいるうちに、どんどん歩調は速くなる。あわせて、ポールを突く力も強くなる。周囲の景色にも関心を払わず、一心不乱に進んでいく。もうなにも考えたくなくなり、ただただまっすぐに進む。 

坂を一つ登った後、また下っていく。このまま直進し続けたいところだが、私の記憶ではそろそろ右に曲がらないと目的地に着けない。あたりを見回して「たしかこのあたりだな」と見当をつけ、道を渡って見覚えのある路地に入る。

画像16

どうやらこの道に間違いないようだ。緩やかな坂を上りきったところで東京体育館が右手に現れた。神宮外苑だ。
半時計周りに体育館の外周を進むと、新国立競技場がそびえたっていた。

画像17

1月のランの目的地は、ここだった。コロナ禍によって一年延期した、『東京オリンピック2020』のメインスタジアムだ。

画像18

我々のような怠惰な市民ランナーには不似合いな場所ではあるが、ここ神宮外苑自体は昔から東京都民定番のランニングコースとして愛されている。

神宮外苑を青山一丁目方面に進んでいく。この先にはいちょう並木がある。我がランニング部のメンバーで、休日にこのあたりを走っているU原さんが、頻繁にこの並木の写真を撮ってはアップしてくれている。

画像19

U原さんはこの並木の中に一本だけある「くねった木」を定点観測していた。

1月のランで、我々はそのくねった木を見つけようと目を見開いて頭上に揺れる木々の枝をくまなく確認したが、見つけることはできなかった。

画像20

先週U原さんとランオフでお会いした時に、その話題となった。どうやら、部長もこの時のことが印象に残っていたらしい。

家が近い部長とU原さんは、後日行われたオンラインランイベントの最中に偶然すれ違ったことがあった。その時に「くねった木」の話題が出たと、U原さんから明かされた。まさかU原さんと私がこの会話をしていた時、すでに部長が亡くなっていたとは思いもよらなかった。

私はイチョウ並木の入り口で一旦立ち止まり、木々を見上げた。今日こそはくねった木を見つけたかったのだ。

画像21

しかし、あたり一面に照明もあまり存在せず薄暗いこともあって、結局またしても見つけることはできなかった。

イチョウ並木を抜けたところが、神宮外苑の出口になる。青山通りを渡り、路地に入る。お目当ては『エイトコーヒー』だ。左手にその店はすぐに見つかったが、すでに営業時間を終えており、もぬけの殻だった。

画像22

せっかく来たので、ガラス扉の外側から店内の写真を何枚か撮った。

この店は元々部長が知っていて、1月ランの時に渋谷でお茶を飲みそびえた私とT井さんのためにここをゴールにしてくれたのだ。3人で「バナナなんちゃらカフェラテ」的なドリンクを注文して、店内のベンチシートで飲んだ。
その時の話題は、早くも翌月のランニング企画についてだった。「来月は緊急事態宣言が解除されていればいいですね。」「また皆んなで走りたいですね。」と。

私の心の中で部長に寄りかかっていたスペースにいきなり穴が空いてしまって、バランスを大きく崩してしまったようだ。勢いでここまで10kmほど一気に歩き通したが、そのおかげか、少しは感情の波が穏やかになった気がした。
部長のような穏やかさを絵に描いた人を想うのに激しい感情は似つかわしくないな、と深く息を吸って静かに吐き出した。

なにしろ、部長といえばアメリカ大統領選挙があった夜には『カピバラが温泉に入る』動画のみを流し続けるZOOM会を開いたり、

深夜に東北地方で震度6弱の地震があった時には『姫路市の明珍家に平安時代から続く火箸風鈴』の動画

を、リツイートするような人なのだ。

そして、木村花さんがお亡くなりになった日には家から海まで走り、「世界が一つになりませんように」記事を投稿するような人だった。


夜も更けて来たので、そろそろ徘徊はおしまいにして家路に向かおう。
今日はまだ火曜日だ。心身ともにペースを調整して、無理なく今週も乗り切っていこう。

この記事は元々、部長が退院してランニングを再開した時のために用意しておいたものだ。前半部はそのためにとっくの昔に書き終えていた。それがこんなことになるとは、無念極まりない。

部長の訃報を知ってから10日以上経っても心の整理はつかず、まだ若くて有能で、なにより人並み外れた優しさを持っていた部長の将来を奪った病を恨む毎日を送っている。

私が『WE Run』で文章を書くようになってから、部長からは特に多くのフィードバックをいただいた。その一つひとつが励みとなり、ここまで書き続けることができたのだ。

でも、あなたへの追悼文を書くために私は文章を学んだわけではないのです。

部長との思い出で最も新しいのは、韓ドラ『RUN ON』にまつわること。部長と私が偶然同じキャラにはまってしまったので、部長からいっぱい話しかけられて嬉しかったことを覚えています。

そして、このドラマの邦題は『それでもぼくらは走り続ける』でした。なんかよく出来過ぎてますよね。遺言のつもりですか…

わかりました。いつまでもメソメソしていても仕方がないし、部長は戻ってこないのなら、私は、そしてPLAETSCLUBランニング部もこれからも走り続けます。

我々はそれぞれのやり方で走り続けるので、どうか部長は遠くから見守っていてください。そしてたまには、また一緒に走りましょう。

画像23

その時には誰よりも先に、私が部長の存在に気付きます。


私が所属しているPLANETS CLUBランニング部には、自慢の部長がいる。いや、いなくなった。それでも、私の中ではずっと部長はあなたです。

私の人生であなたと出逢えたことを誇りに感じて、これからも走り続けていきます。




遠くまで旅する “旅人” に あふれる幸せを祈るよ
ぼくらの住むこの世界では 太陽がいつものぼり
喜びと悲しみが 時に訪ねる
そして毎日はつづいてく 丘を越え僕たちは ”走る”  
美しい星におとずれた夕暮れ時の瞬間 せつなくてせつなくて 胸が痛むほど
遠くまで旅する人たちに あふれる幸せを祈るよ
ぼくらの住むこの世界では 旅に出る理由があり
誰もみな手をふっては しばし別れる


ご愛読ありがとうございます。
連載は、これで本当の終わりとなります。しかしこれからも私は走り続けますので、今後も『Spin-off』や別の記事は書き続けます。また皆さまとどこかでお目にかかる事があったら、お気軽にお目通しいただければ幸いです。



連載の最初に戻る


旅先で『日常』を走る ~episode0~

いただいたサポートは旅先で散財する資金にします👟 私の血になり肉になり記事にも反映されることでしょう😃