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【読書メモ】 『民俗知は可能か』 赤坂憲雄

 


■ 序章

民俗知とは、民俗や文化の集合的な無意識に沈められている知や思想のかけらに対して、とりあえず名付けたもの。民俗知は言葉に託され、言葉の中でひっそりと発酵している。言葉にはふたつの種類が存在する。耳の言葉(声・語り部・女・私・地方・方言)と眼の言葉(文字・文献・男・公・中央・共通語)だ。このふたつの言葉の対比のもとに、何気ない日常の源流や由来が辿られていく。聞き書きの旅の中で一期一会のように出会った人たちから、ほとんど無償の贈与のようにたくさんの山野河海で紡がれる言葉たちをいただいてきた。そこには多分に、豊穣な民族知がひっそりと埋もれているはずだ。


■ 一章 石牟礼道子

あらゆる権力の盛衰は、百姓たちの手の内で自在に物語される。民話は権力だって喰らう。「思うてさえ居れば、孫子の代へ代へきっと成る」と言う。それこそが、社会の下層を生きる文字を知らぬ百姓たちの思想だ。体制の思想を緩やかに鉄鍋で溶かしながら、まさしく「縄抜けの技」を秘得しているかのように。

盲目のイタコは、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされた、とりわけ耳の人である。依頼者のわずかな「ことば」から実に鋭敏にたくさんの事柄を察知し、あの世からの言伝てを紡ぎ出す。そして耳の人が、「語る」声の人になる。
「聞く」とは単に語り部の言葉を聞くこと以上の、はるかに深い魂の営みが込められている。そもそも文字によって書き留めることが可能な言葉など「ことば」という全体的なる物のほんの一部でしかない。石牟礼道子はとても耳の良い人だ。五感が柔らかく他者に向けて、外界に向けて開かれた人と言う意味で。

石牟礼は、繰り返し日常の裂け目に噴出する不幸な出来事を描くと同時に、その出来事が起こる以前の地域共同体の日常の有り様を、その幸福を、同じ質量を持って描こうとしてきた。石牟礼文学においては、日常と非日常とが、民族誌と事件の記録とは分かち合いがたく結ばれている。それに比べ、日常の暮らしや生業に関心を集約することをあえて自らのアイデンティティーの核とする民俗学の、ある歪みを思わずにはいられない。民俗学は水俣病のような社会的な事件をテーマにすることを避け、あくまで日常のケの民族誌を大切にしてきたのだ。無論体のいい言い訳に過ぎない。知的な怠惰を見逃すわけにはいかない。

水俣の源流の湧水はどこまでも清らかであり、手に汲んで飲むことができた。一方、福島の源流の森は立ち入ることすら禁止される、汚れた野生の王国である。福島では何もかもがまだ始まったばかりであることに気づかされた。なぜ震災とともに原発は巨大な爆発事故を起こしたのか?それを直に問いかける事は私の仕事ではない。ただ、そこに生まれてきた汚れた野生の王国について手探りに問いかけることができる。たとえば、原発が建てられたエリアは入会地(資源の共同利用地)であり、それが塩田となり無用の土地として買い占められ、あげくに原発立地となった。これは無主・無縁というテーマにもつながっていく。

原子炉は絶え間ない冷却のために大量の海水の供給を必要とするから、海辺に建てられなければならない。海には「神の火」をなだめ、その吐き出す穢れを浄化する役割が古来より託されていた。近代は、人と自然との境界に広がっている渚や浜辺・潟などの犠牲の上に、その経済的な発展を手に入れてきたのではなかったか? このような文明や人間の原存在の意味への問いが生まれ、『苦海浄土』は福島へと引き移される。
やがてこの福島の渚から、ももう1人の石牟礼道子が誕生してくるに違いない。


■ 二章 岡本 太郎

『日本再発見』『沖縄文化論ー忘れられた日本』『神秘日本』は、岡本太郎の日本紀行三部作だ。太郎は、弥生以降の静謐で予定調和を尊ぶ日本人の美意識や文化に対して、縄文に象徴されるような荒々しくダイナミックな波長の美学を対置することによって、日本文化論に新たな地平を切り開いた。
太郎は若き日にパリ大学で民族学を学んでおり、世界中の未開民族から収集された物の中に秘められた意味やシンボリズムを読み解く方法を伝授されていた。太郎は、地方文化の豊かさや独自の様式などといったものには期待も幻想も持たず、東京へのコンプレックスと背中合わせの地方文化意識を痛烈に批判した。そして、列島の外部から日本文化を眺める限りなく開かれた「民族学的」な眼差しによって、日本そのものを再発見した。

太郎は「日本人としての存在を徹底してつかまない限り、世界を正しく見渡すことができない」と考え、日本民族の中に秘められた文化の独自性を探求するために旅を繰り返した。そして「世界における同質化・ジェネラリゼーションが拡大すればするほど、逆にパティキュラリティーも異様な底力を帯びながら生きてくるような気がしてならない」と述べた。言い換えると、「世界のグローバル化に対して、ローカルな物たちの復帰が求められている」ということだ。
また、民族は見えない「固有の記号」(島国の「同質の生活的感動。いわば秘密のようなもの」)を持っており、その根深い神秘を読みとかなければならないと考えていた。

太郎は日本文化論を描く上で「現代日本を眺め返す貴重な鏡」として、縄文と沖縄を楕円の二つの焦点に設定した。また正の世界(祖霊信仰)/反の社会(自然崇拝)という対峙の構図で、修験道を「精神の連合体を土台にしたインターナショナルな組織」と解釈した。太郎は、縄文の血脈を引いたやエゾやアイヌのことが「本来の日本人」であると言いきっている。縄文やアイヌや狩猟採集といった「北の文化」と、弥生や大和や稲作農耕など「西の文化」とのあいだに引き裂かれた東北に、太郎は奇妙にズレた二つの異質な舌触りを感じた。そして、仮説を検証するために旅を続けた。
一方で、太郎は一貫して「生活」をテーマとして取り組んできた。「民衆の生活そのものの中から自然に凝縮し、溢れてきた姿。そのデリケートで気品に満ちた凄み」として、生活や日常の澱みの極限において、事故や世界を根源からうち開くために行われる神聖にして厳粛なる祭りを捉えた。そして、祭りや神秘といったものは「生活」に根ざした凄みにはかなわないということにも気づいていた。


■ 三章 網野善彦

網野善彦は歴史をめぐる哲学や理論の専門家ではない。実証主義を重んじる正統的な歴史家である。網野以前には、「国民史。つまりは近代的に主体化された民族を主眼とする歴史観」が主流であり、大雑把に言えばそれしかなかった。皇国史観からマルクス主義的な歴史観まで、皆同じように国民史だった。網野史学はこうした国民史から、ブローデル流の「重層的なネットワークの史学」への転換を日本において司った。
網野史観では、「農業的な(悪を忌避する)社会」と「非農業的な(悪を称賛する)社会の二元論が、繰り返し語られた。共同体の内なる秩序原理としての「有主・有縁・所有」に対して、共同体の外部を生きる者らを支える「無主・無縁・無所有」の原理が対置される。まず無縁も有縁も未分化状態があり、そこから中世に農業の成熟と貨幣の流通により都市と農村が分化されていくにつれ、前者が優勢となっていったと解説される。

『無縁・公界・楽』が構想される起点には、国家と支配の発生をめぐる根源的な問いがあった。古代の共同体民衆は、支配や隷属とは無縁だった。自由民としての伝統、「原無縁」「原自由」に拠ることで、族長らによる奴隷的な動きに抵抗していた。古代律令制はそれらを「公」「国家」として組織し直し、共同体民衆を自由民と位置づけた。権力や支配は外部からやって来るのではなく、「『公』の体現者としての律令国家・天皇」に対する民衆からの共同化された期待と幻想によって、初めて可能となった。
定住と農耕を基調とする共同体から外部性を刻印された「無縁」の者たちは、朝廷に公事を納めることと引き換えに、天皇によって「無縁」の場に対する特権を与えられ保証された。そこでは、貧しく寄る辺なき「無縁」が、それ故に自由であるという逆説が実現している。網野の手にかかると、博奕は芸能のひとつに数えられ、道祖神は「底知れぬ根深さ」を持つ神であり、飛礫は「動物から原始の人間を区別した根源的なもの」と解読される。

網野が提唱した「無主・無縁」の世界は、実体としてそこに存在するのではなく、ある関係の結節点として「モノ・人・場」として姿を表すのではないか? 市のような境界領域ではケの日は乞食がたむろしているが、ハレの日には交易の場として賑わう特別な空間になるように。また、巫女が「神の嫁」としてセックスや生殖を禁止された一方、遊女の性は不特定多数の男に対して開かれていたことは、無主・無縁の存在であるという共通点によって連続性が認められる。
また、網野は列島社会における資本主義のルーツに関して仮説を示している。「土地所有から出発して、農業の生産力が発達した結果として商業や手工業が農業から分離し、地域的な市場圏が発達していく。」というのが今までの多くの筋書きだった。それに対して、「市場は無主の場所に初めて成立すると考えられ、その意味では無主・無縁の海の世界こそが資本主義や市場経済を育てる大変な重要な基盤になっている。また14世紀以降の日本の社会は経済社会であり、資本主義はそこから考えなくてはならない。」と網野は言い切っている。


■ 四章 宮本常一

宮本常一は「あるく・みる・きく」ことを方法として、この列島の村から町へとひたすら歩き続けた民族学者である。その歩行と思索の所産として、膨大な民族誌や生活史が残された。宮本は渋沢敬三の「敗戦後に備えて、日本国内を歩いてひと通り見ておくことが大切」という意向(治者の眼差し)にしたがって、列島の社会=文化の全体を眺望するために旅を続けた。宮本は、柳田民俗学とは異なる、小さな人生(人それぞれの自分史)がそれぞれに抱え込んだ生活史を起点としたもう一つの民俗学を志向した。そこでは、民俗的な調査よりも、民衆の生活自体を知る事の方が重要視された。

『忘れられた日本人』が私たちに突きつけているのは、「事実とはなにか」「真実とはなにか」「現実とはなにか」といった手垢まみれの問いかけだ。たとえば、聞き書きは「聞く→書く」では完結しがたく、その間には必ず「編む」プロセスが介在している。民俗誌であれ生活誌であれ、それはみな避けがたく編集の所産である。宮本は箇条書きのような形で話を聞く事はほとんどない。できるだけ相手に自由に話してもらう。話してもらうというよりも話し合う。

宮本は生涯にわたって、周防大島の百姓であることを誇りにして、自身のアイデンティティに据えていた。郷里から広い世界を見る、動く世界を見る、いろいろな問題を考える。これが宮本のスタンスであった。郷里の外では「大島の百姓の子」として振る舞いつつ、郷里においては「世間師(若い時代に奔放な旅をした経験を持った者)」として敬意を持って迎えられる。それゆえに宮本の手法は「彼の故郷の延長線上において、あらゆる事物を観察しているに違いない」と批判されることもあった。
21世紀を生きる人々の多くはすでに「故郷」を失っており、もはや異邦人としてどこに行っても異郷しか発見できずに彷徨っているのではないだろうか? 「近代をこえる」ために、宮本の著作は転換期の思想の可能性と振幅において読み直されるべきである。

■ 五章 柳田國男

柳田國男の頭の中には、まるで百科全書のように、日本文化について思いめぐらすために必要不可欠な「民俗知」が膨大に蓄積されていた。彼は、近代が内部留保のごとくに抱え込んでいる近代以前を掘り起こし、それを起点にして近代をより良くデザインするために格闘した思想家であった。
例えば、柳田が『都市と農村』の中で、地方分権に絡んで都市の連携についてこう語っていた。「地方分権は避けがたく『中以下の都市』を有力なものにする。その相互の連絡と融通とが親密になると、それまで『中央の寵児』になろうとして競い合い敵視しあってきた都市の間に『確実なる対等交通』が成り立つようになり、その利益はさらに都市の周囲の農村部に及び、都市と農村との関係は新たな段階を迎えるかもしれない。」
また、柳田は村の伝統の中に埋もれている共産主義的なるものにも注意を促していた。村の協働の一番古い形である「ユイ」という社会的な制度を、共産主義的なるものの萌芽として思い浮かべていた。近代に入り、行政が村固有の共産制度に干渉して整理と分割と断行した結果、「婦女幼若衰老の家々」の生計が逼迫してしまったのだ。

思想家としての柳田國男がもっぱら語られるようになったのは、その没後だった。高度成長期の光と影のもとで、柳田が語り続けた日本文化像が新たな価値を付与されながら、再発見されていった。吉本隆明の『共同幻想論』を仲立ちとして、戦後生まれの全共闘世代が柳田と『遠野物語』に出会ったのだ。右手に『古事記』、左手に『遠野物語』といったいったイメージで、生と死の風景・共同体とそこに生きる人々の金忌にまつわる根源的なテクストとして再発見されていった。60年代後半から70年代にかけて柳田民俗学は社会変革や天皇制批判の拠り所となり、90年代になると一転して植民地主義への加担者としての柳田への批判がふきあれた。しかし、柳田は近代に誕生した国民国家としての日本を「下」から支えることに心血を注いだのであり、それ以上でも以下でもなかった。
博物学的な教養をベースに「郷土研究」を提唱した南方熊楠の考えを、農政学者として「平民」の農民生活史を構築するために柳田は退けた。それでも20年ほどの試行錯誤の末に、民間伝承=民俗学へと着地した。

柳田は、フランスのアナール派歴史家の「感性の歴史学」に匹敵するような仕事を、たった一人で行った。『遠野物語』以前はまだ民俗学は存在せず、柳田は新たな分類へのまなざしや方法論を持って、歴史学とも民族学(文化人類学)とも一線を画した郷土研究としての民俗学を生成していった。私たちの近代知の系譜の中では、常に日本文化の輪郭をめぐって幾重にもよじれた葛藤が演じられてきた。それは「ひとつの日本」と「いくつもの日本」の間でのせめぎ合いであり、ふたつのミンゾク学の錯綜する交流史として見出され論じられてきた。

日本人の固有信仰の核にあったものは、柳田のいう祖霊か、それとも折口信夫のいう異人か。山の民/稲の民/海の民という三つの種族=文化が中世以前には混淆することなく共存していた。そして稲の民が日本を構成する民族の中心になっていった。一方で山の民には神の教えを語り伝え自ら神々になって歩く異人が存在した。折口はゴロツキや乞食の徒・被差別の民をも異人の範疇にとらえた上で、発想の根拠を共同体と外部との間に置いた。
柳田の思想でははじめにイエと稲があり、個々のイエに降りる祖霊がある。一方折口の思想の基礎は、はじめにムラありき、ムラを訪れる異人ありきである。また、柳田が「今を足場にして元にさかのぼっていく研究態度」を取っていた反面。折口は民族学的な「古代から近代へ降りてくるやり方」を取っていた。


■ 終章

「日本」を冠された文脈の中では、日本での記憶概念の理解は、1990年代における『戦争の記憶』論と『国民国家(批判)論』の隆盛を抜きにしては語れない。記憶とは、体験/証言/記憶の三位一体で、時期によって三者の関係は変化する。
90年代にムラは終焉を迎えた。かつてムラは居住の場/生業の場という性格を抱え込んでいたが、生業の場としての貌を喪失してしまった。そうなるとムラは郊外のニュータウンと変わりなくなってしまう。また、最近では季節や曜日によって居住地を変えることがありふれた現実になり、定住の概念について見直しがせまられている。現代のムラ歩きは、記憶の残像の追跡がテーマとならざるを得ない。

この国で戦争の時代のはじまりである1930年代に民俗学が起こったことは偶然ではない。この時期に「農村の危機」が叫ばれたのは、ムラの建て直しが戦争の遂行のために必要とされていたからである。
農民はまさしく「記憶と一体化した集団の典型」だが、昭和以降に生まれた語り部たちは体験とされるものの大半が間接化されており、またムラそのものを「封建的」なる負のラベリングとともに否定した世代である。

生きられた記憶から、記録としての記憶、それゆえに歴史に捕捉された記憶へと、見えない転換が起こっている。その地の集合的遺産が結晶化されているもろもろの場所、つまり集合的記憶が根付いている重要な「場」を分析することによって、広大な地勢図(トポロジー)を創り出してみたい。


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