ハレモノ 【ショートストーリー】

ハレモノ

 暗闇の中で眼ン球のおれを置き去ってゆきまして、身体は何処に向かえばいいか、わからずに気が赴くまんま、ひたりひたりと湿った地面に足を乗せているようでした。
 一方、眼ン球のおれは眼窩から離れてしまったので、寒々とした風を全身に浴びて縮こまっていました。
 暗い中でも不思議と明瞭に見えている身体は男にしては小さい部類でしょう。段々に遠のいてゆく面皰だらけの背中は、丸まってよたよた歩くもんですから力なく感じます。それでも、無いよりはましでしたんで頼って手を伸ばそうとしましたが、眼ン球に腕は無いから、視線の先にある胴に引っ附いた腕が虚空をさまよいました。
 なんだかその姿が、浅瀬で溺れる人のようでつい嗤ってしまいましたが、声が出たのはやはり身体のほうで愉快な気分は一気に萎れてゆきました。
 身体のほうが喋りました。
「ああ、見えない見えない。真っ暗だ。何処に落としてしまったんだろう。眼ン球よ、何処だ。何故、おれから離れたの」
 それに眼ン球のおれは応えました。
「此処じゃ此処じゃ。後ろじゃ。体よ、それ以上は離れるな」
 けれどもやはり喋るのは体のほうでした。
「何処と云われても。後ろとは何処じゃ。どっちが後ろなの」
「後ろと云ったら後ろじゃ。背中のほうへ後ずさりをしなさいな」
 眼ン球のおれの云いたいことを喋った体は、慎重そうにして後ろ向きに歩こうとしましたが、おれに近附くばかりか、横道に逸れて段々遠のいてゆきました。
 的外れもいい所でした。さらに、足が縺れたかと思えば盛大に尻餅をついた格好は無様でした。
 ふと、ひんやりと寒気がしたかと思うと粒なおれの何処から湧き出るというのか、水がどんどん溢れてゆきました。
 涙はこちらの領分であっても呻き声は身体の領分であるようで、暗い地面を這いつくばりながら獣のような声をあげています。
 やがて視界が水に浸かり、その一瞬で眼ン球も身体を見失いました。
「何処じゃ!何処じゃ!」
 呆然とした身体と眼ン球は背丈の倍より離れてしまっていました。


 暗闇と云うのはどこか赤っぽく感じるとおれは知っていました。
 眼ン球ころころ何処へゆく。
 眼ン球は途方もなく遠い所へ転がって、無いはずの目蓋を閉ざして見ることをやめてしまったようです。
 と、ここでぬかるんだ泥を踏むような足音を拾いました。遠くにあったそれはやがてこちらに向かって来るようでして、ぴちゃりぴちゃりと足早の音は大きくなりました。
 真後ろに立たれたようです。
 女、でしょうか。香水の匂いがします。花の香りだと思います。少々苦手な匂いです。
 格好悪く気が引けますが、この人に助けてもらいましょう。
「どのような方か存じませんが、おれの目を探してくださいませんか。そう遠くないところに落ちているはずなんです。お礼はたくさんはありませんが気持ちばかりできるだけ」
 眼ン球に対するのと違う、おれの一等優しい声で頼み込んでみました。
 返事はありませんでした。
 異形のおれにびっくりしてるのかしら。だとしたら悪いことをしている、
「すみません、すみません。こんな形をしておりますが、怪しい者ではございません。失せ物探しをしているだけなのです。あなたに危害をくわえることもできない非力な男です。ええ、はい」
 瞬間、背中がチリッと傷んだかと思うと、鋭く痛みました。何か刃物の切っ先でも向けられているのでしょうか。
 一度で終わるかと思った痛みはまた一つ、また一つと何度も何度も繰り返されました。
 じくじくと熱を持ち、背中はきっと血と潰れた面皰の油分で粘ついているでしょう。鉄と油の匂いがします。我がことながら気持ちが悪く、筋肉ごと脱皮をしたくなりました。
 延々と終わらない攻撃に、ついに耐えかねて振るうつもりのなかった拳を、突き出してしまいました。骨はあれども人間らしい柔らかな感触でした。悲鳴が聞こえました。手は少し痛くなりましたが、背中ほどではありません。
「やめてください」
 言ってから、殴る前に言えばよかったと後悔しました。
ですが、相手は聞く耳でも落としてしまったのかまたしても、おれに刃を向けてきまして、ここでようやっと気付きました。
 女はおれの面皰を潰していたのです。
 刃物はカッターナイフかもしれません。面皰を抉られる感触に混じって時折薄い裂傷も負わされていますから。
 視覚が遮られると他の五感が冴えるものなのだと、改めて知りました。
 成程、成程。
 この女は実は子どもなのだろうか。大人のおれの幾分も大きな背丈で香水を振りまく幼女であったりするのかと想像したが、馬鹿馬鹿しいと考えるのをやめました。そして幼女であったところでどうとも変わりません。
 おれは苛立ちました。なんと理不尽な。
 眼窩の周りがとても熱く、眼ン玉が涙していることは瞭然です。鼻水が出て口周りを汚し、少し塩気を感じます。熱のせいで空洞が強調されたみたいで、不安が大きくなりました。
 良いことを思いつきました。
 おれは、くるりと向き直って、両腕を広げました。そして勢いよく目の前にいるであろう女に抱き着いてみました。 
 果たして成功し、女は悲鳴を上げました。その拍子によろけてくれたので、そのまま押し倒してやりました。
 女の顔を探すために、身体をまさぐりました。まろやかな体はやはり女だったようです。乳房らしき膨らみもありました。
 途中、おれを刺していたと思われる凶器が眼窩の近くの頬を傷付け、驚いたので女の手を振り払おうと腕を動かしました。その腕は丁度、女の手に当たったようで、その拍子に凶器も落ちたのか、水気のある地面を叩くかすかな音が聞こえた気がします。
 再度、抵抗する女の体に少しの制裁を食らわせながらよじ登り顔を探しました。
 女の顔は肌荒れ一つないようにさらついていました。そういえば体もきれいな手触りでした。羨ましさが湧いてきます。そして、おれと違いちゃんと眼球があることを確かめて、手を伸ばしました。









拙いですがちょっとした小話を書いてみました。 しお味。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?