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#わたしのしあわせnote

 こちらの企画に参加させていただきます。
 もつにこみさん、皆さん、どうかよろしくお願いいたします。

 それとここで一度きちんとお話しさせていただきたいのですが、何か月もの間生活がごちゃごちゃになっていて企画の参加やほかの方のnoteを読む機会が激減していてご心配やご迷惑をおかけしてしまった方がたくさんいます。そのことをここでお詫びさせていただきたいと思います。

 私事で大変恐縮なのですが、これから外で働くようになっていくので、今までのようにはnoteに集中できなくなるかもしれません。そのことをご理解いただいて、これからも今までのようにお付き合いくださったり、応援していただけると本当に有難いです。

 エイプリルフールの企画、参加できなくてNNさんには本当に申し訳なかったと思っています。いつか機会がありましたらどうかよろしくお願いいたします。

 そういう感じで、今までとはいろんなタイミングがずれてしまうかもしれません。

 私事で恐縮ですが、どうかご理解とご理解を頂けると有難いです。
 よろしくお願いいたします。

 それではもつにこみさん、よろしくお願いいたします。

 私はnoteを書き始めてからずっと、しあわせについて考え続けてきました。多分その前も、自分自身のしあわせを考えていたと思います。

 しあわせになりたい。
 それは生きている人全部の願いで、みんな同じだと思います。
 私もいつもしあわせなりたいと考えて生きています。


 私を客観的に見たら多分、かなり不幸だと思います。
 でも私、何時もしあわせを望んで生きています。

 しあわせ。
 本当のしあわせって何でしょう? 

 考えてもわからない。
 それがしあわせというものの正体のような気がします。

 私が自分をしあわせだと感じていた時、私は他の人と自分をくらべてはいませんでした。ただ自然にその時、しあわせだと思っていたような気がします。

 子どもがしあわせそうに笑っていた時、平和な顔をして眠っていた時、私はとても満ち足りた気持ちでした。

 ものや家を持っていた時も、それ自体を誰かに自慢することよりも(そういうことは極力したくないと思っています。気分悪いですよね)そのものから感じられる安心感や落ち着いた感じに感謝するような気持ちでそれを受け止めていました。私がしあわせを感じる時、他の人とのひかくより、自分自身の充実感の方が大切だったと感じています。

 私がずっと望んでいたのはじぶんの心が満たされて落ち着くということでした。だから自分自身も含めて人をもののように扱うなんてできないししたくないと思うのです。お金を大切にしてきたのも、それが自分と子どもや家族を大切にすることにつながっていくことだからで、人間よりもお金を優先しないでも住むようにしたいという思いからでした。お金は人を守るためのツールで、一番大切なのは自分や家族が落ち着いた暮らしをしていくことだから。

 お金が沢山あるといいと感じるのはそのことで安心感が増したり、行動が自由にできたりするからで、お金それ自体にはあまり意味はないような気がするのです。

 実際いくらお金があっても不幸な人は沢山います。
 お金があるだけではしあわせにはなれません。

 お金で得られるしあわせも確実にあるとは思うのですが、それ自体を目てくにしてしまったら間違うような気がします。

 でも私、お金は沢山欲しいです。
 それは自分の生活を自立的に送るためと、大切な人達に貢献できることが増えていくからです。お金は多分絶対に、人を守ったりしあわせを作るために使うもので、他の人より優越するための道具ではないと思うのです。見栄を張るために使うのは間違っていると思いますし、そういうことは好きではないです。

 そんなに潤沢にお金があったわけではないのに子どもを進学させたのはその子の進路を守ってあげたかったからで、見栄のためではありません。見栄のためにお金を使うなんて基本的に間違っていると思います。

 私が頑張ってきたのは、人に見栄を張るためなんかではなくて、自分の心が満たされて落ち着いて暮らしたいから、豊かさってそういうものやことから生まれてくるような気がするからです。

 心に余裕があることで、いろんなことがうまくいったり、穏やかに平和な気持ちで暮らせます。でもそこにほかの人との比較を持ち込んでしまったら落ち着くことはありません。絶え間なく比べ続ける生活が続いて行ってしまうだけです。

 そこにはしあわせな気分は入り込む余地はなく、いつも誰かと自分のことをくらべて怯えていなくてはならなくなってしまいます。

 そういうの、苦手です。
 だからしたくないんです。

 私の子どもが何故だかある日、「〇〇君みたいじゃなくてごめんなさい」と言いました。理由は私にはわかりませんでした。でもすぐに「お母さん、〇〇君よりもあなたがいい。〇〇君が百人いるより、あなた一人がいてくれればいい。どうしてそんなこと言うの?」と訊ねると、何も言わずに黙ってしまいました。

 私の子どもは取り立てて特別なところなんてありません。
 とてもまじめでまっすぐでひたむきに努力ができる子どもではありますが、それ以外に何かがすごく突出しているとは言えないとうな気がします。

 それでも私にとってはその不器用でくそまじめな普通に優しいその子だけがかけがえのない大切なわが子です。他の子と比べたことはありません。

 私はその子が自分の子どもとして生まれてきてくれたことを本当にしあわせなことだったと感じ続けてきました。

 心のきれいな優しい子どもだったこと、健康で前向きに生きてくれていること、それだけで十分です。

 私は自分と誰かをくらべないことで自分の心を守ってきました。
 私の指針はいつだって限られた生活の中でどんなふうに前向きなことを増やしていくか?それだけでした。

 いろんな制限や困難がある中で、自分に何ができるのか?
 本当にそれだけでした。

 足りないものばかりの中でどうにかこうにか頑張って暮らしをつなげて生きてきました。そしていくつかのことを実現することができたから、自分を好きになれました。後悔はありません。

 もうどうしようもなくなってしまったことをいつまでもごちゃごちゃ言っていても仕方ないのです。終わってしまったことをどうにかしようとするより、今できることやこれからどうしていくのかの方が絶対に大切です。

 そう考えることができたから、震災で家を失っても、母のことで苦しんでも、まだ前を向こうという気持ちが持てた気がします。

 そこには いつも希望だありました。

 パンドラが間違って開いてしまった箱の最後にそっと入っていたものです。

 私は子どもを守りたくて自分を犠牲にしてしまいました。
 母の時もそうでした。

 そして今、二人から離れてしまったことでやっと、自分自身に向き合うことができるようになりました。

 子どもと母を恨んだり、帆亜kの人と自分をくらべて嫉妬に狂ったりしないでも済んでいるのは長い間に身に着けた考え方があるからだと思います。

 それは人と自分を比べないことと、自分自身の生活を最後まで自分で守りたいという気持ちでした。それは決してほかの人と暮らさないというものではなく、助けを借りないというものでもなく、誰かに依存していないと生きられないという状況を避けるために準備しておきたいという姿勢です。

 私は子どもと母以外にも、助けてあげた人がいます。
 それは私の弟でした。
 私は彼のせいで何もかも失っていましたが、彼は自分の責任を果たしていなかったことを全部棚に上げて、私を非難しています。

 そのこともいずれ彼自身がどこかで自分のものとしてかたずけるしかなくなっていくと思うからそのことに拘泥するより私は自分の夢を叶えてしあわせになりたいです。

 私自身が不器用で、いろんな人の邪魔も入って、どんどんおかしくなってしまっているけれど、それでもです。

 ものすごく不器用な私でも、思い切って行動することで今までは新しドアを開け続けてくることができました。その時に、いろんな人にお世話になってきました。

 その人達の心の中が全部きれいなものだけで満たされていた訳ではなくても、私や子どもや母親が何とか生き続けてくることができたのはその人達のおかげです。

 どんなことをするのでも自分一人では出来ません。
 子どもを持ってそのことを更に強く感じるようになりました。

 弟は私から見てとても楽そうでした。
 でもうらやましいと思いませんでした。
 私は子どもを持つことも外に出て苦労はしたけどいろんなことを実際に実現することもできました。

 これからもできるぞ!と、先人に言われても、苦しすぎる今を生きている私には身動きが取れません。

 僻みと妬みの塊のような人たちに壊されそうになってしまって逃げだすことができなくなってしまっています。

 どうしたらこの状況から抜け出すことができるのか、私にはわからないけれど、絶対に抜け出したいです。



私が不幸になってしまったきっかけは、母がものすごく嫉妬心の強い人だったからです。

 でもそのことに母自身は気づいていなかったような気がしています。

 そしてそうしてしまったことで母は結局苦しみました。
 自分自身が出したもので彼女は苦しみ続けたんです。
 そんな気がしています。

 だから私は子どものことを自由にさせてあげたいと考えました。
 自分とは違う自由を子どもに与えてあげたいと思ったからです。

 そのために長い時間をかけてコツコツお金を貯めて準備しました。
 いろんな場面で頭を下げて子どもを守る努力をしました。
 そして自分も自分の夢を叶えたいと考えてnoteを続けてきました。

 そこには私の知らなかった切磋琢磨がいくつもあって、驚くことの連続でした。シンプルに自分が成長してゆけば解決することばかりではないのだと知って、やめようかと考えた事もありました。

 でも私、続けてきました。
 書くことが本当に好きなんです。

 下手だけど、不器用だけど、弱いけど、それでもです。

 そういう気持ちを大切にしてくれようとした人達に感謝の気持ちをささげたいです。

 希望を持ち続けていられるのはありがたくしあわせなことです。


 この文章を書くきっかけをくださったもつにこみさん、ありがとうございました。

 そして、こんなに長くなってしまって本当にごめんなさい。


 読んでくださって本当にありがとございました。
 これからもどうかよろしくお願いいたします。



ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。