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防災クッキングアドバイザーになるきっかけ

皆さん、初めまして。

ここでブログを始めるにあたり、現在の防災クッキングアドバイザー、  防災アドバイザーになるまでの経緯を少しだけお話ししておきます。

きっか

まず、私の防災意識が高まったきっかけですが、            1995年1月17日に起きた、阪神淡路大震災になります。

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 * 写真はお借りしています。

あの高速道路が崩れ落ちてしまった映像や、あちこちから見える火災の煙は、とても大きな衝撃でした。

この時は独身でしたが、この阪神淡路大震災がきっかけとなり、枕元に鞄などを置くようになりました。

それから2年後に結婚し、翌年には長男を出産しましたが、そこでも同じように枕元には鞄と赤ちゃん用品の入った鞄を置いて寝ていました。

その頃はあまり防災用品も充実していなく、又、値段も高くて育児世代には揃えるのが大変でした。情報も少ない時代でしたから、一つ一つをよく吟味していたのを覚えています。

備えも進化

その後、一軒家に住むようになってからは更に防災用品も増え、枕元に置いていた鞄から、非常持ち出し袋へと進化していました。それに加えて、備蓄も三日分と少しずつ揃えていくようになります。この頃の非常持ち出し袋は既に家族分を備えていましたが、中身の食料は1人1食分程度と飲み物だけでした。それから数年後には、非常持ち出し袋の中身も二日分とお菓子なども入れるようになります。

運命の日

月日は流れ、2010年に次男を出産します。そして翌年の3月に、あの東日本大震災を迎えます。

長男の小学校の卒業式が間近に迫った3月11日の午後2時46分に、

急に揺れだしました。

少し小さめの揺れからだんだんと大きくなり、いつもならそろそろ終わるのではないか?という時間が過ぎても揺れは収まらず… 更に揺れは大きくなりました。およそ1分半の揺れでしたが、いつ終わるのか?まだ終わらないのか?それとも、もっと揺れるのか?という大きな不安が頭をよぎり、腕の中にいる次男をギュッと抱きしめました。

私の住んでいる千葉県では、埋め立て地の液状化や石油コンビナートの火災などが起きました。幸い、住んでいる地域は大きな被害が出ませんでしたが、余震の恐怖と計画停電がしばらく続きました。

流通のマヒと計画停電

長男が小学校低学年の頃は、家で備えている備蓄の量は、およそ3日分でしたが、子供の成長とともに備蓄の量は増えて、東日本大震災の時には10日分くらいは備えていました。

非常持ち出し袋も同様で、中身を増やしておきましたが、長引く流通のマヒ、計画停電で備蓄の品も徐々に減ってきました。赤ちゃんを連れて買い物に出かけても思うように買い物もできず、只々、時間だけがかかり、   また、いつ来るかわからない余震と計画停電を気にしながらの家事はとても大変なものでした。

この時に、いかに時間をかけずに同時に調理できるか?備蓄品で簡単に美味しくできるか?を考えるようになりました。


* 毎年、年2回の備蓄品のチェックをしています。


國崎信江氏からのお声かけから

東日本大震災から4年が過ぎたころ、危機管理アドバイザーの國崎信江さんから防災クッキングのお声かけを頂きました。この頃は子供がまだ小さいこともあり、少しずつ手伝うようになりました。

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段々、次男も保育園に慣れてきてかたことから、本格的に活動を始めることになりました。

ここからが、私のスタートとなります。


*現在は、防災クッキングアドバイザー、防災アドバイザー、ポリ袋料理研究家として活動しています。

講演、講座などのお問い合わせは、下記までお願いいたします。

https://cafetora.amebaownd.com/



* 次回は熊本地震からの話を書いていき、今後は防災に関しての色々な情報や暮らしに役立つ情報などを載せていきたいと思います。





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