生きづらさを抱えているのは若者だけなのか?

ADHD、HSP(高感受性過敏症)、適応障害などの言葉が最近若者を中心に広まっているが、若者だけが生きづらさを抱えているわけではないだろう。

実際、とある70代の男性との会話を通じて、後期高齢者も同様に生きづらさを感じているなと思うことがあった。

「私は古い人間だから、携帯やスマホは使えないんだ」

そう話す彼に、興味深いと思ったわたしは「ふーん」と返す。

すると彼は突然怒りだした。

「高齢者を馬鹿にしているのか!」「失礼だがあなたは何歳かね?」

「28です」

「あなたの歳を倍にしても私の方が長く物事を経験しているぞ!」「世界を旅したこともあるんだ!」「最近の若いものは敬語を使えない人も多いな」「言葉には気をつけなさい!」

当然ながらこの時のわたしは彼を馬鹿にするつもりも蔑む意図もなかった。ただ素直に興味深いと思ったのだ。

そして考えてみると、彼を馬鹿にしているのは彼自身だと思えてくる。

突然怒りだした理由をわたしなりに勝手に推測してみる。

きっと彼はスマホなどの新しいものに自分が適応できていない事を、どこか恥じているのではないだろうか。堂々と諦めているのならば、仮に本当に馬鹿にされたとしても怒りなど湧いてこないはずだ。

そして目の前の若い人間がとったリアクションを、悪意のあるものだと勝手に勘違いして怒り散らした。


この推測が正しければ、今回の事象には幾つかの問題が組み合わさっていると思われる。

まず一つは、時代の変化するスピードが速すぎること。
後期高齢者たちにとって、今のテクノロジーの急速な進化は非常に大きな障害だ。彼らはスマートフォンや携帯電話の使い方を理解することが難しく、これらのデバイスが日常生活に与える影響に適応しにくい状況。テクノロジーが進歩する速さに対応することが難しいのだ。

また、64年も続いてしまった昭和時代に培われた価値観も彼らの生活に影響を与えている。
「他人に迷惑をかけない」「根性で頑張る」「人に頼らない」などという考え方は、彼らの中で未だに長く受け継がれている。

これらの価値観は時代の変化に対応しにくく、新しいアイデアや方法を受け入れることが難しいのかもしれない。


それに輪をかけて状況を厄介にしているのは、個人のプライドの高さ。
下に見られたくないし、バカにされたくないと思っている。新しいものに触れる機会は、自分の苦手を晒すことだ。そんなの耐えられない。だから昔から慣れ親しんだやり方で生きていく。


そしていつのまにか、情報格差は拡大していき、個人の生きづらさを生み出してしまう。

このまま時間が進めば彼らは時代に淘汰されるしかない。だが、人生100年時代と言われる昨今、その淘汰は数年程度ではなかなか来ないような気もする。

このような状況で、彼らの抱える生きづらさに対処するためには、どのような手段が考えられるだろうか。

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