俺たちの「旧林療院」
こんにちは!
今回は岐阜県郡上市にあった病院「旧林療院」をご紹介します😊
毎回戦前までの古い建築をご紹介していますが
建物が取り壊しを免れ残されるのには色々な理由があって
歴史上の偉人が住んでいたとか
西洋の文化が浸透していく過程が現れているとか
今では再現できない技術で出来ているとか
残す価値も様々です!
その中でも今回ご紹介する建物は
「何かの象徴として残されている」という部類だと思います。
もちろん建物自体も歴史的に貴重ではありますが
建てた背景を知るとそれだけじゃないことがわかります😊
では早速ご紹介していきます!
岐阜県民の私による郡上市とは
まず皆様にお伝えしたいのは
岐阜県および郡上市がいかに地方都市であるかということであります!
そもそも岐阜県は都道府県魅力度ランキングで
なんと第39位!!中途半端!!
せめて最下位なら自虐ネタにして知名度上げれるのに・・・
そして山と川がメインの県なので基本的に交通は不便。
付いたあだ名は「陸の孤島」
そんな岐阜県のだいたい真ん中にあるのが郡上市です。
水が綺麗で空気も美味しい!
夏にはユネスコ無形文化財に登録された
徹夜で踊る「郡上おどり」が有名です!
来る者拒まずなので飛び入り参加OK
見様見真似で踊っていれば周りの誰かが教えてくれます!
郡上八幡城や鮎の塩焼きもあるので
ぜひ郡上市へお越しください!!
それでは〜!
本題に戻ります。
病院ができた!
旧林療院は明治37年(1904)に
医師である林吉蔵によって開業しました。
新しさを感じる西洋風の柱や窓が特徴的で
まだ城下町の面影が濃く残る郡上郡(当時は郡)では
とても目立つ存在だったことでしょう。
そして渡り廊下で繋がるのはレントゲン棟。
大正時代にできた棟で
レントゲンの導入は岐阜県内で初でした!
国内初のレントゲン装置は明治43年(1910)なので
10年以内には導入されたということになり
医療に関するモチベーションの高さがわかります。
明治村に同じく明治30年代に長野県木曽郡から
移築された「清水医院」がありますが
比べると林療院は規模の大きい病院だったことがわかります。
郡上医療の基礎を築いた城主
明治時代にこの規模の病院ができた背景には
江戸時代の郡上八幡城の城主の功績があります。
安政5年(1858)
当時、赤痢や腸チフスなどの伝染病が蔓延していました。
そこで城主青山幸哉は西洋医学に力を入れようと決意します。
そして藩校に医学の講座を開設し
優秀な人材は江戸へ派遣しました。
そして明治19年(1886)
当時の「岐阜県医師人名簿」には数百人の登録があり
郡上郡のほとんどの村に医師が存在していて
同じ時期の岐阜県内と比べると医師の数はとても充実していたことになります!
語り継ぐための象徴
今より情報も交通も発達していない明治時代に
岐阜県の山奥で最新医療が受けられた旧林療院。
それは郡上の人々の精神的な支えであったことは間違いなく
その証拠として大正、昭和、平成まで親しまれた病院でした。
江戸時代の城主の想いから始まった郡上医療の発展を知っている人は
年々少なくなっていくでしょう。
その歴史を語り継ぐためにも
この旧林療院は「郡上八幡楽藝館」としてギャラリーなどに活用され残されています。
どこかの誰かが言っていた
「価値とは残したい人がどれだけいるか」
今後もこの病院を頼りにしてきた人々の手によって残され価値が育っていくのかもしれませんね!
Information
もし万が一岐阜県の山奥に来られる際は
郡上市にぜひお立ち寄り下さい!
ここまで読んでいただきありがとうございました😊
また次の記事も読んでもらえると嬉しいです♪
それでは👋
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